三毛猫帝国の苦悩
柳明広
1 根鈴村(ねすずむら)
足もとを茶トラの猫が駆け抜けていく。立原康介(たちはら・こうすけ)はその様子を黒縁の眼鏡を通してぼんやりと見送った。猫は草むらに飛びこみ、しばらくはがさがさと音が聞こえたが、やがて気配も感じなくなった。
自分と同じように、ランドセルを背負った児童が学校に向かって歩いていく。児童の数は一年生から六年生まで集めても二十人程度。中学生は十三人しかいない。そのため、十年前に小中学校はひとつに統合された。
この村……根鈴村(ねすずむら)は、今ちょっとおかしな状態にあると康介は思っていた。そのことには、中学生の先輩たちはおろか、教職員、村の大人たちも気づいていないようだ。それとも、僕の考えがおかしいのだろうか。康介は不安をおぼえながら、学校に向かった。
根鈴小中学校のひとつの教室に、小学生二十人が集まっていた。六月に入ったばかりだというのに暑い日が続くため、窓は開けっぱなしになっている。
自分の席につくと、康介はランドセルから文庫本を取りだし、読みはじめた。康介に話しかける者はいない。無視されたりいじめられたりしているわけではないのだが、クラスの中で、康介は空気のような存在になっていた。いつから、どうして。それは康介にもわからなかった。ただ自分ひとりが、クラスという集まりの中の陥穽に落ちてしまったのだ。
それでも、たまに声をかけられることがある。だがたいていの場合、嫌味を言われたり、頭を小突かれたりするだけなので、今のままほうっておいてもらった方が康介にとってはラクだった。
来年になれば中学生だ。そうすれば、何か変わるだろう。
康介は窓から空を見あげた。太陽は強い光をはなっている。
何かが変わる? もう変わりはじめているのではないだろうか。康介の不安はふくらむ一方だった。なぜこんなことに気づいてしまったのだろうか。気づかなければ、穏やかな日々が続いたはずなのに。
康介はランドセルから、ノートを取りだした。「夏の自由研究」と書かれたノートは、七月からはじまる夏休みの宿題の予行演習として作ったものだ。
今日、生徒たちは、この夏にどんな自由研究をするか、その概要を担任の先生に説明することになっていた。先生や生徒たちは研究したいことを聞き、アドバイスをする。いわば、自由研究の「前段階」だ。先生や生徒たちのアドバイスや疑問にこたえたり、メモをしたりすることで、よりよい自由研究ができるようにと、先生は考えているようだ。康介はこの前段階を、一年生のころから続けてきた。
これはこれで意味のあることだと康介は思っていた。ただ、今年は、自由研究を発表するのが少しこわかった。頭がおかしいとか、変だとか、言われるのではないかと思ったからだ。
だが、康介にとって、この課題は喫緊の問題だった。一度考えはじめたらとまらなくなるほど、自分を不安にさせる。もし、先生や生徒たちのアドバイスや疑問によって不安をぬぐいさることができたなら、それはそれでいいと思っていた。
黒縁の眼鏡を指で軽く整え、康介はため息をついた。せめて、変な奴だと思われませんように。
授業がはじまるベルが鳴った。同時に、担任の安藤義弘(あんどう・よしひろ)が教室に入ってきた。
「おはよう、みんなそろってるか? 出欠を取るぞ」安藤は出っ張った腹を揺らしながら言った。
安藤義弘は今年で三十六歳になる。小太りで、優しい先生だ。ルックスも悪くはないが独身だ。根鈴村のような限界集落の教師などしていれば、そうそう出会いもないのだろう。
「みんな来てるな。今日は夏の自由研究について話をしようと思うが、みんな、何について研究するか決まったかな?」
決まったよー、と低学年の生徒が声をあげる。安藤は笑いながら、それはいいことだと言い、
「決まってなくても別に構わない。時間はまだあるからね。今日の時間を、研究内容を決める時間にすればいい。じゃあ、順番に発表してもらおうかな。こまかいことは気にしなくていい。こんなことを研究したい、と話してくれれば。簡単だろう?」安藤は笑顔を見せた。
本来、自由研究はひとりで考えるものだが、それはなかなかハードルが高いだろうと考え、「前段階」を作ったのが安藤だった。そのおかげで、研究したいものが見つかったり、より深く研究ができたりと、とても助かったという生徒は多かった。この点にかんして、康介は安藤担任に感謝していた。
低学年の発表からはじまった。低学年の生徒たちは、まだ研究内容が決まっていない子が多く、安藤や高学年の生徒がアドバイスすることが多かった。
難しいことはできないため、朝顔の観察や虫の生態の観察などがいいのではないかという案があがった。根鈴村は山と森に囲まれているため、虫をつかまえるのは簡単だった。
「虫をつかまえるのはいいけど、山の奥には入らないようにね。それと、お父さんかお母さんといっしょに行くこと。わかった?」
はーい、と低学年の生徒たちは大きな声で返事をした。すなおだなあ、と康介は半ばあきれぎみにその様子を見ていた。自分も昔ああだったのだろうか。おぼえていない。
「じゃあ次は、秋山君」
安藤に呼ばれ、立ちあがったのは、秋山太一という男子生徒だった。康介と同じ六年生で、見た目は安藤同様小太りだが、安藤とちがい、運動が得意で力も強い。低学年のころは、同級生をよく暴力で泣かせていた。古い言葉で言うなら「ガキ大将」的な存在だ。
