最終話 煮え切らなかった人食い鬼と美味そうだった妻

1 あれも治療、これも治療、他意はない

大兄者おおあにじゃは海を渡り北の地へ逃げたのか」


 凍りかけの川に落ちひどい風邪に悩まされて三日の後。すっかり体力の戻った剛厚つよあつは、もたらされた消息に、強面こわもてをいっそう険しくした。


 合議が行われている妖山あやかしやま城の広間には、次兄も並んでいる。先日の事件以降、幸厚ゆきあつは妖山城に滞在しているのだ。


「あちらにはすでに異民族の人間が住んでいるはず。大兄者、また何か非道なことを企んではおるまいか」

「ただ逃げ場がそこにしかなかったのか、それとも何か腹に抱えておられるのか、真意は読みかねますな。されど間諜を出そうにも、北方との玄関口である港と白澤しらさわ領の間には、妖山がそびえ立っております。使者を向かわせるのも容易いことではありませぬ」


 近習の言葉に、剛厚は煮え切らない唸りを返す。


「う、ううむ、しかし我が兄を野放しにして他家に迷惑をかけるわけには」


 先日の北藍川ほくらんがわ下流域での騒動の折。剛厚が無様に気絶している間に、長兄厚隆あつたかは仲間の天狗に連れられて北へと去った。戸喜左衛門ときざえもんとその仲間が空を飛び追いかけたのだが、敵に阻まれ引き留めることができなかったらしい。


 結局、厚隆と仲間のあやかしは港から船に乗り、北の大地へと旅立った。以降のことは、一切わかりかねている。


 婿養子となり白澤を名乗っているとはいえ、剛厚とて生まれは奥野国主狭瀬はざせ家の三男だ。異母兄が策略を巡らせて他人様ひとさまに危害を加えるのは本意でない。さらに、万が一彼が北方に一大国家でも築き上げた暁には、いつ攻め入られるかと気が気でなくなるだろう。


(どうするべきか……ううむ)


「消えた狭瀬源太郎の目論見を暴くのはもちろん重要ですが、我らにはそれよりも前に対処せねばならぬ懸案がございます。奥野国はどなたがお治めになるのでしょうか」

「それは小兄者しょうあにじゃだろう」


 近習の言葉に、きっぱりと答える。優柔不断な剛厚だが、このことばかりは迷う必要もない。けれども当の幸厚はすぐには頷かない。


「そなたはそれでいいのか剛厚」

「何がです」

「奥野国が欲しいとは思わないのか」

「な、何を仰るか。滅相もない!」


 思わず素っ頓狂な声が出た。剛厚は咳払いをしてから、いくらか落ち着いた声音で言った。


「いいですか、小兄者が大兄者の後継として相応しいのは、何も生まれ順ばかりが理由ではありません。小兄者は大兄者の右腕として領国運営に携わってきたではありませんか。奥野国への理解は、それがしなどよりもうんと深いはずです。それに」


 剛厚は首を巡らせ、居並ぶ家臣らへと順々に目を遣った。


「某は妖山城主。白澤の婿養子なのですから、観山みやまではなくこの城を治めねばなりません。白澤の姫である雪音ゆきねもいることですし」


 珍しく城主らしい態度で述べたつもりであるのだが、雪音の名を出した途端、すっと空気が冷えた。気のせいかと思いきや、そうではない。先々代から白澤に仕えている古参の近習が、臆することなく剛厚を見上げた。


「そのことですが、姫様の正体は人間ではなく妖狐ようこであると、もっぱらの噂。此度の件で、敵の手から逃れるために、何人もの男を誑かして失神させたとか」

「う、うむ」

「ならばもしや、先代が早世なさったのも、白澤の男児が皆蒲柳ほりゅうしつであったのも、全ては妖狐……姫様の母親のせいだったのではありませぬか? 雪音様の正体は、すでに民草の中で噂になっているようです。先代を死に追いやった女狐めぎつねの娘を、白澤の姫、殿の奥方として扱うことに、反感を持つ者も多く出ることでしょう」


 剛厚は咄嗟に言葉が浮かばない。妖狐は男の纏う陽の気を吸う。陽の気すなわち、生きるための活力たる生気である。妖狐に魅入られ生命力を奪われ続けた白澤の前当主。それが原因で病がちになり、とうとう命を落としてしまったのだと考える者がいるのも理解ができる。だがしかし。


