10 きゅうり大乱闘

 耳を疑うような言葉に、急激に血流が上昇する。頭部に血が集まり、耳鳴りがして視界がちかちかと明滅する。


「あ、兄上、あなたは」

「だから何度も言っただろう幸厚ゆきあつ。おまえの母上を食ったのは父上ではないぞ、とな」


 柄を握る手が激しく震える。厚隆あつたかの肉厚の手が、幸厚の手のひらごと懐刀を掴んだ。


「あの後父上は一気に老け込んでしまってな、結局隠居をしてしまった。まあ無理もない。実の息子に、獲物でもあっためかけを奪われ食われてしまうなど、鬼としては恥だろう。しかし、先にわしの命を狙ったのはおまえの母親だ。わしはただ、身を守ったにすぎぬ。ここがあやかしの国であれば、鬼が治めてはならぬ道理はない。だからわしは、奥野国おくののくにをあやかしの国にする。狭瀬はざせの未来と、全あやかしの安寧のために」


 強く腕を引かれ、呆然自失とした幸厚の身体はいとも簡単に弾き飛ばされる。形勢が逆転した。丸太のような腕に首を絞めつけられて、幸厚は目尻に涙が浮かぶのを感じた。


 怒り、戸惑い、絶望。その他、種類も知れない感情の波たちが、幸厚の身体を麻痺させる。


 生きながらえてもここで死んでも、どちらにしても虚しい人生だ。鬼でもない、人でもない。ただ兄の言いなりになり観山みやま城下で暮らし、奥野国を守り老いて命を終える。そんなつまらぬ未来をぼんやりと思い描いてきただけなのだから。


(もはや、ここまでか)


 呼吸ができず、見える光が次第に衰えていく。鈍色の空、雲間から降り注ぐ陽光が淡く霧散して、視界が暗く染まり始める。意識の消失を覚悟した。その時だ。


 ひゅん、と緑色の細長い固体が風を切り、厚隆の頭部を打った。気を削がれた厚隆が顔を上げた拍子に、拘束の手が弱まる。幸厚は我に返り、転がるようにして異母兄の身体の下から這い出して、緑の出どころへ目を向ける。川から、大勢の河童が這い上がり、何かをこちらに投げていた。


「行けっ! 凍りぬか漬け!」

「ぬっ!?」


 ごん、ごん、と厚隆の全身を緑の塊たちが襲う。何とあれは、きゅうりだ。


「お雪様が愛情込めて育てたきゅうりを食らえっ!」


 やー! という気の抜けるような高い叫びと共に、緑が飛ぶ。続いて、頭部に陶器の皿を乗せた奇妙な娘がこちらへ駆け寄った。


「狭瀬源次郎様ですよね、さあ、こちらへ、へ、こちら……ふひゃあ……。ああ、いけないいけない」


 川の水を飲んでしまったのだろうか。全身を赤らめた、見るからにほろ酔い状態の娘が、崩れかけた膝を拳で叩いてしゃんと立つ。河童のなりをしているが、漂う甘い血肉の香りが、彼女の正体は人間であるのだと主張している。


「さあ、後は私たち穏健派のあやかしにお任せください」


 方々から上がる口汚い罵り声と、ぼこぼこにきゅうり攻撃を食う厚隆の姿。穏健派という言葉がちぐはぐに思えて呆気にとられる。いいや、それよりも。


「あやかし? そなたは人間だろう」

「失礼な! 私は、河童です。心があやかしですから、私は河童なんですぅっ。はひゃっ。そう言うあなただって、結局鬼なんですか? それとも人間なんですか?」

「私は、ただの中途半端な」

「あ、半鬼ってやつですね、わかりましたー! どうぞ、よろしくお願いしますー!」


 徐々に酒精が回ってくるのか、娘の呂律がどんどん怪しくなる。言葉も態度も何もかも、無礼なことこの上ない。けれども彼女の明るい声が、すとんと腹に落ちる。幸厚は、胸に抱えていた大きく重たいしこりが溶けて消えていくような心地がした。


(鬼でも人でもない、半鬼という存在。ただそれで、よかったのか?)


