10 看板描きの日に
藤倉先生から学祭の大看板の手伝いを頼まれたのは、鹿角先輩に話を聞いてもらった直後の事だった。
「二人とも忙しいのにごめんね。毎年二年の美術部員で描いてたものなんだけど、今年はいないから有志で描くことになったんだ。でも、思ったより人手がなくてね」
グランド側の壁に架ける予定だという看板は、白地に黒のアクリル絵の具で文字だけを描くものらしい。下書きさえきちんとしておけば誰にでもできそうなのだが、そもそも美術部員がいないことから分かる通り、美術には苦手意識の強い人が多いらしいのだ。そのため人が集まらず、私たちに応援を頼んできたのである。
「いいですよ、相澤さんも息抜きにいいんじゃない?」
「そうですね。手を動かしてる方が気が楽だし」
そんなわけで始まった看板描きは、しかし思ったより難航した。
まず集まった生徒の大半が、看板に使うアクリル絵の具に馴染みがなく、どう扱っていいのか分かっていなかった。水を混ぜればけっこう伸びる絵の具だし、逆に厚く塗れば油絵の具のように盛り上がるので、ほどほどに水を加えて薄く延ばしながら塗ればいいのだが、これが全く伝えられていなかった。
缶で渡されたはずの絵の具があっという間になくなったというので、様子を見に行くと、絵の具が盛大に盛り上げられていたのだ。平らなキャンバスに張ったままで使うのならともかく、風にはためく看板にそんな塗り方をしたら、絵の具が割れて落ちてしまう。これを修正するのにかなりの手間がかかった。
汚れ防止のエプロンなどを用意している人も少なかった。アクリル絵の具は一度付いたらなかなか落ちないし、乾いてしまったらもうほぼ落とすのは不可能だ。なのに制服のままやって来て、シャツの袖やスカートが汚れたと大騒ぎする人も少なくなかった。ジャージに着替えてくるように言ったが、「言うのが遅い」と文句を言われるありさまだ。
そもそもみんな、どことなく遊び半分でやって来ているので、作業は一向に捗らない。私と鹿角先輩の二人で描いているところはサクサク進んで、他のメンバーが五人がかりで描いているところの倍のスピードで描き上がっていった。
そんなこんなで看板描きが始まってから、私は毎日最終下校時刻ギリギリという、遅い時間に帰ることになった。初日は下駄箱でいつも通り待っていた秋津も、立ちっぱなしが疲れたのだろう、部室で待つとスマホで連絡をしてくるようになった。
一度は「俺も手伝いに行こうか?」とまで言ってくれたが、さすがにそれは申し訳ないので断った。秋津の選択科目は書道なので、筆は扱いなれていると知っていたが、惨憺たる部屋のありさまを見ていると、真面目な人ほど迷惑をこうむりそうで、手伝いを頼みにくかったのだ。
そんな日が五日続いた夕方のことだった。
看板にようやく目途がつき、あと二日もすれば描き上がるというところまで来て、私はホッとしながら文芸部の部室へ向かった。金曜日なので、明日は休みということで少し解放感もあって、私の足取りは軽かった。
しかし部室の前まで来て、私はその場に立ちすくんでしまった。
既に日の暮れかけた部屋の真ん中に、秋津と一緒に千里がいた。一度も喋ったことはないけれど、姿だけは遠目に何度も見ていた彼女は、長い髪を後ろで一つに括っていて、スカートも長いのですぐに分かった。彼女は何事か楽しそうに目を細めながら、立ったまま秋津と話している。席に座っている秋津の方も穏やかに微笑んで、頭をもたげて千里の目を真っすぐに見ていた。
ガラス越しで声は聞こえてこなかったが、秋津は本を閉じていた。そうしてきちんと向かい合ってお喋りする相手というのは、とても珍しいということはよく知っている。私自身、本に夢中の秋津に声を掛けると、本に視線を落としたままおざなりな返事をされることがよくある。そうでなくとも、手元に本があるのに、話をすることの方に夢中になる秋津など見たことがなかった。
どうしよう、と私は迷った。待たせているのだから声を掛けないと、秋津は帰るに帰れないという事は分かっていた。けれど今声を掛けたら、あんなに楽しそうな秋津の時間を壊してしまう。いや、迷っているのはそんな事じゃない。私はたぶん、声を掛けられて二人がどんな顔になるのか、それを見るのが怖いのだ。
ふとそう自覚した瞬間、窓ガラスの向こうで、千里が秋津の頭に手を伸ばした。まるで子供の頭を撫でるように、柔らかく伸ばされた手。その手が秋津の頬に滑り降りようとしているのを見て、私は思わずドアに飛びついていた。
「あ、秋津!」
ガラッと勢いよくドアを開けると、二人はびっくりしたように振り向いた。その時初めて、千里と目が合った。黒々とした大きな瞳が、真っすぐこちらを見ている。綺麗な目だった。
その目を見た瞬間、私は何てことをしたんだろうと思った。彼女が秋津を好きなのは知っている。私のように秋津と二人で過ごす時間などなくて、今のように一緒に笑いあって過ごす時間が、彼女にとってどれだけ貴重なのかも分かる。なのに、なぜかどうしても見ていられなかった。見ていたくなくて、焦って壊してしまった。
頬がカッと熱くなった。いたたまれなかった。一瞬前の自分を止められるなら止めたい、と強く思ったけれど、そんなことはどうしたってできない。
「茅、やっと終わったのか。お疲れさん」
突然大声で名前を呼んだ私をどう思ったのか、秋津はいつも通りにそう言って立ち上がった。その隣にいた千里は、まだ少し驚いた顔のままだったけれど、秋津に「じゃあ、俺帰るから」と手を振られると、「うん、気を付けて」と手を振り返して教室から出て行った。
彼女は真っすぐに廊下を進んでいって、角を曲がるまで一度も振り返らなかった。
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