07 シャルル

 明くる日。

 幸次郎はモネに貰った、いくつかの画を持って。ジヴェルニーの村を歩いていた。

 むろん「バベルの塔」も。

 かさばるそれらを抱えた幸次郎の耳に、荷馬車の音が響いた。


「お、旦那ムッシュ。奇遇だね」


「ああ、そうだね」


 御者は「乗りな」とあごをしゃくった。

 一瞬だけ覗いた、深い麦藁帽子の下のその顔には、薄い縁の眼鏡がかけられていた。


「ジヴェルニーから、今度はパリかい?」


 御者が今度は隣に座った幸次郎に語りかける。

 幸次郎は、そんなところだよと言って、荷台に絵画の山を載せた。


「何だい、あの画の山。もしかしてモネに貰ったのか?」


「そうさ」


「では譲ってもらおうか」


 低く、押し殺した声。

 それまで陽気に話していた御者のものとは思えない。

 手綱を握る手の片方が、離される。

 その片手が、懐へ。

 拳銃へ。

 行く寸前に。


「チェスト!」


 幸次郎の手刀が、御者の手を打った。

 御者はたまらず手を下げる。

 幸次郎はその手を握った。


「そのままだ、そのままにしていろ、


「いつから?」


 御者――今となってはシャルルが、そう聞いてきた。


「この馬車に乗ってジヴェルニーに来る時、モネ邸に至る前に降ろしたこと。モネ邸での君の態度、何かを探るような感じだった。そして今、逆にそんな薄い縁の眼鏡をかけていることから、怪しいと思った」


 シャルルは観念して、片手で眼鏡を太い縁の眼鏡に代えた。


「薄い縁の眼鏡をかけていると、誰も私をシャルルと思わないのに」


「それなら最初から顔をさらしておけば良かったんだ。行きに帽子で隠していたから、君だとわかった」


「やれやれ」


 シャルルは本職の間諜ではない。本物の建築家である。だから、諜報機関から指示を受けていた。変装についても。


「何を探っていたんだ?」


「それこそ愚問だ、松方さんムッシュ・マツカタ。君は、いや貴国の海軍は、ある秘密を追っていたな」


 幸次郎はしばし考えると、あることに思い当たった。


「……Uボートか?」


 Uボート。

 ドイツ帝国の潜水艦であり、第一次世界大戦下の欧州において、これほど恐れられた兵器もなかったであろう。日本も含め、各国において、その情報は垂涎ものであった。


「何か情報があったら教えてくれと言われた程度だったが、その話がこんなひとり歩きをしているなんて」


「まさに言葉が乱れている。そういうところだろう」


 シャルルの発言に、幸次郎は笑った。

 同時に、シャルルが幸次郎のモネへの回答を盗み聞きしていたことがわかった。


「で、モネの画が件のUボートの設計図か何かを隠している、と、君のかかわっている機関は判じていたわけだ」


「正確には、モネが、クレマンソーが諜報で得たそれを託されていると思った」


 機関は、建築家として売り出し中のシャルルに目をつけ、どういうコネを使ったのか、モネのアトリエにシャルルを潜り込ませた。

 シャルルは言われた通りにモネの画を探ったが、どうにも見つからない。

 あるとすれば、モネが若き日の習作と称して、誰にも見せない画ぐらいだった。

 シャルルは、それ以外もう何もないと機関に電報を打った。

 その帰りに。


「私と遭遇したわけか」


そうだウイ


 シャルルはうなずいた。

 咄嗟に田舎の荷馬車のふりをしたのはシャルルのアドリブである。日本の松方幸次郎なる人物が、Uボートを探っている話は知っていた。それとなく様子を窺っているうちに、モネが例の若き日の習作の包みを開けているのに気づいた。

 これは何かある、と判じた

 判じてしまった。

 機関もシャルルの判断を支持したため、シャルルは幸次郎とモネの会話を盗聴した。しかし、Uボートとはあまり関係は無かった。それでも「バベルの塔」を盗ることは命じられた。


「で、結果がこれか」


「私は建築家だ。本職の間諜とはちがう」


 だから、ばれて当然だとシャルルはうそぶいた。

 幸次郎は少し考えてから、「よし、君にあげよう」と言って、うしろの画の山から、「バベルの塔」の画を取り出した。

 差し出された画に、シャルルは叫んだ。


「何を考えているんだい、君は!」


「何でんなか。これこいはUボートとか、あるいは国家機密とか、関係なか」


 幸次郎が欲しかったのはモネ自身の画である。模写の「バベルの塔」ではない。モネの模写の価値は認めるが、今こうしてシャルルが欲しがっているのなら、渡しても良い。


「大体、そうでなくば、おはん、始末されるんじゃろ?」


「始末」


 シャルルは苦笑した。さすがにそこまではないが、不利な目に遭わされるだろう。


「機関とは手を切るつもりだった。モネの画を観て、私は喚起された。私も……私自身の『凄いモノ』を作ってみたいと」


 シャルルは、機関に借金がある。正確には借金を肩代わりしてもらった。建築にはいろいろと物入りだからである。


「この画を渡せば、機関からの借金は帳消しになり、縁も切れる」


「それなら、良か」


 幸次郎は笑顔でそう言った。

 はたから見ると、いかにも荷馬車の主に話しかける異邦人という雰囲気で。

 気づくと、荷馬車はパリに来ていた。

 幸次郎は「バベルの塔」以外の画を抱え、荷馬車を下りた。


ありがとうメルシィ、この恩は忘れない」


さようならオールヴォワール


 シャルルの言葉を振り切るようにして、幸次郎はシャルルに別れを告げた。

 去り行く幸次郎をいつまでもいつまでも見つめ、そしてやがて、シャルルは手綱を振って、荷馬車をいずこかへと向けて進めた。


「いつか、この恩を」


 そう呟くシャルルは、のちにコルビュジェという名の建築家として知られる。

 コルビュジェは松方コレクションを収蔵する西洋美術館の設計することになった。

 西洋美術館は、松方幸次郎の目指した、この国の青少年にモネの「睡蓮」に代表される西洋美術に触れる場として活躍し、今日こんにち――世界遺産に登録されている。



【了】

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松方幸次郎とモネと、そして「バベル」の謎 四谷軒 @gyro

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