06 言葉と画と

 その日。

 モネは上機嫌に「積み藁を描く」と外へ出た。

 幸次郎は荷物持ちである。

 途中シャルルに会ったが、「お気の毒さま」と呟き、行ってしまった。


「ここにしよう」


 モネが(幸次郎が持って来た)椅子に腰かけると、早速にイーゼルと筆を求めた。


「ところで」


 画布キャンヴァスに絵の具を塗るモネは、背中越しに幸次郎に聞いた。


「バベルの謎はわかったかね?」


「はい」


 モネは振り向いた。

 ドローイングの最中にモネが振り向くなんて、滅多にないことだ。

 幸次郎がそう思っていると、「早く」と急かしてくる。


「では、陋見ろうけんでありますが」


「前置きはいい」


 がさりという音がした。

 モネはパレットを放り投げた。


「聞かせてくれ」


 幸次郎は語り出した。


「最初、バベルの塔の話は、ノアの方舟はこぶねが終わったあと、預言者アブラハムが出るまでの間に、何か災厄が無いと、アブラハムにがつかないからだと思いました」


 つまり、ノアの方舟――大洪水により清められたはずのこの世界に、敢えて預言者アブラハムを登場させるためには、それ相応のお膳立てが要る、と考えられたのだろう。

 それが幸次郎の当初の推論である。つまり、アブラハムの登場のための演出として、があったことにしたかった、と。


「最初、と君は言ったね」


 モネは幸次郎を見た。射抜くような視線で。


「はい」


 そんな演出云々という話は、若き日のモネが画家を再度志した話と関係がない。

 もっと、根源的な。

 もっと、感覚的な。

 そういう何かでないと、この画の天才はふたたび筆を取らなかったろう。


「そこでシャルルに聞きました。何か、感ずることはないか、と」


「シャルル」


 モネの背後の積み藁から、がさりと音が聞こえた。風が吹いているのだろう。


「建築家の彼から見て、何か?」


「ありませんでした」


「そうか」


 モネは眉間にしわを寄せた。

 落胆しているらしい。


「そこで私は聖書を開いたのです」


 ――始めに、ことばありき。


 「ヨハネによる福音書」の頭の一節を読み上げる幸次郎。

 モネは黙っていたが、やがて何かに気がついたように、はっと顔を上げた。


「まさか」


「ご想像のとおりです。が、念のため述べましょう。ことばありきとするこの福音書は新約聖書ですが、旧約聖書から通ずる、言葉に対する姿勢がある。つまり、神は言葉で世界を始めた。示した」


「始めた。示した」


 モネのそれは独語なのか確認なのか判然としない。 

 幸次郎はかまわず、話を進める。


「ところが、このバベルの塔の話では、神はその言葉を乱した。それは、ひとつの言葉が人々の力をひとつにしてしまうからです。ならばひとつをやめる。ひとつではなくしてしまう。そうすることにより」


 幸次郎はそのあとをうまくフランス語に訳せずに、詰まってしまったが、モネが継いだ。


「そうすることにより、神の力を、言葉によって世界を始め、世界を示した神の力を強調するためか」


「そうです。それによって、言葉がたくさんあるこの世界。我が国ですら、鹿児島弁や他の方言があり、いくつもの言葉がある世界を、今を、それを目の当たりにする者に、その『ひとつだった言葉』をそれだけ多岐に乱した神の力を知ろしめすものなのでしょう」


「…………」


 モネの沈黙は納得ではない。

 まだあるだろう、という催促だ。


「ええ。これまでは前提です。西洋人の貴方には、聖書の話なんて今さらなのはわかってる。ではどうしてあの画が貴方の心を打ったのか。ブリューゲルは何を思って、バベルの塔を描いたのか。それは」


 積み藁の向こうから、ごくりとつばを飲み込む音が聞こえた。


「それは、言葉の乱れを神の御業として主張するバベルの塔の話を、敢えて言葉ではない、画として描くことにより、言葉をつかさどる神を越えた、言語と神を超越した画の力を見せたかったからではないでしょうか」


「おお」


 モネは感歎の声を上げた、諸手を振り上げた。

 あたかも神の降臨を祝う祭司であるかのように。


「そうか、そうだったのか」


「私が感じたことをまとめただけです。貴方に気に入られるように」


「謙遜することはない」


 モネは幸次郎の肩を抱いた。

 非常に満足だと言いたいらしい。


「君のその推量は、ほぼ私の胸中を、否、言葉にできない思いを言葉にしてくれた」


「皮肉なもんです。言葉を越える話をしたのに、言葉にできない思いを言葉にする」


「ちがいない」


 モネはもう帰ろうと言って、イーゼルや筆を片付け始めた。


「描かないんですか?」


「悪いが今日はやめだ。それより飲もう。クレマンソーに貰った、秘蔵の一本があるんだ」


 興奮冷めやらぬモネは、それで君に譲る画を決めようではないか、と口走った。


「そうだ。あの『バベルの塔』。これも受け取ってくれたまえ」


「よろしいので?」


 モネは笑った。

 どうせ自分が描いた模写だ。

 そして、長年の疑問が氷解した今となっては、もう要らないと言った。


「それよりも、今日の君との対話がそれに代わった。だから、君にあげよう」

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