7 警鐘
自室の机の前で、康介は自由研究のノートに鉛筆を走らせていた。
「野良猫は確実に増えている。彼らは御華屋神社を根城にしていると考えられる。昼間はわからないが、夜はあそこに集まっている可能性が高い……と」鉛筆を置き、窓の外に目を向ける。
日はとっくに沈み、真っ黒な山が迫ってくるようであった。その中に小さな目が無数に見えたような気がして、康介は身震いした。
やっぱり野良猫は増えていた。それも、十匹や二十匹じゃない。もっと多い。そんな猫を一度に捨てに来ることができるとは思えなかった。一度は否定したものの、多頭飼いされていた猫たちが、トンネルをくぐってこの村までやってきたことも視野に入れた方がいいかもしれない。
確認したい。しかしそうなると、茜の力が必要になってくる。
康介は部屋を出ると、茜の部屋に向かった。「お姉ちゃん、いる?」
中でごそごそと音がし、茜が顔を出した。「どうしたの?」
「前にさ、多頭飼いが崩壊したって話、してたよね」
「ええ」
「あの話、もうちょっと詳しく教えてほしいんだけど」
「うーん、私も噂で聞いただけだから、あんまり詳しくないのよね。康介に話したことで全部っていうか」
「……そっか」
「明日、学校で聞いてみようか?」落胆する康介にあせったのか、茜は言葉を続けた。「誰か詳しいこと知ってる人がいるかもしれないし」
「うん。お願いしていい?」
「任せなさい」茜は胸をトンと叩いた。「あ、新聞とかニュースとかネットも見ておいた方がいいかもね。多頭飼いの崩壊って、ニュースになること多いから」
「わかった。そうしてみる」
康介は居間に向かい、新聞を広げた。康介は小学生だが、新聞を読む習慣がある。今朝も目を通したが、見落としていないか、地域版に載っていないか確認してみたが、やはり野良猫のことや多頭飼い崩壊については何も書かれていなかった。
部屋へ戻ると、大介のお古のノートパソコンを引っ張りだし、ネットのニュースを調べてみた。多頭飼いは色々な人がやっているが、崩壊も多いらしく、社会問題になっているようだ。とはいっても、それほど大きな記事にはなっていない。ましてや根鈴村や隣町にかかわる記事は皆無だった。
「駄目かあ……」康介はノートパソコンをしまった。
こうなったら、足で稼ぐしかない。刑事さんだって事件が起こったら足で稼ぐんだ。歩いて、見て、触って得た情報は、伝聞よりも貴重だ。できるだけ明るいうちに、色んな人に話を聞いたり、見たりしてみよう。
うーん、と康介は背筋を伸ばした。今日は思わぬ運動をしたせいで、少し疲れてしまった。体力にそれほど自信がない康介にとっては、長い階段をあがったり駆けおりたりというのはなかなか骨が折れた。
体力つけないとなあ。体力がないと、これから先、きっと大変だ。
康介はまだまだ先の未来に思いをはせた。康介は将来、獣医になりたいと思っていた。それも、薬を処方するだけではなく、外科手術もできる獣医だ。さらに希望を述べるなら、猫専門の獣医になりたかった。昔、ある漫画で猫専門の獣医がいることを知り、憧れをいだくようになったのだ。
手術といえば、麻酔を打ったりメスで切ったりといったイメージしかなかった。しかし、昔、父・大介が大腸の手術をしたとき、医師が数時間も立ちっぱなしで手術をしていたという話を聞いて驚いた。たしかに患者を眠らせたまま休憩をとることなどできないとは思っていたが、そこまでの重労働だとは康介も想像だにしていなかった。
以来、康介は自分の体力のなさを気にするようになった。今すぐ何かをできればいいのだが、あいにく、根鈴小中学校にはクラブ活動というものがない。茜と同じ隣町の高校に通うようになれば、ちゃんとした指導員のもと、クラブ活動ができるかもしれない──茜は、バスの時間を考えてクラブ活動をやっていないが、そこは父と母に話をすれば大丈夫だろうと思っていた。
それにしても、今日は本当にこわかった、と康介は思った。クロが助けに来てくれなければ、どうなっていただろうか。茜もこわかったにちがいない。
だが、そんなことよりも気になるのは、あのとき聞こえた「声」だ。
逃げろ。
たしかにそう言った。はじめは暗闇の中の目に混乱して、どこから聞こえてきたのかわからなかった。だが、冷静に考えてみると、あの声は耳もとから聞こえたような気がした。
まさか、クロが……?