「僕は今年の夏、ハワイに行きます」教室内がどよめいた。太一は自信満々に「そこで、石をたくさん拾ってきます。たくさん拾って、根鈴村の川の石とどうちがうのか、比べてみたいと思います」
安藤はうなずきながら太一の話を聞いていた。「面白いね。日本の石と外国の石、何かちがいがあるかもしれないね」
「それを探してみたいと思います」
「みんな、秋山君の自由研究についてどう思う? 何か疑問とか、こうした方がいいとか、あったら言ってみてくれ」
しばらくのあいだ、みんな黙っていた。ハワイへ行くという太一の言葉に、気圧されている様子だ。子供たちがこの小さな村から出る機会は少ない。隣町を飛びこして外国へ行く太一に、いいなあ、という羨望にも似たまなざしを向けていた。
「えっと」康介はおずおずと手をあげた。
「はい、立原君、どうぞ」安藤が言った。
「石を比べる、と言ってたけど、どうやって比べるの?」
「それは、根鈴村の石をいくつか持っていってだなあ……」
「日本のものをハワイに持ちだして大丈夫なの?」康介は言った。「日本から持ちだせないものもあったと思うけど」
「そのときは、ハワイから日本に石を持ってくる」鼻息あらく太一は反論した。
「それも同じだと思うけど」康介は安藤の方を見た。「先生、大丈夫なんでしょうか」
「うーん、先生も詳しくは知らないな」安藤は指で頬をかいた。「貴金属じゃなければ大丈夫だとは思うけど……秋山君、日本から持ちだせるもの、逆に持ちこめるものを調べるのも大切だね。日本にもハワイにもある石に着目したのはいいけど、そのへんもきちんと調べるように」
「はぁい」太一はおざなりに返事をし、席についた。ちらりと康介の方を見やる。その表情には、よけいなこと言いやがって、という感情がありありと浮かんでいた。
康介は肩をすくめた。太一はおそらく、「ハワイに行く」ということを自然な形で自慢したかっただけで、石は二の次だったのだろう。羨望のまなざしを集めたかったのに、康介によけいなことを言われ、気分を害したようだ。
「それじゃあ次は、立原君」安藤は言った。「発表してくれ」
はい、と言って、康介は立ちあがった。「僕は根鈴村に生息している『猫』について調べてみたいと思います」
誰も何も言わなかったが、安藤は興味をひかれたのか、表情を変えた。
「猫か。特にめずらしいものじゃないけど、どうして猫を研究対象にしようと思ったのかな?」
「僕の思いすごしならいいのですが」康介は言った。「最近、野良猫が増えてきているような気がします。はじめは誰かが捨てて、繁殖して増えたのだと思いました。でも、子猫の姿がほとんどないことに気づきました。だから、誰かが大量に猫を捨てたんじゃないかと思いました」
「……続けて」
「でも、それもちょっとちがうと思いました。うちには、クロという猫がいます。家の中ではなく、外で自由に遊ばせています。毎日山や森の中を駆けまわって、ごはんのときになると帰ってきます。半分、野良みたいな猫です」
「そのクロ君が、どうかしたのかい?」
「もし大人の野良猫が増えているなら、クロは絶対に喧嘩をして、怪我をして帰ってくるはずです。でも、クロには喧嘩をした様子がありません。背中や脚、尻尾、顔などをよく見ましたが、どこも怪我をしていません。野良猫と飼い猫が鉢合わせになって、喧嘩にならないなんてことがあるとは思えません」
みんな、黙って康介の話を聞いていた。何か言ってやろうと身構えていた太一ですら、黙っていた。
康介は思いきって、自分のいだいている「根鈴村のおかしな状況」について話すことにした。「この野良猫たちは、変です。いつの間にかやってきて、もの凄く数が多いのに、クロのような先に住んでいた猫と喧嘩をしない。何だか、気持ち悪いです」
「その気持ち悪さの原因を突きとめたい。そういうことかな?」
康介はうなずいた。
「みんな、立原君の自由研究について、思うことがあったら言ってみてくれ」
誰も何も言わなかった。低学年の生徒は康介が言っていることの意味が今ひとつ理解できないようだったし、太一をはじめとした六年生も口をはさめないようであった。
「じゃあ先生から、いいかな」安藤は言った。「立原君の研究は、きちんとまとめられればもの凄く面白いと思う。でも、本当に野良猫が増えているなら、それをどのように調べるか考えるだけでも大変だ。目のつけどころはいいけど、本当にやれそうかい?」
「やれるかどうかはわかりません。でも、やってみたいんです」康介は恥ずかしそうにもじもじと身体を動かし、「その……おかしなことをほうっておくのは、気持ち悪いんで」
「そうか。じゃあ、何も言わない。やってみるといい」安藤は微笑んだ。「その代わり、行きづまったり、わからないことがあったりしたら、遠慮なく先生に訊きなさい。これはみんなもいっしょだよ。どうしてもわからないことがあったら、先生に訊きなさい。あるいは、仲のいい友達でもいい。相談する、相談できる、ということも、自由研究では大切なことだから」
はーい、と生徒たちは返事をした。
康介が席について息を吐いていると、太一が刺すような視線を向けていることに気がついた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます