2 クロ
時間が経つにつれ、学校内の生徒の数は減っていく。低学年は四時限目で、中学年は五時限目で帰ってしまうからだ。上階からは中学生の声が聞こえるが、康介の教室にはもう、六年生が数名しかいない。
終業を告げるベルが鳴った。
「じゃあ、今日はここまで」安藤が言った。「寄り道はせず、まっすぐ帰りなさい。明日は宿題の提出を忘れないように」
全員、立ちあがり、「先生、ありがとうございました」と礼をする。それが解散の合図だった。
根鈴小中学校には、残念ながらクラブ活動というものが存在しない。生徒数が少ないため仕方がないのだが、その代わり、運動場や図書室は開放されている。生徒たちはボール投げや鬼ごっこをしたり、高校受験をひかえる中学生は図書室で勉強をしたりしている。
早く帰ろう、と康介はランドセルを背負い、教室を出た。自由研究の内容について、安藤からお墨つきを与えられたこともあり、色々なことを早く調べたいという気持ちでいっぱいだった。
足早に学校の敷地を出て、家へと向かう。山と森に囲まれた根鈴村はのどかで、田んぼや畑がどこまでも広がっている。その中に、民家がぽつん、ぽつん、と建っていた。行きかう人の姿はなく、ときおり、軽トラが康介を追い抜いていった。
畑の中から、猫が飛びだしてきた。猫は驚いたように目をまんまるにして康介を見つめていたが、すぐに興味を失い、反対側の畑へ飛びこんでしまった。
康介の進行方向から、黒い猫と白い猫が並んで歩いてくる。堂々とした足どりで、康介を警戒している様子はまったくなかった。むしろ、「いたずらでもするつもりなら、やってみろ」と挑発されているかのようだった。猫たちは康介を一瞥もせず、通りすぎていった。
やっぱり、増えてるよなあ。
と思った瞬間、背中に衝撃を受け、康介は地面に倒れこんだ。いたた、とうめき、身体についた汚れを払いながら振り返ると、秋山太一と、その友達である寝屋川時雄(ねやがわ・ときお)が立っていた。康介は太一にランドセルを蹴られた。
「何、いきなり」康介は努めて冷静にたずねた。
「何、じゃねえよ、手抜き野郎」太一が言いはなった。
「手抜きって何。僕は秋山君に蹴られるようなことは何もしてないんだけど」
「あの自由研究のことだよ」
返事をしたのは、寝屋川時雄だった。ひょろりと背の高い少年で、癖なのか、身体をいつも左右にゆっくりと揺らしている。
「自由研究で手抜きって、まだ調べもしてないのに手抜きも何もないじゃないか」
「テーマが手抜きだって言ってんだよ!」太一は怒鳴った。「何だよ、猫って。猫飼ってるからって、近場ですませやがって」
「別にうちの猫を研究するわけじゃないんだけど」
「うるせえ! 俺はな、ハワイまで行って自由研究するんだぞ! それに比べたら、お前は手抜きもいいところだ!」再び太一が怒鳴った。
ああなるほど、と康介は立ちあがった、
太一は康介に、研究にけちをつけられたと思っているのだ。そのうえ、康介の研究は大変なことだと安藤が言ったため、結果として太一の研究が見劣りするものになってしまったと感じているのだ。
まあ、おそらくは「ハワイへ行く」という自慢が康介によってつぶされた、というのが怒りの本当の理由なのだろうが。
康介は立ちあがると、太一をまっすぐ見つめた。
「自由研究ってさ、自分が本当に気になることをやるもんだと思うよ」康介は言った。「自慢するためとか、誰かより上だって示すためにするもんじゃないと思う」
「うるせえ! この手抜きの屁理屈野郎!」
ガツン、と太一は拳で康介の頬を殴った。黒縁の眼鏡が飛び、地面に落ちる。康介は尻餅をついた。太一は力が強い。力で喧嘩をしても勝てない。
「ひゃー、いい画が撮れたー」時雄がスマホを構えて歓喜した。「これSNSに流しちゃおっかなア」何が面白いのか、時雄はにやにやしている。
