18 出発
康介は布団を蹴飛ばし寝返りを打った。カーテンの隙間から日がさしているが、逃げるように身体を遠ざける。
昨日も一晩中、猫が鳴いていた。子供の康介が寝苦しさをおぼえる程度なら、大人はまだ大丈夫かもしれないが、今後どうなるかわからない。早いうちに解決してしまわないと。
そう思いながらも、康介は布団から出られずにいた。根鈴村の朝は意外と涼しい。昨日はエアコンも必要なかった。そのため、冬場ほどではないが、布団から出るのがためらわれるのだった。
ぺた、と頬に何かが触れた。あたたかい、しかし弾力性のある何か。これはひょっとすると……
康介はうっすらと目を開けた。クロが前足を康介の頬に乗せていた。
「朝になったぞ」
康介は身体を起こし、うーんと伸びをした。「わかってるよ」
「では行こう」
「ごはんぐらい食べさせてよ」
「それもそうだな」クロはドアの隙間から出ていった。
朝食をすませたあと、康介は朱夏に「自由研究に行ってくる」と告げ、茜といっしょに家を出た。茜がいっしょにいることにかんしては、「協力してもらってる」とだけ伝えておいた。
茜は日焼け止めをこれでもかと塗りたくり、日傘までさした。
「クロちゃん、暑くなったらいつでも言いなさいよ。クロちゃんのぶんのお水も用意してるから」茜は二本の水筒をちゃぷちゃぷと鳴らした。
「感謝する」それだけ言って、クロは「では行くとするか」と康介たちをうながした。
根鈴川は村の中でももっとも大きな川だ。川で遊んでいる子供たちを横目に見ながら、二人と一匹は、川に沿って山へ向かった。
家を出る前、「ちゃんとした靴をはいた方がいい」とクロに注意された。山道をなめてはいけないとのことで、康介も茜も準備万端整えて山のぼりをすることになった。
川を右手に見ながら、山道を歩く。このあたりはハイキングコースなので、まだ歩きやすい。クロは先頭に立って、康介たちを導くように足を進めていく。
何だか、様子が変わったな、と康介は思った。一時はあまり乗り気ではないように見えたが、今日は積極的に前へ前へと進んでいる。協力してくれるのはありがたいことなので文句などあるはずもないが、急な変化に多少の不安をおぼえた。
「おーい」
不意に声が聞こえ、康介はあたりを見まわした。
「こっちだよー」
声は根鈴川の方から聞こえた。目を向けると、禿頭のおじさんが、小さな子供を二人連れて、川で遊んでいた。
声に聞きおぼえはあるが、誰だっけ、と康介が思っていると、茜が「柘植さん」と手を振った。それで思いだした。猟友会の柘植達也だ。
茜は川岸につながる木の階段を軽やかにおりると、「お久しぶりです」と頭をさげた。康介もあわててそのあとに続いた。
「こんな暑い日にハイキングかい? それもきょうだいそろって」柘植はにっこりと笑い、「しかも猫まで連れて」
柘植のそばにいた子供……小学生ぐらいの甥と姪が、「猫ちゃんだ」と言いながらクロに近づこうとしたが、クロはひらりひらりとその手をさけて山道へ戻ってしまった。
「康介君も大きくなったね。来年、中学生なんだって?」
「あ、はい」康介は言葉少なにこたえた。柘植のことをまるでおぼえていなかったので、少し申しわけなさを感じていた。
「あの、私たち、川の源泉を探して山をのぼってるんですけど、柘植さんは何かご存じですか?」茜がたずねた。
「源泉か。それほど遠くはないよ。子供の足でも、十分行ける」柘植はこたえた。「でも、足もとが悪いから、滑ってこけないようにね」
気をつけます、と康介がこたえた。ちゃんとした靴をはけ、とクロが言ったのは、こういうことだったのだ。まあ、山のぼりにボロボロの靴で臨むというのも危険極まりないが。
待てよ、と康介ははたと思い至った。クロはこのあたりまで、いつも来ているのではないだろうか。だから、康介と茜にちゃんとした靴をはくよううながしたのではないか。
にゃん、と高い声が聞こえた。クロが呼んでいる。いくら遠くないとはいっても、こんなところで時間をつぶしていたら日が暮れる。
康介は茜の服を引っ張り、「じゃあ、僕たちは行きますので」と頭をさげた。茜も「失礼します」と頭をさげた。