いやいや、とかぶりを振る。猫はしゃべらない。これは絶対だ。人間の言葉を理解している節はあるが、猫が人の言葉を話したり、文字を書いて意思疎通したりするなど、ありえない。
そういえば、クロはどこに行ってしまったのだろうか。康介と茜を助けて、消えてしまった。今日は夕食も食べていない。
康介は部屋を出て居間に向かった。大介がTVの前で横になっていた。朱夏はスマホで動画配信を見ていた。
「ねえお母さん、クロは帰ってきた?」
「それがね、帰ってきてないのよ。呼んでみたり、缶詰の音を鳴らしたりしてみたんだけど……どうしたのかな」
「そうなんだ……」
「康介はクロを見かけなかった?」
康介はかぶりを振り、自分の部屋へ戻ろうと階段をのぼろうとした。
そのとき、聞こえてきた。
こんなことはもうやめろ。
いつか守りきれなくなる。
自由研究など、ほかのことでもいいだろう。
康介ははっと顔をあげた。今の男の声は、自分と茜に「逃げろ」と指示した声に相違ない。その証拠に、隣の部屋の茜が、部屋から飛びだしてきた。
「お姉ちゃん」
「康介、今の声」
康介はごくりと息を呑み、うなずいた。茜は、薄く開いた康介の部屋のドアを見つめている。
「ドア、閉めたはずなのに」康介は言った。
康介はおそるおそるドアノブを握り、ゆっくりと開いた。
部屋に変わりはなかった……ように見えた。
「康介、網戸開けた?」茜は奥の窓を指さした。
網戸がわずかに開いていた。わずか……猫が一匹通れるほどの隙間だ。
康介は駆けだすと、網戸を思いきり開いて外を見わたした。夜の闇で覆い尽くされた村は、ところどころ街灯が見えるだけで、動くものは何ひとつ見えなかった。
「お姉ちゃん、今の声、たしかに神社で聞いた声だよね」
「うん、間違いない」茜はうなずいた。「誰かわからないけど、家までついてきたってこと?」茜は身震いした。「やだ、変質者? こんな村に変質者がいるの!?」
どうやら茜は、クロがしゃべったというファンタジーな考えには行きついていないようだ。だが、康介は確信に近いものをいだいていた。
野良猫大量発生事件の裏には、クロがいる。いや、表かもしれない。そして、これ以上調べるのは危険だと康介たちに向かって警鐘を鳴らしている。
顎を、冷たい汗が伝った。そのとき、
「あら、クロちゃんお帰りなさい」
朱夏の声と、にゃーんと甘えた声が階下から聞こえた。康介と茜は先を争うように階段を駆けおりた。
「こら、そんなに暴れたらクロが驚くじゃないか」
大介に注意されたが、康介の耳には何も入っていなかった。
クロは何食わぬ顔で缶詰を食べていた。康介と茜の方を見ようともしない。どこからどう見ても、ごく普通の三毛猫だ。
康介はクロのそばに膝をついた。「クロ、お前……」
話しかけたが、クロは完全に無視を決めこんで、缶詰を食べることに集中していた。
考えることがあまりに多すぎるうえ、常識はずれのことが立て続けに起こったため、康介は混乱していた。
クロ、お前はどういう猫なんだ?
訊いてみたい衝動に駆られたが、こたえてくれるとは思えなかった。
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