黙っていれば殴られることもないのに、康介はいつも反抗してしまう。理由は簡単だ。理不尽なことに黙って従うのは、我慢ならないからだ。本の虫で肉体的には弱い康介だが、反抗する気概はあった。
「手抜きもしてないし、屁理屈も言ってない」康介は殴られた頬をかばうこともなく、太一をまっすぐ見つめた。「僕は、僕が調べたいと思うことを調べるだけだ」
「こいつ、まだそんなことをっ」
「秋山君、今日こそ徹底的にやっちゃいましょうよそんな奴」時雄が太一の後ろからあおった。「お前、ちょっと勉強できるからって生意気なんだよ」
太一はにやりと笑い、尻餅をついている康介の胸ぐらに手を伸ばした。
ひゅっ、と白いものが太一の指をかすめた。ひっ、と太一は小さな悲鳴をあげ、手を引っこめる。
一匹の猫が、太一と康介のあいだに立ちはだかった。白を基本に、茶色と黒の毛がまじった三毛猫だ。顔はハチワレに近いが、鼻を中心に黒い模様が広がっている。まるで、墨を落としたかのようだ。
突然現れた三毛猫は、じっと上目遣いに太一を見つめていた。威嚇するわけでもなく、かといって甘えるわけでもない。ただ、「ここから先は通さない」という意志のようなものを感じさせる目をしていた。
「な、何だこいつは」太一は引きつったような笑みを浮かべた。「猫なんかにビビるかよ。人間様なめてんじゃねえよ!」
太一が足を踏みだした。その瞬間。三毛猫の前足が動いた。目にもとまらぬ、右から左への横殴り。
康介は太一の足を見た。太一も時雄も同じ場所を見た。
太一の靴の靴紐がきれいに切断されていた。三毛猫の爪によるものだ。ここまで切れ味の鋭い爪を、康介は見たことがなかった。
それは太一たちも同じだったらしく、「ひいっ」と情けない声をあげて三毛猫からはなれた。「化け猫!」と叫んで、二人は逃げだしてしまった。
康介はしばし呆然としていたが、立ちあがると、尻についた汚れを払った。
「クロ?」康介は三毛猫に話しかけた。三毛猫の耳が、わずかに倒れる。「ありがとう。助けてくれたんだね」
クロと呼ばれた三毛猫は、康介を振り返ると、にゃん、と小さく鳴いた。康介のことを心配しているように見え、康介は少し笑ってしまった。
クロは康介の家で飼っている猫である。飼っているといっても、室内で飼っているわけではなく、放し飼いをしている。危険はあるが、自然の中で自由に生きさせた方がクロのためだと、康介の家族は思ったのだ。
もともと、クロは野良猫だった。立原家に居座り、あっという間に家族に溶けこんだ。はじめはやせていたが、餌を食べるごとに大きくなっていき、今では立派な成猫だ。
そんなクロだが、三毛猫なのに、雄である。三毛猫はほとんど雌で、雄は非常にまれなのだと両親から教えてもらったことがあった。クロは特別なんだな、とまだ小さかった康介は思った。その気持ちは今も変わっていない。
康介はクロをだきあげると、腹や顔、背中に傷がないか調べた。「喧嘩、してないか? 最近野良猫が増えてるだろ。お前は喧嘩っぱやく見えるから、心配だよ」
クロはすました顔で康介を見あげていた。喧嘩っぱやいというのは康介がいだいているただの印象で、クロは野良猫と仲よくする、高度なコミュニケーション能力を持っているのだろうか。案外、あの野良猫たちのボスになっているのかもしれない。何しろ、あんな規格外の切れ味を持つ爪があるのだ。普通の野良猫など一瞬でやられてしまうにちがいない。
「もう帰るか? 姉ちゃんも帰ってくると思うし、ごはん食べようか」
康介が言うと、クロは耳をぴんと立てた。ごはん、という言葉に反応したのかと思ったが、クロは康介の腕の中からぴょんと飛びだすと、畑の中に消えてしまった。
「クロ? おーい、クロー」呼んでみたが、クロは帰ってこなかった。
三毛猫帝国の苦悩 柳明広 @Yanagi_Akihiro
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