8 このまま永遠に目覚めなくても
(どうしてしまったのかしら、私……)
身体中に、陽の気が満ちていて温かい。鬼、しかも心身共に屈強な男の生気を急速に吸い、
冬の川に落ちたとて、この状況ならば、すぐに気を失うことはない。けれどもなぜか、全身が痺れ、次第に思考に靄がかかる。まるで、夢うつつの境を漂っているかのような心地がする。
実のところ、
水に流されるがまま、ただ揺蕩う。いくら身体がぽかぽかするとはいえ、呼吸ができねば意識は次第に遠くなる。
苦しい。
空気への渇望に気づいてしまえば、途端に苦痛が押し寄せる。思わず口を開いた拍子に口内に流れ込んだものの冷たさに我に返り、慌てて水を吐き出した。己の口から生じた泡の粒。その白い群れの間から、都合のいい幻覚が見えた。
(源三郎様)
普段よりもさらに一回り大きな身体をした
(まあ。変化が解けてしまって。そんなに怖いお顔をして、いったいどうなさったの?)
何かの言葉をしきりに発する剛厚の口から、大小の水泡が溢れている。呼気の結晶一つ一つすら無性に愛おしく、雪音は泡を掴もうと手を伸ばす。その指先を、確かな温もりがぎゅっと握り締めた。力強い熱が、雪音を現実に引き戻した。
空気が欲しい。
苦痛に顔を歪めた雪音を抱き締め、剛厚は水を蹴り水面に向け、ぐんと浮上する。水の膜を割り頭部が冷気にさらされた。ほとんど無音の世界が一変、流水の轟音が鼓膜に押し寄せる。雪音は大きく息を吸い、肺に入り込んだ水に大きくむせた。
「雪音、しっかりするのだ」
耳元で剛厚が鼓舞する声がした。川の流れに逆らい水を掻き、剛厚は雪音を岸に押し上げる。続いて自らも、這うようにして雪の上に倒れ込んだ。
大きく息を繰り返し、呼吸がいくらか落ち着いてから顎を持ち上げた。すぐ近くに、
「よかった」
「源三郎様」
愛おしい名を呼んだと同時に、雪音の全身を寒気が襲う。冬の川水が身体の芯を凍りつかせたかのようだった。
「雪音? 苦しいのか。何か温かなものを。いいやしかし」
しどろもどろになりつつも、背中を撫でてくれる無骨な手が温かい。凍える雪音とは対象的に、剛厚の方は水の冷たさもさほど堪えていないと見える。屈強な鬼ならばこの程度、大事ないことなのかもしれない。それならば、よかった。本当によかった。
雪音は朦朧とする世界に浮かぶ剛厚の頬に手を伸ばし、微笑んだ。
「大丈夫、何もいりませんわ。殿がそこにいらして、ただ抱き締めてくだされば、それだけで」
「しかし」
「大丈夫。私は、狐ですから」
「き、狐……」
「ああ、でももしお許しくださるのなら」
視界が脈打つように明滅する。雪音はほんの少しだけ躊躇ってから言った。
「手を、握ってくださいませ」
剛厚の目が見開かれる。すぐに、大きな手のひらが雪音の手を包み込んだ。
触れた肌から、陽の気が流れ込んでくる。心地よいが、あまり吸い取り過ぎてはならない。愛おしい人が弱る姿は、もう二度と見たくないのだ。その思いが表れたのか、ほとんど無意識のうちに指が抜ける。それをすかさず引き留めて、剛厚は雪音の身体をいっそう強く抱いた。
温もりに包まれているはずなのに、どうしようもなく寒い。
意識が遠のく刹那、雪音は幸せな白昼夢を見た。ひんやりと冷えた剛厚の唇が、雪音のそれと重なったという幻覚だ。
己の生気を吸われると知りつつ、わざわざ妖狐に口づける男などいるはずがない。それなのに、本物と寸分違わぬ感触だ。心の柔い部分をきつく抱き締められたかのような淡い切なさが胸から溢れ、全身の血管を駆け巡る。
このまま永遠に目覚めなくてもいい。心の底からそう思った。
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