9 食ったのだよ

「待て、兄上!」


 剛厚つよあつが川に飛び込むのを見送った幸厚ゆきあつが振り返った時には、長兄厚隆あつたかはすでに雪原を駆け、遥か遠方まで去っていた。ほとんど、黒いだけの人影になるほど距離が開いている。純血の鬼の脚力は尋常でない。


 幸厚の母は人間だ。それゆえ、幸厚は中途半端な存在である。


 人間には疎まれる一方で、鬼ほど強靭ではない。異母弟剛厚には格好をつけて「任せろ」と啖呵を切った。けれどもか弱いこの脚では、異母兄に追いつくことなどできやしない。無力感に苛まれながらも、懸命に雪を踏み分ける。その時だ。


「やいやい、半鬼はんきやい」


 軽快な声がした。瞠目して辺りを見回すが、一面の雪原と牛車、やや離れた場所を流れる北藍川ほくらんがわしかない。……牛車……牛?


「こっちじゃこっち。勘の悪い男よのう」


 声に合わせ、牛車に繋がれた牛の鼻から、ふんふんと白い息が溢れる。幸厚は呆気に取られ、無様にも半分口を開いたまま、牛のつぶらな瞳と見つめ合った。


 どろん、と牛車が白煙しらけむりに包まれる。次の瞬間、牛車は跡形もなく消え、代わりに立派な毛並みの馬がいた。が、その尾はなぜか、ふさふさとして太い。


「ひひひ、乗るがいい」

「もしやそなた、妖狸ようりか?」


 ならば、先ほど幸厚たちの父の声を演じていたのも、牛……いいや、妖狸だったということか。


「やっと気づいたか。鈍感よのう。とにかく話は後じゃ。早う乗れ」


 幸厚は顎を引き、促されるがまま馬の背に飛び乗った。


 雪道ゆえか、それとも正体が狸ゆえかはわからぬが、よたよたとした心許ない走り方。けれども曲がりなりにも馬である。厚隆の背中は徐々に近くなる。


 崩れた小屋の立ち並ぶ小さな集落の辺りで追いつくと、幸厚は馬の背から身を乗り出して、異母兄を真上から押し潰すようにして飛び降りた。


 背中から雪に沈んだ鬼の、憤怒に満ちた唸り声が廃屋の間に響く。どうやら住人はいないらしい。数か月前に北藍川が氾濫して、流され打ち捨てられた集落なのだ。ならばむしろ、好都合。思う存分戦える。


「逃がしませんよ、狭瀬はざせ源太郎厚隆!」


 変化を解けば、幸厚の視界が一段高くなる。半分とはいえ、幸厚も鬼。ささやかながらも角を生やせば、身体能力は人間とは比べものにならない。けれども当然、純血の鬼の膂力には敵わない。


「半鬼ごときがわしに楯突くか!」


 太い腕に横面を打たれ、世界がぐるぐると回るような衝撃に見舞われた。口の中に鉄の味が広がるが、幸厚は怯まず、異母兄の頸部に懐刀を押し当てる。鋼鉄のような筋肉に覆われた鬼とはいえ、本気で断ち斬ろうとすれば、頸動脈を裂くことは造作ない。急所を捉えられた厚隆は牙を剥き出し呻いた。


「おのれ、半鬼に組み敷かれるなど! 妖狐ようこに力を奪われてさえおらねば、おまえなど一捻りにしてやるのだが」


 厚隆の息が荒い。忌々しげに吐き捨てられた通り、雪音ゆきねに生気を吸われたことが原因で、僅なりとも弱っているらしい。幸厚は肩で息を繰り返しながら、懐刀の柄を握り直した。


「兄上は昔から、親愛の笑みを浮かべながらも私を疎み、源三郎ばかりを可愛がってこられました。その理由は、私が半分人間の血を引くからなのでしょう。ですがなぜそこまで憎むのですか。あなたにとって、不完全な半鬼の異母弟など、歯牙にもかける必要のない小者のはずだ」

観山みやまは人間の土地だ。だからこそ、人間に近い城主が求められた。それゆえわしは、おまえを恐れたのだ」


 突然の暴露と共に、厚隆の瞳に暗い影がよぎる。


「特に、おまえの母親が目障りだった」

「母が? 人間なのに」

「あいつは人間だが、妖狐も顔負けの女狐だ。あの女は、城主の責務は人食いを本能とする鬼にとって窮屈であるはず。人間の国は人間の手に返すべきだ……そう言って父上を誑かした。そうして観山城が幸厚の手に渡るよう、泥臭く根回しをし、わしを失脚させようとしたのだ」


 母の線の細い後ろ姿が脳裏に浮かぶ。あの華奢で弱々しい女人が、まさかそのような奸計かんけいをめぐらせるだろうか。


 絶句する幸厚。厚隆は異母弟の顔に浮かぶ複雑に絡み合った感情を見て、にやりと口の端を歪めた。


「だからな、幸厚。父上とあの女が視察に出かけた折、わしは密かに後をつけ、あの女を父上の手から奪い、そして」


 ――食ったのだよ。

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