11 夏休み

 安藤から与えられた算数のプリントを解きながら、康介の頭の中では野良猫の話が渦巻いていた。

 すでにあちこちで野良猫の存在が認知されている。犬とちがい、人を襲うようなことはないと思いたいが、御華屋神社での威嚇を思いだすと、いずれ襲いかかってくるのではないかと康介は思った。

 一番乗りでプリントを解き、安藤に提出した。康介は机に戻り、窓の外を見やった。窓は開いているが、猫の鳴き声は聞こえない。昼間はどこか涼しい場所で寝ているのだろうか。……あれだけの数の野良猫が?

 以前、港に群がる野良猫の映像をTVで観た。売り物にならない小魚をもらい、取りあっている映像だ。根鈴村で取れるものといえば、野菜ぐらいだ。そんなもので食いつなげるとは思えないので、野良猫たちは山の中で狩りをしているのだろう。

 あるいは、クロのように、誰かの家に飼われているか。

 それはないな、と康介はかぶりを振った。野良猫は一匹や二匹じゃないのだ。大挙して押し寄せたら悲鳴をあげるだろうし、村中大騒ぎになるはずだ。

 そもそも、野良猫はどこから来たのだろう。やはり、茜の言っていた多頭飼いの崩壊だろうか。

 康介は図書室で猫のことを調べたり、運動場や校舎裏をうろうろ歩きまわって猫を探したりしたが、どこにも猫の姿はなかった。

 授業が終わり、康介はひとり、帰路についた。今日は太一も時雄も絡んではこない。クロに切られたことがよほどこわかったのだろうか。びくびくする太一のことを考えると笑ってしまうが、もしクロが太一の身体を傷つけていたら大事になっていたところだ。あのとき、注意すればよかったと康介は少しだけ後悔した。

 バスが康介を追い抜いていく。百メートルほど先のバス停でとまり、茜が姿を現した。

「ちょっと康介ー」茜が怒ったように言った。「窓から手振ってるのに、全然こっち見ないじゃん。下向いて歩いてると背中が曲がるし、背伸びないよ」

 背が伸びないというのは初耳だ。康介は意識的に背筋を伸ばした。「お帰り、お姉ちゃん」

「うん、ただいま」

 康介と茜は並んで歩きだした。

「あのさ、多頭飼いの崩壊について、高校の友達に訊いてみたんだけどさ」

「うん」

「今度の休みに、ちょっと行ってみない?」茜が言った。「もうすぐ夏休みだし」

「え、いいの?」

「私もついていくからさ、お母さんもお父さんも駄目だって言わないよ」茜は言った。「自由研究なら、現場を見ておくのもいいんじゃない?」

「多頭飼いの崩壊って、やっぱり起こったの?」

「えーっとね、噂だけどね。場所は聞いたから、いっしょに行く? それとも私ひとりで行こうか?」

「行く!」勢いこんで康介は言った。「現場を見られるなら行く!」

「自由研究の役に立つかどうかはわからないけどね」茜は言った。「じゃあ来週、夏休み最初の週末に」

 夕方だというのに、日はまだ高く、山の上にある。康介と茜の影が、アスファルトの上に長く伸びていた。


 時間はあっという間にすぎ、康介たちは夏休みを迎えた。

「みんな、宿題はちゃんとするように。あと、川などで遊ぶときは十分注意すること。いいね?」

 安藤の言葉に生徒たちは、はい、と返事をし、宿題のプリントを受けとって解散した。

 そして夏休み最初の週末、土曜日に、康介は茜とともに隣町へ行くことになった。

「そういえば、お姉ちゃんと隣町へ行くのってはじめてだ」

「そうだっけ?」茜は意地の悪い笑みを浮かべ「人ごみで目をまわさないようにね」

 人ごみ、って言っても、隣町は地方の小都市じゃないか。人づてに聞いた話だが、康介は何も言わずに黙っておくことにした。

 バスの一番後ろの座席に二人で座ることにした。バスに乗っているのは康介と茜だけだった。根鈴村の人間はみな、自家用車を持っている。バスに乗るのはお年寄りか高校生ぐらいのものだ。

「もし、さあ」康介が言った。「村から子供がいなくなったら、バスもなくなっちゃうんじゃない?」

「それはあるかもね。でも、困る人もいるから、本数を減らして、残るんじゃない?」

「残ればいいけどなあ」康介は窓の外を見た。

 村には日用品を買える小さなスーパーのような店がひとつだけある。コンビニはない。まさに限界集落だ。車が運転できなくても、自転車に乗れれば生活はできるが、それすらままならないお年寄りは、徒歩で行けない場所へ行くにはバスを頼らなければならない。

