4 絵を描く私
美術部の活動が終わって下駄箱へ向かうと、秋津はいつものように真ん中の柱にもたれ掛って待っていた。
左手には小さな文庫本を持って、少し涼しくなった九月の風の中、熱心に本のページに視線を落としている。
「ごめん、待たせたね秋津」
声を掛けると、秋津はパッと顔を上げて私を見た。その手からひらっと栞が落ちて、私の足元に滑り込んでくる。慌てて拾い上げようとすると、同じように手を伸ばしてきた秋津の手に当たった。いつの間にかごつごつと骨ばっていたその指に、私は少しだけびっくりした。
「秋津、また手が大きくなったんじゃない?」
「そうか? 親父の手に比べたらまだ小さい方だぞ」
「そりゃ、お父さんに比べたら背だってまだ低いけど……」
「けど?」
「いや、いいや。何でもない」
自分でもなにが言いたいのか分からなくなって、私はそれ以上気にするのをやめた。ただほんの少しだけ、秋津がいつもと違うような気がした、それだけなのだ。勝手に話を切り上げられて、秋津はちょっと不満そうな顔をしたけれど、すぐに自分の自転車を取ってきて私の隣に並んだ。
「そういや、文化祭では何を描くんだ?」
「え? なに急に」
走り出すなり、秋津から普段はされないような質問が飛んできて、私はちょっとだけ困惑した。私は中学生の頃から美術部に入って、文芸部に入った秋津とは部が分かれたが、お互いの部活の話はあまりしないのが常だった。少なくとも自分から話すことはあっても、相手の部活の内容に踏み込むなんて珍しいことだ。
「なにって、この前学祭の準備で忙しいって言ってたじゃねぇか。何か展示する作品描いてるんだろ?」
「ああ。まぁ……なんて言うか、何を描くかでちょっと難航してるって言うか」
「ふぅん?」
「描きたいものはずっと前からあるんだけど、それをどうやって描こうか悩んでるって言うか」
「どうやって、ってのはなんだ? ただ描きたいから描くんじゃダメなのか?」
「あーうん、まぁ普通はそうなんだけどね」
そう、描きたいものはずっと前からあって、それなりに描き方も勉強している。だからあとは描くだけでいい。けれど、その題材を写真に撮っておいて、そこから画面に起こそうとしていた時、美術部顧問の藤倉先生に「直接モデルを頼まないのかい?」と言われたのだ。
私が描きたいのは、とある人物。けれど改まってモデルを頼むのはなんだか恥ずかしくて、ためらってしまう人物。きっと断られはしないと思っているけれど、果たして本当にそうかも分からない。そもそもその人だって文化祭は部活動で忙しくて、モデルどころではないかも知れない。
そう藤倉先生に話すと、先生は、
「それなら鹿角にモデルをしてもらったらいいんじゃないか?」
と言い出した。
鹿角と言うのは、同じ美術部の三年生、鹿角賢一のことだ。その提案を聞いたとき、正直なところそれでもいいかもしれない、と思ったのは事実だ。けれどすぐに、それはやっぱり違うと思い直した。
「なんだ、要するにまだ交渉もしてないのか」
「そうなんだけどね……」
「言いにくいなら、俺が一緒に行ってやろうか?」
「いや、それはいいよ。そのうち自分で何とかするから」
そもそも秋津に頼める話じゃないし、と心の中で付け足して、私は向かい風に吹かれるスカートを抑えた。
そう、私が描きたいのは秋津なのだ。用意しておいた写真も、秋津が教室の真ん中で本を読む姿を、横から撮ったものだ。素直に頼めばいいのに、と自分でも思うのだけど、なかなか言い出せないのは、あの美術室という空間に秋津を招くこと自体が、私の中で少し抵抗があるからかもしれなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます