くすんだマネキンの腕だった。
あああああ
くすんだマネキンの腕だった。
俺の母は、気になったものがあると何でも拾ってくる。
道端に生えていた綺麗な花を摘んできては飾ったり、変わった形の石を拾ってきては庭に転がしていたり。
父が亡くなってからも、ゴミ捨て場から椅子や古本の束を持って帰ることがある。定期的にそれらを処分していなければ、今頃、我が家はゴミ屋敷と化していただろう。
そんな母も喜寿を迎え、今は四十代手前になった俺と二人だけで広い家に住んでいる。姉と弟はそれぞれ家庭をもって家を出ていったが、良縁のない俺は、この田舎の一軒家に取り残されたままだった。
◆
ある日突然、母が「海に行きたい」と言い出した。海水浴の季節でもない春先のことだった。別に驚くようなことでもない。急な思いつきで、足代わりにされることは良くあることだ。
母を助手席に乗せ、海へ向かう。
まだ冷たい風には潮気が混じり、独特の
転ばぬよう母の手を取り、乾いた砂の上をゆっくりと歩く。
昔ほどではないが、その足取りは軽く、記憶もとくに衰えている様子もない。そんな、変わらぬ母の姿を見るのは、束の間の休日における唯一の癒やしだった。
しかし時々、知人たちから認知症を患った親の愚痴を聞かされる度、不安になる。いつまでこうして居られるのだろうかと。
「
「いいよ、こんなところなら
八十も近い母の
「お父さんと結婚する前もね、よくここを歩いていたわ。あの人ったら、今の昭二みたいに、お母さんが転ばないように、手をぎゅっと握って、歩いていてくれてたの」
急に気恥ずかしくなり、少しだけ歩調をずらす。
暫く母の
「やあねえ、急に」
「母さん、目に砂は入ってない?」
そう尋ねると母は、ふっと笑って「大丈夫よ」と掌を
「日が沈む前に、そろそろ帰ろうか」
「そうね――」
歩いてきた道を引き返すように母の手を引いたが、彼女はそれに従おうとしなかった。握っていた手はぐいっと引き戻される。
「母さん、どうしたの」
「ちょっと、昭二。あれ、見て頂戴」
母が眉を少し寄せて指差す。その方向へ目を遣ると、何か長い棒のようなものが波に押されて転がっているのが見えた。
――ああ、また母さんの悪い癖だ。いつも通り、あれを持って帰ることになる。そしていつも通り、俺がこっそりと捨てるんだ。
ため息をつきたくなるが、これも母との日常だと思えば悪くない。
少しだけ歩調を速め、一緒にそこへ向かう。「俺が拾ってくるから、少し待ってて」
波打ち際の湿った砂に、靴跡を残しながら足早に進む。目的の漂着物を拾い上げると、打ち寄せる波から逃げるように、素早く母の元へ戻った。少し振り返ると砂にめり込んだ足跡を波が攫っていた。
「ふう、ちょっと靴が濡れちゃったよ。……母さんが言ってたのって、これだろ?」
母がそれを両手で受け取ると、ケーキの箱を開けた子どものように目を輝かせていた。そのまま目を細めて頬を緩ませながら、ゆっくりと指先で撫でる。
「ほら、これ見て昭二。綺麗な流木よ」
流木。石や花などを持ち帰る癖のある母らしい、あらたな獲物だ。猫でも愛でるかのような母の姿に、俺は何も言えずにいる。
でもそれは、流木でも何でもなかった。
くすんで所々、苔むした、マネキンの右腕だった。
◆
不燃物の回収日まで、あと三日。――ゴミ袋からはみ出ていても問題ないのだろうか。まあ、いざとったら半分に叩き割って、詰め込んでしまえば大丈夫だろう。
居間のテーブルに置かれたマネキンの右腕を見つめる。何故母は、こんなものを欲しがったのか。そして、これを流木だなんて言い張るのか。
帰り道の車内で、何度もマネキンの腕だと言ったのだが、母は
ほんの数日の辛抱だということは判っているのだが、家族団欒の空間に似つかわしくない異物の存在が、どうも気持ち悪くて仕方がなかった。
テーブルに置かれたそれを持ち上げる。中身は詰まっていないようで、そう重くない。苔むしていた部分はその日のうちに洗い落とされていたが、くすんだ色まで戻ることはなかった。
三日といわず、今すぐ袋に詰めてしまっても……。
その時だった。居間の戸を引く音が聞こえる。
「あら昭二。ここにいたのね。……それに悠一も」
母の声だった。
振り返ると買い物袋をぶらさげて笑ういつもの母。――……え、
辺りを見回すが、俺と母以外、この部屋には誰もいない。
それに悠一は居るはずがないのだ。なにせ、この家における悠一とは、俺が産まれる前に亡くなった、二つ上の兄のことを指すからだ。
「何を言っているんだ、母さん」
「幾つになっても、仲が良いのね。二人とも。手なんか繋いじゃって」
手。――今、俺の手に触れているものはマネキンの腕。まさか、母さんはこれを〝悠一〟と呼んでいるのか?
ふと、知人たちの言葉がよぎる。認知症の親の愚痴。――全身の血が引いていくような寒気を感じる。そういえば、これを拾ったときだって、母さんは流木だと言って聞かなかった。それなのに、今日は、悠一だと?
――母さんを見ようとするも、焦点が合わない。震える視界の中、買い物袋の中身を片付けていることだけが判る。声をかけようにも、震えて声が出てこない。……それに、かける言葉が見つからない。
熱い雫がゆっくりと頬を伝う。
とうとう、訪れてしまったのか。……母さんが、俺の知っている母さんでなくなる時が。
駄目だ、このままにしておくわけにはいかない。
俺は大きく息を吸い込んだ。そして、ゆっくりと、呼吸を整えるように肺に溜まった酸素を吐き出していく。
「母さん、いますぐ病院へ行こう」
「あら、昭二、どこか具合でも悪いの?」
少しばかり冷静さを取り戻した俺の視界には、不安そうに俺を見つめる母の姿がしっかりと映っていた。俺はマネキンの腕をソファへ投げ捨て、母の手を強引に引っ張る。
「急に、どうしたの? 痛いじゃないのよ。それに悠一も……」
「いいから! 行くよ!」
母も俺の強引さに諦めがついたのか、反抗すること無く玄関へ向かう。母には履きやすいサンダルを履かせ、車に乗り込んだ。
エンジン始動ボタンを押しながら、空いた手でシートベルトを素早く締める。そして、車の振動を感じると同時に、シフトレバーをPからDへ乱暴に降ろした。
「そんなに急いで、どうしたのよ」
「母さん、大事な話があるんだ」
赤信号の合間に、カーナビで営業中の脳神経科や精神科を探す。
田舎町の風景は、窓の外を雑に流れていく。
「落ち着いて聞いてほしいんだけど、母さんは認知症かもしれないんだ」
「うそ、お母さんが……? どうして、そう思うの?」
半径、十キロ以内に三軒。うち二軒が営業中。
少しでも近い方の精神科を目的地に設定する。
「母さん、いいかい? 母さんが海岸で見つけたのは流木でも何でも無くて、ただのマネキンの腕だったんだよ。――それに、あれは悠一兄さんなんかじゃない。悠一兄さんは、俺が産まれるより前に死んでいるじゃないか!」
カチ、カチ。と、ウインカーの点滅音だけが車内に響いている。左右確認のついでに母の顔を見ると、母は、きょとんとした顔で俺のことを見ていた。
「悠一が? 変ねえ。だって、悠一はずっと、ほら、後ろに乗っているじゃない」
右折後、長いストレートに入る。
――母さんは、一体なにを言っているんだろう? こめかみにじんわりと、嫌な汗が湧き出てくるのを感じる。
高い電子音のノイズの様な耳鳴りも小さく聴こえているような気がした。
――――ごとん。
後部座席の方から、何か硬いものが床に落ちたような、鈍い音がする。
ごろん。
ごろん。
ごろん。
赤信号で再び車が停まる。
止まる間際に低く響くような音――それが、耳にこびりついて離れない。
ごろん。
ごろん。
ごろん。
まさか……、嘘だろう?
いや、そんなわけがない。
恐る恐る、俺は身を乗り出して後部座席側の床を覗いた。――全身の毛が逆立ちするような感覚に襲われる。出鱈目に弾き鳴らしたヴァイオリンの不協和音のような音が頭の中を走る。脳が、心臓が、震えている。
床に転がっていたのは、くすんだマネキンの右腕だった。
◆
月曜日。いつも通り出勤したものの、作業はまるで身に入らないままだった。結局、病院では『様子を見て、おかしい言動や行動が見られたときにまた来てください』と言われ、そのまま帰された。
マネキンの腕の件を除けば、家の中で母の言動や行動に問題があるとは考えられなかった。ただ、それよりも気になっていたのは、あのマネキンの腕のこと。
確かに俺は、母を連れ出す時にあれをソファへ放り投げたはずで、母もそれを持ち出す素振りなど見せなかった。それに、そんな暇もなかったはず。
母に、いつ
『やだわ、最初から乗っていたじゃない』
などと言う。母が正気ではないのは判るが、俺も自分の正気を疑った。
一体、あれは何なのだろうか?
「――さん。聞いていますか? 木村さん」
「ああ、すみません。すこし考え事をしていました」
気が付いたら、高岡主任に話しかけられていた。彼女は俺よりも六つほど年下の上司で、優しく、冷静な判断力があり、俺を含めて部下からの信頼も厚い。
若くして部下を持っていることにも
彼女に話しかけられたせいか、先程まで気にもならなかった、オフィス内のタイピング音が鮮明に聞こえるようになった。同僚の笑い声や雑談する声も。
どんよりと靄がかっていたような視界も幾分かクリアになった気がする。
机に積み上げられた書類が、普段は煩わしいのに、今は妙に安心感を与えていた。
「今朝、頼んだ資料は、まだ纏まっていないみたいですね。それに、少し顔色が悪いみたいですけど、本当に大丈夫ですか?」
主任は、デスクに座っている俺の顔を覗き込む。ふんわりと、花のような優しい香りが漂う。
彼女の透き通るような瞳に吸い込まれないよう、俺はそっと視線を外した。
「ええ、大丈夫です。お気遣いなく」
「それは、大丈夫じゃない人の台詞ですよ、木村さん。いつもはこんなこと無いのに。何かあったんですか? ……私でも良ければ聴きますから」
まるで全てを見透かされているようだった。本当に、この人には隠し事が通用しない。
「母が、……認知症になったかも知れないんです」
「あら……、お母様が」
主任は顎に手を当て、少しだけ考え込むような素振りを見せたあと、何かを閃いたように声を上げる。
「そうですね、――
「いえ、でもこれは今日中に終わらせられますから――」
主任の提案を断る前に、「分かりました、データ送っておいてください」と
「木村さんは、代わりにこっちの打ち込みを終わらせてください。途中までは出来ていますから前の人の分を参考にして、お願いしますね。それが終わり次第、今日は上がってください。上には話を通しておきますから」
「でも、それじゃ時間が余って――」
人差し指をぐいっと立てて、主任は俺に顔を近づけ、小声で喋りだす。
瞳には少し怒っているような、心配をしているような、そんな色が見えた。
「いいですか? 今日は少しでも早く帰って、お母様の様子を見てあげてください。それに、貴方自信も心を休める時間と、調べ事を進める時間が必要でしょう? 病院とか、手続きとか」
「でも、それは、仕事とは関係ありませんから……」
彼女は更に顔を近づける。鼻息がかかってきそうなくらいの距離に。
別にやましい気持ちなどこれっぽっちも抱いていないが、俺の心臓は確かに早くなる。
「いいえ、あります。部下が安心して働ける環境を作るのが、私の仕事ですから。貴方は会社にとって、このチームにとって、大切な仲間なんですか――」
「――――?」
主任が言い切る直前、一瞬だけ、オフィスの照明がちらついたような気がした。
明かりが元に戻ると、俺の身の回りの時間が止まったかのように、何も聞こえなくなる。さっきまで喋っていた主任の声も。
何事かと思い、辺りを見回す。眼の前の主任も、パソコンに向き合う同僚の指も、書類の束を運ぶ後輩も、動きをぴたりと止めたままだった。
「え……? みんな、どうしたんだ?」
立ち上がってみる。主任はずっと、先程まで俺の顔があった位置を見つめ、人差し指を立てて固まっていた。何かを伝えようとする一瞬の意志を宿したままで。
壁にかかっているアナログ時計の秒針も凍りついている。
――ドッキリか何か? まさか、どこかでカメラが回っていて、動画投稿サイトにアップロードするとか?
いや、そんなこと、あるわけ無いだろう。やるにしても大掛かり過ぎだ。間近に居る主任の呼吸音すらも聴こえない。周りがこんなに静かだと言うのに。
試しに、デスクを軽くノックしてみる。乾いた音はオフィスに響いていたが、だれも動くどころか視線を向ける気配すらない。
オフィスのドアを開け、廊下に出る。廊下を歩く社員たちも訓練された大道芸人よろしく凍りついていた。
一体、どうなっている?
状況が飲み込めないまま、オフィスに戻りドアを閉めると、その瞬間、すべての電気が消え、真っ暗闇になった。
いや、電気だけではない。まだ日が沈んでもいないのに窓から差し込む光さえ無くなっている。
迂闊に動いて転ばないよう、俺は壁に手をあてて体を支える。しばらくすると光が戻った。
しかし、光の戻ったオフィスの光景はとても信じられるようなものではなかった。
マネキン。
マネキン。
マネキン。
マネキン。
オフィス中にいた同僚も後輩も、高岡主任の姿も。すべてがくすんだマネキンの姿に置き換えられていた。
服装はそのままに、ところどころ
――――ガタッ!
――――ギリギリギリギリギリギリ。
硬いプラスチックを無理矢理まげて、軋むような音が響く。同時に甲高い耳鳴りが走り回る。とても立ってはいられない、強烈な吐き気に膝を落とす。
朝食も昼食も抜いていたお陰で、吐き出すものが無かったことに安堵する。そして、胃の不快感が収まった頃、
マネキン。マネキン。……マネキン。
ずらりと並んだ全てのマネキンが、俺を見ていた。
無数の視線が突き刺さる。研ぎ澄まされたナイフのように。無機質な表情の、マネキンの視線が、痛い、痛い、痛い。
心臓が音を立てるたび、視線の圧が増していくような重圧を感じる。全身の震えが止まらない。
「嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼ああ嗚呼嗚呼ああ嗚呼ああ嗚呼ああ嗚呼あああああ」
今までに上げたことのない、内臓を捻り出すような絶叫。喉が張り裂けてしまいそうだ。
――なんだ、なんだ、何でこんなことになっているんだ? おかしい、あのマネキンを拾ってから、ずっとおかしい。
給湯室へ向かい、包丁を取り出す。
そうだ、これは夢だ。悪夢なんだ。マネキンの腕が俺を呪って視せている、悪夢に違いない。あのマネキンたちを壊さなければ、俺の日常は二度と戻ってこない。そんな気がしてならなかった。
一体ずつ、乱暴に、包丁の刃を通していく。胸部のパーツには綿でも詰まっているのだろうか。薄い膜のようなプラスチックを突き抜けると刃はすんなりと通る。
突き刺した包丁からどす黒い汁が吹き出す。顔に掛かった液体は甘いライターオイルのような臭いがした。
――――ギリギリギリギリギリギリ。
最後の一体を刺し終えると、少しずつ、意識が遠のいていく。
やっと、悪夢が終わるのか――。
◆
「――――さん! き、む、ら、さん!」
再び気が付いた時、俺は自分のデスクに座っていた。
眼の前で人差し指を立てている主任はマネキンの姿ではない。いつもの彼女だった。
「ああああああああ!」
「きゃあっ! ……ど、どうしたんですか? 木村さん、急に大声を出して」
「え、あ……」
先程まで俺の身に起きていた現象のせいで、心の整理がついていない。俺は呼吸を荒げたまま、スカート姿で尻餅を
彼女は何事もなかったかのように立ち上がり、衣服をパンパンと叩く。
「やっぱり木村さん、様子がおかしいですよ。すこし、煙草でも吸って落ち着いてきてください」
「……すみません、そうさせて貰います」
この提案は、すんなりと受け入れた。
◆
屋外喫煙所のベンチで煙草に火を点ける。長年、吸い慣れた煙草の味も、今日は妙に苦く、毒々しく感じた。
火種は導火線を走る火花のように、じわりじわりと根本を目指す。
やけに不味く感じる煙草でも、根本まで吸う頃には胸の鼓動が緩やかなリズムを取り戻していた。職場の皆には悪い気がするが、もう一本目に手を出す。
「あの、すみません」
箱からもう一本目を取り出そうとした所で、スーツ姿の若い社員に話しかけられた。首に下げているネームプレートには、田中と書かれている。新入社員だろうか。見覚えはない。
「ライター、忘れちゃったみたいで。……いいですか?」
「……ええ、どうぞ」
プラスチック製の百円ライターを渡すと、彼はさっと火を点けて返す。「どうも、助かりました」俺も受け取ったその手で火を点けた。
何度か煙を吐き出していくうちに、さっきまでオフィスで起きていた現象も、ただの気疲れからくる幻覚だったのではないかと思えてきた。実際に、俺は主任との会話中に意識を失っていたようだし、そもそも、あんなことが現実に起こるわけがない。
全ては幻覚。もしくは夢だった。
後部座席に転がっていた腕も、目を離していた隙に、母が持っていただけに違いない。そうでなければ説明がつかない。
それが一番、辻褄が合う。――それ以外、あってはならないのだ。
心の整理もつき、二本目の煙草も吸い終わる。立ち上がって、「では、お先に」と、田中へ挨拶を済ませると、
「ああ、ちょっと待ってください」
彼が内ポケットを
「オフィス、戻る前に一粒どうぞ」
「ああ、助かる」
タブレットのケースを受け取ろうと手を伸ばし、ほんの一瞬、目を閉じたその
――――からん。
嫌な音がする。
軽い、とてつもなく乾いた音。
コンクリートに、プラスチック製品を落としたようなその音は、俺に嫌な連想しかさせなかった。
目を開くと、そこにはもう、田中の姿は無かった。
そして、俺の足元に転がっていたのは、くすんだマネキンの右腕だった。
◆
俺は今、真夜中の国道を走っている。助手席に、新聞紙とガムテープを巻き付けた、マネキンの腕を載せて。
喫煙所でこれを見つけた時、そんなはずはないと
足で踏んだまま
そして、その破片はフェンスの外の茂みに投げ込んでいたはずだったのだが……。
家に帰ると、テーブルの上に置かれていた。割れた部分も綺麗に直った状態で。
これが何かの呪物のような物で、このまま家に置いていてはいけない。
会社で起きた現象も、ここにマネキンの腕を置いていたからだろう。
これが、俺に視せていたのだ。酷い悪夢を。
オカルトじみた内容であっても、こうやって無理矢理に納得させなければ、今自分がすべきことを想像することすら出来なかった。
そうだ。元あった場所へ戻そう。
これは、ここにあってはならないもの。
運転中に見るのも触るのも嫌だったから、新聞紙で包んでガムテープを巻き付けた。
母が眠っている事を確認し、車へ乗り込む。――そして、今に至る。
真夜中の国道を走っていると、まるで、ここが自分専用のものであるかのような錯覚を起こしそうになる。等間隔に並んだ街灯が、せわしなく車の横を通り過ぎていく。
助手席に載せたそれは、新聞紙に包まれているにもかかわらず、車内に禍々しい空気を作り出していた。音など出ていないはずなのに、重低音で唸る何かがそこに眠っているかのような存在感がある。
それを見ないように努めても、街灯の光が暗闇を切り裂くたびに視界の端でちらついていた。
もうすぐ。もうすぐだ。
海に着いたら、これを放り投げるだけ。
煙草の吸殻を灰皿へ放り込み蓋をした。アクセルを踏む力が強まる。
あいた左手をシフトレバーに置いて休めようとすると、そこにあるはずがない物の存在に気が付く。
暖かい、皺だらけの、人の手。
「うわあああああッ!」
咄嗟にレバーから手を離す。
俺は助手席の方へ目を遣った。
嘘だ。そんなはずはない。――でも、たしかにそこに居る。
ずっと、助手席にはアレが載っていたはずなのに。
「昭二。急に大声を出して、どうしたの」
母さん……? なんで?
母さんは確かに、部屋で眠っていた。俺はそれを見たはず。
「母さん、どうしてここに!」
「どうしてって、昭二が連れてきたんじゃないの」
俺が、連れてきた……? ますます意味がわからない。
それに、母さんが助手席に座っているのなら、
「そうだ、新聞紙にくるんであったアレ、どこにやったんだ!?」
「アレ? なんのことかしら?」
「ほら、この間、海で拾った流木だよ」
「流木……?」
「ああ、もう。悠一兄さんはどこに行ったんだよ」
「あら、何を言ってるの。……悠一はずっと、そこに居るじゃないの」
母はそう言うと、車のフロントガラスの向こう、――正面を指さした。いつの間にか俺の車はセンターラインを大きくはみ出し、対向車線を走っている。
しかし、その車線上に人影はなかった。代わりに見えていたものは……。
大型トラックの
――早く、左に切って避けなければ、母さんも俺も、絶対に助からない。
ハンドルを握る両手に力を込める。しかし、びくともしない。ハンドルが重たく感じているわけではない。俺の腕が、まるで動かないのだ。
一体、どうなっているんだ?
まるで、他人の腕になったみたいな、肩から先に力が入らない。
太陽のように輝く前照灯は、だんだんと大きくなっていく。しかし、向こうから回避するような気配はなかった。額から滲む汗が目に入り、視界がぼやける。それでも、ハンドルを握る指先には何の感触も戻らない。確実に死が近付いてくるのが判る。
なんで、ハンドルが動かない。――視線を右腕に遣る。
ハンドルを握っている俺の腕は、くすんだマネキンの腕だった。
◆
――――2025/02/05(水)角川新聞 全国版 より抜粋――――
四日未明に書読県で発生した大型トラックと乗用車の衝突事故で、死亡した男性が指名手配中の木村 昭二 容疑者(三八)であったことが判明した。県警は大型トラックの男性運転手から事故当時の事情を引き続き聴取している。
木村容疑者は三日午後、勤務先の㈱カドカワ商事本社ビル内にて突然奇声を上げ刃物を振り回すなどをし、従業員・十七名を死亡させた疑い。逃走中の容疑者と屋外で遭遇し事件に巻き込まれた男性従業員(二五)は、右腕を複雑骨折するなどの重傷を負っている。
また乗用車に同乗していた女性は、木村容疑者の母親、木村 千尋さん(七七)で、共に死亡が確認された。死因は不明であるが、事故当時、既に死後数日が経過していたものとみられ、事件との関連性を調査している。なお車内から新聞紙に包まれた状態で発見された人間の右腕部については未だ身元の特定に繋がっていない。
<了>
くすんだマネキンの腕だった。 あああああ @agoa5aaaaa
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