 人間が住みづらくなっていくなあ、と康介は嘆息した。

 父と母の話によると、昔はこうではなかったらしい。田舎であることにはちがいないが、子供は多く、若い家族連れがあちこちに住んでいたため、それなりに賑わっていたそうだ。だが、少子化のあおりを受け、今ではこのありさまだ。

「そのうち、野良猫に占拠されたりして」

 康介がぼそっとつぶやくと、茜が「こわいこと言わないでよ」と怒った。

「あ、ほら、もうすぐトンネルよ。あそこを抜けたら隣町」茜が前方を指さした。

「それぐらい知ってるよ」康介は苦笑した。

 オレンジ色の照明が、窓の外を一色に染めあげた。お姉ちゃんは毎日ここを通って学校へ行ってるんだなあと、当たり前のことを考えた。

 トンネルを抜けると、隣町が見えた。とはいっても、高いビルなどは数えるほどしかなく、畑がマンションやアパート、公園などに置きかわっただけのように見えた。根鈴村同様、周囲は山で囲まれており、もっと大きな街へ行くには、鉄道かバスで山を抜けなければならない。地方都市といっても、本当に小さな町であった。

「で、多頭飼い崩壊があった場所って?」

 えっとね、と茜はスマホを取りだした。友達から聞いた住所を出しているらしい。「次のバス停でおりましょう。そこから、徒歩で十分ぐらいのところみたい」

 康介と茜はバスをおりると、スマホに従って歩きはじめた。すぐに商店街が見えはじめ、根鈴村にはない賑わいが二人をつつんだ。

 日差しが強い。康介は朱夏から持たされた日傘をさした。茜もいつも使っている日傘をさした。

 しばらく歩き、目的の場所にたどりついた。

「……ここ?」

「の、はずなんだけど」茜は困惑気味であった。

 康介たちの目の前にあるのは、白い壁に猫の顔が描かれた喫茶店であった。いわゆる「猫カフェ」というものだ。営業中らしく、窓から中をのぞくと、従業員や客の姿、様々な模様の猫の姿が見えた。

「何か、聞いてた話とちがうんだけど」

「おかしいなあ」茜はスマホを見た。「ひとまず入ってみる? そろそろお昼だし、お腹すいたでしょ」

 言われてはじめて、康介は空腹を感じた。知らず知らずのうちに、村を出ることに緊張感をおぼえていたらしい。

 茜は店のドアを開けた。からんからん、という音とともに、いらっしゃいませーと従業員があいさつをした。二人は適当な場所に座り、メニューを手に取った。料理のほかに、カフェにいる猫たちとの触れ合い方についても書かれていた。

 ひとつ、大きな音を出さないでください。

 ひとつ、無理やりだっこしないでください。

 ひとつ、猫から来るのを待つとよいでしょう。

「なかなか面倒だね」康介は言った。

「クロにやってること、全部駄目だって書かれてるような気がする」茜は言った。「とりあえず、猫はほっといて、お腹にたまりそうなもの食べましょ」

 茜はそう言ったが、ここはあくまで「猫のカフェ」なので、人間用のメニューというものがあまり充実していない。とりあえず、紅茶と、パンケーキを頼んだ。

 康介は店の中をうろついている猫に目を向けた。リラックスした様子で店の中を闊歩している。人が来ることになれているのだろう。そういえば、クロはあまり人になれていなくて、知らない人が来ると逃げだすことがあった。かなり昔の話だが、今はどうだろう。クロもすっかり大人になったのだから、少しは落ちついただろうか。先日は助けてもらったが、友好的に人間とつきあえるかどうかと問われると、疑問だ。

