8 思い出の中で(前編)

 油絵具はもったりと重い。水で伸ばせば軽やかに画面を走る水彩絵の具と比べると、筆をおいたところにしっかりと張り付き、勢いよく伸ばそうとすれば画面が軽くしなるほど固いこの絵の具は、今の私の気持ちそのもののような気がした。

 今日の朝の事だ。いつものように家を出たところで、たまたま同じ時間に家を出たらしい秋津とばったり会った。それなら一緒に登校しよう、と言われて素直に登校したら、下駄箱で由香里と出くわしたのだ。

「登校も一緒にするようになったんだ!」

と由香里はなぜだか嬉しそうな顔をした。

「今日はたまたまだよ、たまたま」

と私が否定しても、「えー、そんなことないでしょ」と由香里は聞く耳を持たなかった。

どうも子供の頃の話をして以来、由香里は私と秋津を「特別な仲」だと思い込んでいるらしい。けれど今日だって、秋津は家の前で待っていたと言うわけでもなく、本当にたまたま行き会っただけなのだ。

 しかしそう説明すると、私の反応が鈍くてつまらなかったのだろう、由香里は見切りをつけたように秋津に声を掛けた。

「ねぇ秋津くん、やっぱり二人って付き合ってるんでしょ?」

 問われた秋津は、ちらりと私を見やった。その視線に、少しだけドキリとした。本当に一瞬だったけれど、秋津は助けを求めるような、こちらの意思を探るような目をしたのだ。それから少し口を開いて、何か言いかけたあと、すぐにまた閉じた。

 次の瞬間には、秋津はいつもみんなに向ける笑顔に戻って、やれやれと言うように「はぁ」とため息をつくと、

「そういう話はまた今度な」

と言ってひらひらと由香里に手を振り、先に教室へと行ってしまった。


「あれって、何だったんだろ……」

 普段の秋津なら、ああいう質問をされてもすぐ適当に躱してしまうのに、今朝の様子はいつもとかなり違っていた。由香里は全く気付いていなくて「なんかいいように流されちゃった」と不満げだったけれど、秋津は確実に何か言い淀んで、そして言うのをやめたのが見て取れた。

 けれど、彼が何を言おうとしていたのかは分からない。最近の秋津の行動の変化で、思い当たるのは千里の小説を私に見せなかった、そのことくらいだ。二人でいる時にいつもと違う行動に出たことはないし、今朝だって一緒に登校した以外は、普段通りの朝だった。


「相澤さん、筆、止まってるよ」

「え」

 不意に鹿角先輩にそう声を掛けられて、悶々としていた私は我に返った。いつの間にか考え事に集中してしまっていて、画面の中の秋津の横顔に当てていた筆が、数ミリ画面から離れていた。

「どうしたの? 今日は一段と顔色が優れないけど」

 振り返ると、肩越しにこちらを覗き込んでいた鹿角先輩と目が合った。ゆるく弧を描いてすっと筆を払ったような端正な形の眉が、今は心配そうに垂れている。

「ごめんなさい、集中しないといけない時期なのに」

「いや、それはいいんだけどさ。何か困ってるなら話だけでも聞くよ」

 そう言う鹿角先輩の手元に視線を落とすと、さっきまで両手に持っていたモデルと鉛筆を脇の机に置いてきていた。本当に話を聞くために声を掛けてくれたらしいその様子に、私も思わず筆をおいた。


「その、困っているというのとは違うんですけど。でもやっぱり、ちょっと困ってるのかもしれません」

「そっか」

 ふふっと笑うと、鹿角先輩は頷いてくれた。つられて私も笑みを返すと、少しだけ気が楽になった。

「どこから話したらいいのか分からないので、すごくすごく、最初の方から話しますね」

 そう前置きして、私は秋津と自分の出会いから話し始めた。


 小学一年生の頃、私は怖いもの知らずだった。学校の行き帰りは細い路地を探してあちこち冒険していたし、家に帰っても誰もいないからと、ずいぶん遠いところまで足を延ばしていたこともある。道が分からなくても見知らぬ人に話しかけるのは得意だったし、挨拶が良くできる子供だと、周囲には褒められることが多かった。

 けれどある日、いつものように通学路から一本、細い道に入ろうとしたところで、その角に立っていた男の人に、不意に腕を掴まれて路地の中へと引っ張り込まれた。とても強い力で、私は一瞬、車か何かが来そうになっていて、止めてくれたのかと思って「ありがとう」と言った。

 けれど車も自転車も来なかった。表を通る人も一人もいなかった。それに気づいて男の人の顔を見ると、下半分がマスクで覆われていて、見開かれた目がやけにぎょろりと大きく見えた。

 男の人は無言だった。無言で私の腕を引っ張り、路地のさらに奥へと連れて行こうとしていた。不意にその事が怖くなった私は、足を踏ん張ってなんとか堪えようとしたけれど、その途端にわきの下に腕が回され、抱えあげられてしまった。

 咄嗟に声が出せなかった。大声で助けを呼びたいのに、喉から出てくるのはかすれた「いや、いや」という小さな声だけだった。両足をばたつかせ、わきの下に回された男の腕を振りほどこうと引っ張ったけれど、その腕はびくともしない。私は体が震えだすのを感じた。

 その時だった。路地の入口から「おい!」という男の子の声がした。

 同じ小学校の制服を着た男の子だった。その子はすごい勢いで走って来ると、ランドセルを振りかぶって飛びかかって来た。

「ひっ!」と初めて男の人が声を上げた。振り回されたランドセルが、男の人の背中にドスンと音を立てて当たった。その瞬間に腕がほどけ、私は地面に転がった。

 目を回しながら起き上がろうとすると、男の子が私の前に手を伸ばしてきた。咄嗟にその手にしがみつくと、ぐいっと引っ張られて立ち上がり、そのまま私は男の子に手を引かれてその場から逃げ出した。

 男の人は追いかけてきたのかどうかわからない。走って走って、気づくと家の近くまで来ていた。いつの間にか息が切れていた。そこで立ち止まると、男の子は振り返って私を見た。赤い肌の牙の生えた顔と、初めて視線が合った。

「大丈夫か?」

と大人びた調子で言って、彼は私を心配そうに見た。その男の子が秋津だった。


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