17 怪しい現場?

 昼前に家に戻ると、朱夏がそうめんを用意してくれていた。康介がいなかったため、先に茜がそうめんをすすっている。氷の入った透明の器に盛られたそうめんは、いかにも涼しげで、おいしそうだ。

「お帰り。どうだった?」茜が言った。

「収穫はあったけど、僕ひとりじゃ無理っぽい」康介はすなおに言った。自分の考えを話し、「お姉ちゃんの力がいるんだ」

「ん……仕方ないなあ」茜は全然仕方なくなさそうな声音で、むしろ嬉しそうに言った。「クロももちろんいっしょに来るんでしょう?」

 クロは特に返事もせず、朱夏のもとへ行き、足に身体をすりすりとこすりつけて猫缶を要求しはじめた。さすがに家族の前で話すことはできない。

「閃いた」茜は小さな声で言った。「クロに大人の男になってもらえば、心強いんじゃない?」

「知らない人といっしょにいたら、通報されちゃうよ。誘拐と間違われたらどうするのさ」

 それもそうか、と茜は言った。「ま、とりあえずそうめん食べたら? お腹すいてるでしょ」茜は立ちあがり、残しておいた康介のぶんのそうめんを出してくれた。

 刻んだしそと七味でそうめんをすする。冷たい麦茶に冷たいそうめんはよくあった。クロも猫缶をおいしそうに食べていた。

「じゃあ、午後からは私も協力しよっかな」茜はそうめんを食べ終え、皿を洗いながら言った。

「どこか行くの?」朱夏がたずねた。

「うん、康介の自由研究の手伝い」

「それはいいけれど」朱夏は不安そうに言った。「熊には十分気をつけてね。山の中にはあまり入らないように」

「わかってる」

「康介もね。気をつけて」

 はあいと返事をしたが、これから山の中に入ると言ったら、朱夏はどんな顔をするだろうか。きっと大あわてでとめに入るにちがいない。黙っていよう。

「クロも来るよね」茜は、猫缶をたいらげたクロに近づき、小声でたずねた。クロは返事をせず、黙って顔を洗っていた。

「お姉ちゃん」康介は小声で茜を呼び寄せた。「クロは午前中、ずっと僕についててくれたから、無理は言わない方がいいと思う」

「でも、クロがいないと困る場面もあるかもしれないじゃん」茜は言った。「たとえば、行った先に三毛猫帝国への入り口があって、クロがいないと通れないとか、いきなり野良猫に襲われたりとか」

「それはそうなんだけど……」

 康介はちらりとクロを見やった。顔を洗ったあと、台所のテーブルの下でごろんと横になっている。疲れているようにも見えたが、クロはあまり乗り気ではないのかもしれないとも思った。

「明日にするよ。今日はほかの宿題やる」無理をしてもいいことはない。

 わかった、と返事をし、茜は皿洗いを終え、「ごちそーさま」と朱夏に言った。


 エアコンのついた涼しい居間で、康介と茜は宿題をしていた。すらすらと鉛筆を走らせる康介に対し、茜はあまり進んでいないようであった。午前中も宿題をしていたので、あまり気が乗らないのだろう。

「……ねえ、康介」茜はにっこりと笑いながら言った。「わからないところ、ない? お姉ちゃんが教えてあげようか?」

「大丈夫。これぐらいならひとりでできるから気にしないで」

「たまにはお姉ちゃんらしいことさせてよぉ」茜はぐすぐすと泣き真似をはじめた。「まるで私が駄目なお姉ちゃんみたいじゃない」

「黙って集中するのが勉強の鉄則だって、先生が言ってたよ」プリントから目をはなさずに康介は言った。「お姉ちゃんも集中したら?」

「弟に諭された!」ガーン、とでもいいそうな顔で、茜は真後ろにぱたっと倒れた。「お姉ちゃんの尊厳は、今、破壊されました」

「明日は朝から山に行くんだから、頑張ってよね」康介は言った。「僕の自由研究は置いておくとしても、クロから頼まれたんだから」

「そうだった。クロちゃんのためにも頑張らないと」茜はうつ伏せになり、台所で水を飲んでいるクロを見やった。「ねえ、クロちゃん。明日は頑張らないとね」

 朱夏は車で買い物に出かけているため、家には康介と茜、クロしかいない。茜の言葉だけが居間にむなしく響いた。

「何か言いなさいよ」茜はむっとしたように言った。「クロちゃんのために頑張ってるんだから」

「む」クロは今気がついたかのように、水から顔をあげた。「そうだった。協力には感謝している」

「感謝じゃなくてさあ、何かもっと別のものがほしいなあ」茜はにやにやと笑っていた。

「お姉ちゃん、クロをモフりたいんでしょ」康介が手をとめずに言った。「駄目だよ、暑苦しいから。クロも嫌なら嫌ってはっきり言っていいんだよ」

「モフる程度なら別に構わんが」

「ほんと!?」茜は目を輝かせた。「よかったー。いつも逃げられるから、触られるの嫌なんだと思ってたー」

 それは単に、お姉ちゃんの触り方がへたなだけじゃないだろうか。そう思ったが、康介は口に出さないことにした。

 茜は台所からクロを連れてくると、両手で背中をなではじめた。わしゃわしゃわしゃわしゃ、と口で言いながら、「この毛がたまらないのよねえ」と茜。クロはというと、それほど気持ちよさそうな顔はしていない。どちらかというと、苦難に耐えているような顔をしている。

 やっぱりへたなんじゃないか。かわいそうに。

 そんなことを考えながら、康介は何げなく窓の方に目を向けた。

 塀の上に猫が座っていた。見たことのない野良猫だ。野良猫はじっと家の中を……具体的には、茜の方を見ている。

 猫は康介の視線に気づくと、すぐに塀から飛びおりて姿を消した。

「どうしたの、康介」唖然としている康介に、茜が気づいた。

「いや……今、野良猫がうちの中を見てたから」茜の方を見ていた、とは言わなかった。

「……偵察?」茜は首を傾げ「それともたまたま?」

 茜が手をとめているうちに、クロはするりと逃げだした。茜の方を振り返り、

「まずいところを見られたかもしれん」と言った。

「え? 私、何かまずいことしたっけ?」

「まあ、ちょっと、な」クロは言葉を濁し、「山をのぼるのは明日だったな。できるだけ早く行こう。俺もちゃんと同行する」

「あ、うん、ありがとう」

 クロは前足で窓を器用に開けると、外に出ていった。その姿を見送りながら、茜は

「ねえ、やっぱり私、まずいことしたんじゃない?」

「どうだろう……よくわからない」康介は首を傾げた。

 ただ、乗り気ではないように見えたクロが、急に協力する姿勢を見せたことが、不自然といえば不自然だった。

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