 あの、と茜は女性従業員に声をかけた。「ちょっとおうかがいしたいことがあるんですけど」

「はい、何でしょうか」

「このあたりで、猫の多頭飼いが崩壊した、という話を聞いたんですけど」

 女性従業員はきょとんとした顔になり、首を傾げた。「さあ……そういうお話は聞いたことがありませんが」

「このあたりで起こったことだと聞いたんですけど」

「少々お待ちください」

 女性従業員は厨房へ引っこんでしまった。中から声が聞こえるが、何と言っているのかはわからない。

「よけいなこと訊いちゃったんじゃない?」康介は不安になってきた。

「いやべつに営業妨害してるわけじゃないし」茜は厨房を見やり「大丈夫だと……思うよ。たぶん。きっと。おそらく」

 しばらくして、さっきの女性従業員が戻ってきた。「すみませんお客様、そういうお話は誰も聞いたことがないようで……」

「あ、わかりました。すみませんおかしなことを訊いて」

 いえいえ、と女性従業員は手をぱたぱた振り、「今日は猫ちゃんたちと楽しんでいってくださいね」と言って立ち去ろうとした。

 その足が不意にとまった。女性従業員は天井を見ている。何かを思いだそうとしているようにも見えた。

「あの、お客様」女性従業員が口を開いた。「多頭飼いではないのですが、ちょっと思いだしたことがあります」

「え、何ですか」

 茜がたずねると、女性従業員は腰をかがめ、顔を近づけてきた。茜と三人で秘密の話をしているかのようだった。実際、そのとおりなのだが。

「以前このあたりを、大勢の野良猫が爆走している姿を見たという人とお会いしたことがあります」

「猫が爆走、ですか」康介が言った。

 はい、と女性従業員はうなずき「その方はサラリーマンで……ぶっちゃけると私の父なのですが……お酒をたっぷり飲んで帰ってくる途中だったんです」

「ふんふん」茜は興味深そうにうなずいた。「それで?」

「目の前を、数えきれないぐらいの野良猫が通りすぎていったそうです。それも、もの凄いスピードで。爆速で」

「どれぐらいの数ですか?」茜がたずねた。

「正確なところはわからなかったみたいですが、父は『猫の川ができたみたいだった』と言っていました。それも、相当長かったそうです」

「猫の川」康介はつぶやいた。それはもの凄い数ではないだろうか。

「まあ、その、父は相当酔っていたので、何かと見間違いをしたのかもしれませんが」女性従業員は予防線を張ったうえで「お役に立てたでしょうか」

「あ、はい、十分。ありがとうございました」女性従業員が去ったあと、茜は「どう思う?」と康介にたずねた。

「どう思うって」康介は店内を見わたした。どこを見ても猫だらけだ。「もし、そんな数の猫が一度にどこかへ行ったのなら、この町から猫がいなくなっちゃうんじゃないかな」

「それは私も思った」茜は言った。「あのね、関係ないと思って言ってなかったんだけど、ここ二、三か月ぐらい、高校のまわりで猫を見かけてないのよ」

「前はいたの?」

「二、三匹はいた。でも、いつの間にかいなくなってた」茜は少し青ざめた表情で「これってやっぱり」

「トンネルをくぐって根鈴村に来て……」

「御華屋神社を住処にしてる」茜は自分で言って、ひっ、と小さな悲鳴をあげた。「じゃあやっぱり、神社で見たの、あれ猫だったんじゃない。こわっ」

「でも、仮に猫が大移動したとして、原因は何だろう」康介は首を傾げた。「原因がないと、根鈴村には来ない。だって、ここはここで暮らしの基盤があったはずなのに」

「基盤、て難しい言葉知ってるのね、あんた」茜はあきれたようだった。「ま、もうちょっと調査してみましょうか」

 パンケーキをたいらげたあと、猫たちにわかれを告げてから外へ出た。日傘をさすが、それでも暑い。熱中症には注意が必要だ。

 康介が何げなく向けた視線の先に、気になるものがあった。

「お姉ちゃん、あれ、何かな」康介は指を指した。

 山の一部が崩され、重機の姿が見えた。今は昼休み中なのか、動いている重機も、歩きまわっている人影も見当たらなかった。

「ああ、何かあそこにマンションを建てるみたいよ」茜が言った。「ここは根鈴村とは全然ちがうけど、人口がじわじわと減っているんだって。だから、家族連れが住みやすいマンションや一戸建てを建てるために、山の一部を崩してるの」

「環境破壊」康介はつぶやき、茜を見あげた。「ひょっとして、住処をつぶされたんじゃないのかな、野良猫たちは」

「……ありえるわね」茜が神妙な顔つきで言った。「ここが東京みたいな本格的な都市なら、多少自然が壊されても野良猫は生きていけるでしょうけど、山に囲まれたこの町じゃあ、山から餌を得ている猫も多かったかもしれない。だから、根鈴村に逃げたのかな」

「集団で?」康介が言った。「猫が集団で行動するなんて聞いたことないよ」

 猫は基本的にマイペースな生き物だ。集団行動をせず、単独で狩りをして暮らしてきたと言われている。そんな猫が、一度に、大挙して押し寄せてきたりするだろうか。

「猿ならありえると思うけど、猫はちょっと考えにくいわね」

「猫にもボスがいる可能性は?」

 うーん、と茜は渋面を作ったが、やがてため息をつき、わからない、とこたえた。

「とりあえず、次のバスまで時間があるから、それまで町を見てまわりましょうか。何か手がかりがつかめるかもしれない」

 康介はうなずき、茜にくっついて歩きだした。

 公園や路地を見てまわったが、どこにも猫の姿はなかった。茜が通う犬間高等学校へも行ってみたが、門が閉まっていたうえ、猫のねの字もなかった。

「暑い思いをして得た情報は、真偽不明の猫の大移動の話だけ、か」茜は康介を見た。「どう? 少しは自由研究に書けそう?」

「そういう噂がある、ていう形で書いてみるよ」

「そっか。じゃあもう帰ろっか。バスも来るし」茜はぱたぱたと手で顔を仰ぎ「いつまでもこんなところにいたら、日焼けしちゃう」

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