 そうか、それならば何も難しいことはなかったのだ。


 河童娘が、にへへと笑う。幸厚が戸惑いの合間から笑みを返した直後、酔っ払い娘の赤ら顔に、天から影が落ちてきた。不意に空が翳ったのだ。


 緩んだ空気を、上空から降り注ぐ羽ばたきの音が引き裂いた。顔を上げれば、山地の方角から天狗の群れが飛来するところである。


 山伏姿の天狗らは、きゅうりを武器に戦う河童たちに襲いかかる。河童娘が悲鳴を上げた。


「や、やめて」

「なつめ!」


 天狗の群れではなく、逃げ惑う河童の緑の間から、黒い翼を背負った男が現れた。敵か、と身構える幸厚だが、なつめはむしろ駆け寄った。


戸喜左衛門ときざえもん様、これはいったい」

「あの不届き者らは、わしらとは派閥を異にする天狗。敵のあやかし軍団は北藍ほくらん殿のお陰で酔いつぶれたが、酒に強い天狗は足止めできなんだ。それゆえ、あやつらは主君たる観山殿を救いに来たのだろう」


 幸厚は表情を引き締める。ここで異母兄を逃がすわけにはいかない。黒と緑が入り乱れる川辺を睨み、厚隆の姿を探す。けれども彼はすでに、配下の天狗に両脇から助け起こされて、空へと飛翔するところだった。


「待て、兄上!」


 幸厚が叫んで雪を蹴りかけた時。やや離れた背後から、わっと声が上がった。肩越しに振り返る。下流側の川辺で、茶色い塊がぴょんぴょんと雪原を跳ねている。


「お雪、それに妖山様! ど、どうしよう。二人とも冷たくなって。誰か! 誰か助けて!」


 目を凝らせば、雪の床の上に横たわる二つの人影が見えた。川に投げられた雪音と、彼女を救うために飛び込んだ剛厚だろう。極寒の季節、いかにあやかしとはいえ、あのままでは命の危険がある。


 兄を追うか、弟を救護するか。逡巡した幸厚に、戸喜左衛門と呼ばれていた天狗が力強く言った。


「観山殿は空におられる。つまり、天狗にしか追えませぬ。わしが後をつけますゆえ、狭瀬様はこの場を収めてくだされ」


 では、と言いおいて天狗が大きく翼を広げる。雪を巻き上げ飛翔して、いくらもせぬうちに曇天に溶けて消えた。


 どちらにしても、翼を持たない身では、天狗を追いかけることなどできない。乱闘の中心地を見れば、主君の離脱を見届けた天狗らも、ばらばらとその場から飛び去って行く。河童らの身はひとまず安心だろう。


 幸厚は気を入れ替えて、異母弟の元へと走った。


「ああっ、狭瀬様!」


 近づくと、茶色くふわふわとした妖狸ようりが飛び跳ねながら出迎える。先日、妖山城で顔を合わせた娘だ。確か、つゆといったか。


「弟の状況は」


 息を切らせながら視線を落とし、幸厚は大きく安堵の息を吐く。


 はらはらと降りしきる粉雪の中。向かい合って横たわり、しかと手をつなぎながら眠る剛厚と雪音の胸は、穏やかに上下している。その全身は、上質な獣皮に包まれていた。遥か北方に住まう異民族との交易品である、防寒に優れた品だ。


「何だ、ちゃんと防寒具が……うわっ⁉」


 突然、獣皮の表面、顔でも何でもない場所に二つの亀裂が入り、つぶらな瞳が現れた。くわっ、と瞼が開かれる様を目にし、危うくひっくり返りそうになった幸厚に、獣皮が邪悪な引き笑いをする。


「驚いたかのう。愉快も愉快。してやったりじゃ、ひひひ」

「妖狸が防寒具に」


 このような時にも人を化かそうとする妖狸に半ば呆れつつ、幸厚は張りつめていた気がゆっくりと解けていくのを感じた。


第四話 終

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