待ちなさい、と柘植は言い、二人にスポーツドリンクを一本ずつわたした。「これから暑くなるからね。用意はしてると思うが、一本でも多い方がいい」
「あの、ありがとうございます」
「いやいや、礼にはおよばんよ」柘植は笑った。「できることなら、源泉に行って戻ってくるとき、いっしょに帰ってあげられればいいんだけどね」
「お忙しいんですね」茜が言った。
「夏祭りが近いからね」柘植は言った。「今年も御華屋神社で派手に行うから、見に来るといいよ」
「もちろん、楽しみにしてます」茜は笑った。
根鈴祭りは根鈴村の一大イベントだ。大人の男たちが太鼓台を担いで村中を練り歩く。子供たちは御華屋神社に設置される屋台を楽しみにしている。かくいう康介もそのひとりだ。
にゃん、とクロがまた鳴いた。
「おやおや、猫さんが呼んでるね」柘植が言った。「ひとつだけ、言っておかないといけないことがある」
「何ですか?」康介がたずねた。
「熊に気をつけなさい」柘植の目が急に真剣味を帯びる。「早々出るものじゃないが、目撃証言もある。十分、気をつけなさい。もし、遠くに黒いものを見つけたら、すぐに逃げなさい。いいね?」
「わ、わかりました」康介と茜はうなずいた。まるで脅されたような気分だったが、柘植が脅しなどするはずがなかった。
山道に戻ると、「あの人の言うとおりだ」とクロは言った。「変なものが出る前に、さっさと行こう」
二人と一匹は再び歩きだした。緩やかな傾斜をのぼっていると、岩が苔むしてきた。ちょろちょろと水が流れているところもある。源泉は近いのかもしれない。
「熊の話だけどさ」茜が言った。思ったより山のぼりがラクで、ひまになったらしい。「人里に出てきたら、柘植さんたちに駆除されるんでしょ?」
「そうなると思う」康介は言った。
「勝手よね」茜は口を尖らせた。「あとから来たのは人間の方なのに、先にいた熊が狩られるなんて。不条理よ」
「仕方ないじゃないか。僕たちだって生きていかないといけないんだし」
「聞きわけのいいようなこと言わないの」ぴしゃりと茜は言った。「あんまり人の言うことに同意ばかりしてると、人の言いなりになっちゃうよ。ちょっとは自分で考えないと」
「考えてるよ。でも、じゃあどうしたらいいのさ」
う、と茜はうめいた。どうやら深く考えていたわけではないらしい。
「だ、だいたい、北海道の多頭飼いも勝手な話よ」茜は話題を変えた。「二百匹なんて飼えるはずないのに、どうしてできると思ったのか、全然わかんない。おかげで、うちの村はいい迷惑よ」
「それはまあ、そうだけど」
「人間だって、崩壊させたくてさせたんじゃないさ」クロは言った。「はじめは何でも、善意なんだ。一匹でも野良猫を保護して、助けようとした。結果、その数が膨れあがって手に負えなくなった……ただそれだけのことだ」
「それだけのことって」茜は怒ったように言った。「じゃあ、善意ではじめたことなら何でもいいわけ? 野良猫って言っても、クロの同類でしょ? そんなひどい目にあってるのに、ただそれだけのことだ、で片づけられるの?」
「そうだ」クロは言った。「俺はたまたま特異体質を持つ猫として生まれ、たまたま康介たちに拾われ、たまたま自然豊かな根鈴村で暮らすことができた。俺だって、一歩間違えれば、多頭飼い崩壊に巻きこまれていたかもしれない」
「運がよかった、て言いたいの?」茜は言った。
「ああ。多頭飼いをしていた人間は……力がなかったのだろう。悲しい話だが」クロは本当に悲しそうに言った。「だが、その根っこにあるのは善意だ。それを忘れてはならない。彼……彼女かもしれんが……は、猫を助けたかった。それだけは事実だ」
康介は黙ってクロの話を聞いていた。クロの話には実感がこもっていたし、正しいように聞こえた。まさか、飼い猫に諭されるとは。
「ついたぞ」クロは言った。「このあたりが、根鈴川の源泉だ」
康介はあたりを見まわした。大木が何本も生え、視界をさえぎっている。足もとは濡れていて、空気は冷たい。大きな岩があちこちにあり、すべての岩に苔がはえている。空を仰ぐと、木の枝が張りだしていた。
「こんなところに女帝がいるの?」茜は康介に言った。
「近くに水場があって、涼しくて……それなりに暮らしやすい場所だと思うんだけど」康介は自信なげにこたえた。