「雪音の母君が、あやかし三箇条を破ってしまった可能性は確かにある。だからといって、雪音自身に罪はないはずだ。それに、妖狐がだめだというのなら、某のことはいかにする。正真正銘の人食い鬼なのだぞ」


 そう、剛厚は二度にわたって鬼姿をさらしている。雪音が攫われたと知った時と北藍川での騒動時。雪音よりも一足先に、あやかしであることがおおやけとなってしまったのだ。けれども古参の近習は、首を横に振る。


「鬼は死肉しか食わぬよう定められております。殿は慈悲深いお人柄ゆえ、あやかし三箇条をしかと守ってくださいましょう。何も心配はありませぬ。元より、主君のご不興をかえばどちらにしても切腹になるのです。我らとしては鬼の主君はそう恐ろしいものでもなく、むしろ殿のような強く優しき鬼が妖山城主であられるのなら、家臣一同安心してお仕えできるというものです。されど妖狐は、生きた男から生気を奪います」

「雪音がそなたの気を吸うとでもいうか」

「いいえ、そのようなことは。ですが実際、この近辺で妖狐による不審死事件があったばかり。はたして民は納得するでしょうか」

「あれは兄の企みであり、妖狐は関係ない」


 とはいえ民の中には未だ、狐が鳴く夜に発生した一連の不審死事件を、妖狐の仕業だと考える者がいる。


 元々妖狐は、人間はもちろんのこと、あやかしからも遠巻きにされる存在だ。人間あやかし獣を問わず、異性を誘惑し、雄が持つ陽の気を吸うのだから無理もない。欲望に忠実な淫乱な種族だと厭われている。


 人間から嫌われるのは鬼も同じだが、鬼の場合は家臣らが述べたように、仲間となれば心強いものである。けれども妖狐は違う。ただ、侮蔑の対象となるだけだ。


(だが、雪音はそうではない)


 剛厚は身をもって知っている。彼女は剛厚の生気を吸い尽くそうとはしなかった。少し無鉄砲なところはあるものの、越えてはならない一線を理解した慎み深い妻だった。


 この騒動で雪音は男たちの生気を吸って失神させたのだが、それはむしろ剛厚たちのためである。いわば自己犠牲にも等しい。にもかかわらず、その行いに眉をひそめられるなど、雪音が哀れでならない。


 眉間に深い山谷ができ、鼻に皺が寄る。腹の奥底で、獰猛な炎の蛇が這いずっているかのような心地がする。堪えきれずに声を荒げかけた時だった。慌ただしい足音が廊下に響き、開け放たれた庭側の障子の向こうから、若い近習が現れ膝を突いた。


「殿、申し上げます。奥方様がお目覚めになられました。発熱も治まったようです」

「何と、雪音が!」


 思わず腰を浮かせた剛厚の眉間から凹凸おうとつが消え去った。


 川に落ちて以来高熱が続き、目を開けても朦朧としながら粥をすするだけだった雪音の容態が、ようやく安定したというのだ。重苦しい気分は一息で吹き飛んだ。けれどもなぜ、こうも急激に回復したのだろうか。


 もしや昨晩、愛しさと心配でどうしようもなくなり、妻の青ざめた唇についばむような接吻をしたのがよかったか。


 泣く子も黙る強面こわもてであのような所業、我ながら変態じみているのだが、雪音は妖狐。陽の気を吸えば肉体の回復は早まるはず。そう、これは治療。


 うやむやにしていたが、川岸でのあれも治療。全ては雪音の身体のためなのだ。他意はない。


「殿? お顔が赤くございませんか。よもやまだ本調子ではなく」

「い、いいいいいいや、大事ない! とにかく」


 剛厚は顔を引き締め、古参の近習に険しい目を戻してきっぱりと告げた。


「某はそなたの経験と明晰さを頼りにしているのだ。だからこそ、偏見や憶測で話すことは断じて許さぬ」

「……過ぎたことを申し上げました。ご無礼をお許しください」


 剛厚は鷹揚に頷き、異母兄を見る。視線を受け取った幸厚は意図を汲み取り頷いた。


「行ってこい、奥方のところへ」

「小兄者に皆、かたじけない! すぐに戻る」


 言うなり剛厚は勢いよく廊下に跳び出す。脇目もふらずに御殿内を足早に進み、雪音が伏せる病間へと駆け込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2025年1月11日 17:00
2025年1月12日 17:00

あやかし化かし合い戦記 〜煮え切らない人食い鬼と美味そうな妻〜 平本りこ @hiraruko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画