9 思い出の中で(後編)

「そっかぁ、そんな小さい頃からカッコよかったんだね」

 鹿角先輩は感心したようにうなずきながら言った。

「同じ歳ってことは、彼もその当時は小学一年生だったってことだよね。すごいなぁ」

 言いながら鹿角先輩は、手近にあった定規を手にして「小学生だから身長これくらいだよね」などと言いながら、自分の背丈と比べていた。今でこそ百七十センチを超している秋津も、当時は私とほぼ同じくらいの身長だった。こうして比べてみると、大人の背中にランドセルをぶつけるなんてかなり力が要ったはずだ、と分かる。

「そうなんです、ほんとにすごくて。もう私、その時は感謝とかより羨ましくって」

「羨ましい?」

「だって、あんなに怖い顔してて、力の強い男の子だったら、私こんな目に遭わなかったのにって思って」

「あっははは、そうか、確かにそうだね」

「でも、そうじゃなかったんです」

「そうじゃなかった?」

「はい、秋津は確かにカッコよかったけど、根っからヒーローってわけじゃなかったんです」


 あの日家まで送ってくれた秋津は、私が鍵を取り出して家に入ろうとしているのを見て、誰もいないのかと聞いた。

 私は「うん」と頷いた。両親が帰って来るのはいつも日が暮れる頃で、当時はスマホなんて持っていなかったから、連絡先も分からない。そう話すと、秋津はちょっと考えるような顔をして、すぐにまた私の手を引いた。

「今日、父ちゃん家にいるから。うちで待てばいいよ」

 そう言われて、私は手をひかれるまますぐ近くにあった秋津の家に向かった。

 玄関を開けると、すぐに秋津のお父さんが現れた。最初は「おっ、どうしたんだ女の子連れて?」とからかうような顔をしたお父さんは、けれど私たちの表情を見て、すぐに顔色を変えた。

 ひとまず家に上がるように言われて中に入り、居間で事の次第を説明すると、お父さんは私と秋津を両腕でぎゅっと抱きしめた。

「よしよし、怖かったなぁ二人とも。無事に帰ってきてえらかったぞ、頑張ったな」

 そう言って背中をさすられて、私は思わず泣きそうになって、慌てて大きく息を吸った。秋津のお父さんが優しい人なのは分かっていたけれど、自分の両親以外の前で泣くのはカッコ悪い気がしたのだ。

 けれどその時、ふと隣を見ると、秋津の目は真っ赤になっていた。彼はいつの間にか、涙で目と頬をぐしゃぐしゃにして、声を殺して泣いていたのだ。


「その時やっと気が付いたんです。秋津も私と何も変わらない、ただの同じ年の子供なんだって。本当は泣きたいくらい怖かったのに、勇気を振り絞って助けてくれたんだって」

 秋津があんなに泣くのを見たのは、その時が初めてで、それ以後は一度もない。物静かで人と揉めることのない性格だったし、私もあの一件以降、秋津と一緒に下校するようになったので、不審者に襲われることもなくなった。

 けれど、今でもあの泣き顔は忘れられない。当時は家が近所だと知っているだけで、何の付き合いもなかった私を、必死で助けてくれた男の子。私が不安になっていると分かって、お父さんに抱かれるまで泣くのを我慢していた男の子。その優しさと強さは、今もきっと秋津の中に在る。

 そんな秋津がそばにいてくれることが、私にはとても嬉しくて、心強くて、少し誇らしい。できることなら私も、あの日の秋津のように強くなりたい、と思ってもいる。


 けれど、だからこそ「秋津と付き合っているのか」と聞かれると、それはまた別の問題だという気がした。

 昔から一緒に下校していることで、男子にはよくからかわれていたけれど、秋津はいつも「だからどうした」と一刀両断していた。女子に「二人は付き合ってるの?」と聞かれても「女子はそういうの好きだよな」と、これまたさらっとかわすのみ。

 私の方でも、「付き合っている」という言葉のなんだかほやほやと浮ついた感じが、秋津と自分の関係には全然そぐわない気がして、やっぱり「違うよ」と答えるしかなかった。

 中学校までずっとそうだったから、私たちの関係はあくまで幼馴染のままだった。


「でも最近、本当にそれだけって言うのも違う気がしてきて」

「うん、そうだね」

 何と説明していいのか分からない気持ちをそのまま伝えると、鹿角先輩は力強くうなずいた。

「そう……そう思いますか?」

「うん、気楽に『分かるよ』とは言えないけどさ、その気持ちは分かる気がするよ。『付き合ってる』って言葉はさ、人にもよるんだろうけど、人間を単純な男と女って関係に当てはめて、それが自分には恥ずかしかったり羨ましかったりしてさ、ちょっとからかうような意味で使う人が多い気がするし。そういう意味で使う言葉なら、相澤さんと秋津くんの関係は、全然違うって思っていいと思うよ」

「そっか……そう、思っていいんですね」

 鹿角先輩の言葉は、沁み込むように私の胸の中にすとんと落ちて来た。今まで一人で考えてきて、ずっと答えが出なかった問題に、反対側から光を当ててくれたような気がして、答えに一歩近づけた気がした。


「うん、大丈夫。でも、これでやっと僕にも分かったよ。この絵は秋津君じゃないとダメなんだ、ってね」

「あ、あはは。やっぱり、問題はそこに戻っちゃうんですよね。うーん、思い切ってモデル頼んだ方がいいのかなぁ」

「まぁ、あんまり悩まなくても、普通にしてればそのうち答えは出ると思うよ」

「そうですか? だといいんですけど」

 そのうち答えは出る。その意味は分からなかったけれど、こうして先輩と話せて、私の気持ちはだいぶ軽くなっていた。

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