「小動物もいるな」クロは言ったが、康介には何も見えない。クロだから感知できるのだろう。「食べ物にも困らない。暮らしやすいのは間違いないだろうな」
「女帝さんの名前、呼んでみる?」茜が言った。
「呼んで、女帝の部下に囲まれたらどうする?」クロは言った。「できるだけ気づかれないよう、こちらから出向く。まずはねぐらの入り口を探そう」
「そんなの本当にあるのかなあ」茜は不安そうにあたりを見まわした。
たしかに、猫が暮らすには便利なところかもしれないが、身を隠す場所があるとは思えなかった。
苔で滑らないよう気をつけながら地面を見てまわっていると、康介はふと、あることを思いだした。
「お姉ちゃん」
「うん? 何?」
「僕、昔ここに来たことがある」
茜とクロは足をとめて、康介を見た。
「お父さんといっしょに山のぼりをしたんだ。そのときに、ここまで来た」
「それで?」
「御華屋神社の言い伝え、知ってるよね」
茜はうなずいた。「大昔に、雨が降らなくて根鈴村を飢饉が襲ったとき、一匹の三毛猫が大勢の猫を引き連れて現れた。三毛猫は村人と話して、村の中心で火を焚いてもらった。三毛猫は大勢の猫たちとともに火のまわりで雨乞いの踊りを踊ったのち、火の中に身を投げた。その次の日、雨が降りはじめて村は飢饉を脱した」
だから、御華屋神社の御神体は猫であり、色はなくとも、みな、「三毛猫」だとわかっているのだ。
「その話、ちょっとちがうってお父さんが言ってた」康介は続けた。「火を焚いた場所は村の中心じゃなくて、根鈴川の源泉の近く。踊りを踊ったあと、三毛猫は岩の裂け目に身を投げた。そうすると、裂け目からどんどん水があふれてきて、干上がった根鈴川は一気にもとに戻ったって」
「えっと、つまり……」茜は首を傾げ「どういうこと?」
「このあたりで、三毛猫……御華屋様は踊りを踊った」クロは言った。「つまり、この近くにその裂け目とやらがある、ということか」
康介はうなずいた。
「岩の隙間を重点的に探そう。何か手がかりがあるかもしれん」クロは一匹であちこち探りはじめた。
「……クロにイニシアティブを握られてる」茜が言った。
「まあ、いいんじゃない? 猫のことは猫が一番よく知ってるんだし」康介は肩をすくめ、自分も苔むした岩のあいだを中心に探りはじめた。
父・大介の言ったことが本当なら、猫が入れるぐらいの裂け目があって、女帝たちはその中をねぐらにしているのかもしれない。
「康介、クロ、ちょっと」
茜の呼び声に、康介とクロが集まった。
「この岩の下、大きな裂け目があるんだけど」
康介は茜が指す場所をのぞいた。その岩は巨大で、いくつもの小さな岩によって固定されている。岩の下の部分が削られており、その下の土もなくなっている。岩と土のあいだが、裂け目のようにぽっかりとあいていた。猫だけではなく、人間ももぐりこめそうな穴だ。
「俺が先に行こう」クロが言った。「二人は待っていてくれ」
クロは難なく、穴の中に入っていった。一分も経たずに戻ってきた。
「大当たりだ、茜さん」クロが言った。「ここが彼らのねぐらだ。間違いない」
「ずっと道が続いてるの?」
康介が訊くと、クロはうなずいた。「奥までかなりの深さがある。人が立って歩けるほどの空間もある。行こう」クロはせっつくように言った。
「あ、ちょっと待って」茜はあたりを見まわし「その前に、どこか座れる場所探して、ごはんにしない?」
「え、お姉ちゃん、お弁当持ってきてるの?」
「お母さんには、お昼までには帰れないって言ってあるから」茜はリュックからアルミホイルでつつんだまるい物体を取りだし「お弁当って言っても、おにぎりしかないけどね。クロもカリカリしかないけど、いい?」
「俺は別に構わん」クロはちらちらと穴の方を見ている。よほど気になるらしい。
茜が康介にわたしたおにぎりは、かなり大きなものだった。康介と比べて、家事の類をいっさいしない茜が、おにぎりだけとはいえお弁当を用意してくれたことに対し、康介は感謝した。
あまりに塩辛かったことについては、このさい黙っておくことにした。夏だから、と好意的に解釈した。
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