9 言いたいこと
すっ、と身体が水の中から浮上するように、目がさめた。二度寝しようという気が起きないほど快適な目覚めだった。
昨日はエアコンをつけずに寝たが寝苦しいということもなかったので、涼しい夜だったのだろう。いや、そんなことよりも、この心地よい安心感のようなものは何だろう。康介は身体を起こし部屋を見まわした。
ドアのそばでクロが眠っていた。香箱座りのまま、うとうとと頭を揺らしている。昨日は出ていかなかったのかと康介は驚いた。半分野良猫であるクロは、夜になると必ず外に出たがるのに。
ひょっとするとこの安心感は、クロに見つめられていたからわきあがってきたのだろうか。親がいると安心する幼い子供じゃあるまいし、と康介は思ったが、あながち間違いではないのではないかとも感じていた。少なくとも、クロには二度、助けられているのだから。
「クロ、起きろ」康介がクロの身体を軽く揺すると、クロはゆっくりと目を開けた。「おはよう」
クロは立ちあがると、大きな欠伸をし、前足と後ろ足を思いきり伸ばしたあと、康介の部屋をさっさと出ていった。康介もおくれて、そのあとに続く。
「おはよう」
康介が朱夏にあいさつをすると、おはよう、という返事があった。「今日はすっきりした顔してるのね」
「うん。昨日は涼しかったから、よく眠れたみたい」
「起きる時間までまだ三十分もあるのに」
えっ、と康介は声をあげ、壁にかけてある時計を見た。たしかに、いつもより三十分早い。それでも、疲れがきちんととれていることに驚いた。
「クロもいるんだけど、康介が中に入れたの?」
「ううん、クロは昨日、ずっと僕の部屋にいたみたい」
「あらめずらしい」朱夏は言った。「まあ、外に出てどこに行ったのかもわからないよりはいいかもしれないけど」
そんなクロは、朱夏の足にまとわりつき、しきりに餌を要求していた。朱夏がクロの猫缶を準備しているあいだ、康介は勝手に食パンを焼き、牛乳とヨーグルトを出して食べてしまった。
大介と茜が起きてきて、驚いた表情を見せた。僕が早起きするのはそんなにおかしいことなのかと、康介は少しだけ憤然とした。
洗面所で「髪がまとまらないー」とあせっている茜に、熱いコーヒーで舌を火傷する大介。特に代わりばえのしない朝の時間。康介だけはあまった時間をたっぷり使って、TVのニュースをじっくり見ていた。
多頭飼い崩壊のニュースが目にとまったが、根鈴村とも隣町ともまったく関係のない、北海道でのできごとだった。さすがに北海道から根鈴村まで来るのは無理だ。第一、どうやって海をこえるというのか。青函トンネルに侵入するのか?
茜は結局、髪がまとまらないまま家を飛びだし──バスに一本おくれると、遅刻確定なのだ──、大介は口に氷をふくんで火傷した舌を冷やしていた。それでもネクタイをビシッとしめ、「じゃあ行ってくる」と言って、車に乗って仕事へ行ってしまった。
僕もそろそろ行こうか、とランドセルを背負ったとき、クロと目があった。猫缶を食べてとっくに外へ出ていったと思っていたので、少し驚いた。いつもとまるでちがう。
クロはじっと僕の顔を見つめていた。にらんでいるわけでもなければ、好奇の目を向けているわけでもない。
言うなれば……心配。
クロは康介のことを心配しているように見える。
いや何でだよ、と康介は思った。クロに心配されるようなことは何にもしていないじゃないか、と心の中で断言しかけたが、昨日の御華屋神社での一件が思い浮かんだ。
「なあ、クロ」康介は言葉に出した。「御華屋神社にはもう行くなって、そう言いたいのかい?」
クロは、にゃん、と短く鳴いた。
「大丈夫だよ。御華屋神社は自由研究と何も関係がないことがわかったし、もう行かないよ。もともと、手がかりというか情報が全然なかったから、とりあえず行ってみようって思っただけだから。ただ、お祭りがはじまったら別だけど……」
クロはじっと康介の顔を見ていたが、やがてふいと顔を背け、縁側の方に行ってしまった。
「クロ」康介は小さな声で言った。「お前は、猫たちから僕たちを守ってくれたのか? それとも──何か別のものから守ってくれたの?」
クロは短く鳴いた。肯定のようにも、否定のようにも聞こえた。
「遊びに行くの?」康介は縁側に続く窓を開けた。「いってらっしゃい」
クロは縁側から庭に飛びだし、草むらの中に消えてしまった。
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