赤銅と真珠
さて、【貝の末裔】はつがいを持つが、鳥のように卵を温めて雛に餌を与えることはしない。子どもは産んだら産みっぱなしだ。沢山の大人達に見守られて、子どもは自分の力で生きる術を覚え、成長する。大人になって、金属器の扱い方を教わり、村を支えていく。
オログもまた物心がついた頃から親はいなかったが、傍にいつもテルネラがいた。引っ込み思案なオログと、天真爛漫なテルネラ。正反対のようでいて、まるで一緒に生まれた双子のように気が合った。
やがて成長するに従い、テルネラは物静かになっていった。それが体調が悪いせいだとわかったのは、彼女が目の前で倒れたからだった。テルネラが目を開けてくれるまで、オログは生きた心地がしなかった。その時初めて、テルネラをいつか失うかもしれないことに気づき、怯えたのである。
『からいの』
目を覚ましたテルネラは、そう言ってすんすんと泣いた。
『みんながくれる食べ物が、飲み物が、塩からくて、呑み込むのがつらいの。だから全然喉を通っていかないの。食べられなくて、いつもお腹がすいて、苦しいの。みんなおいしいおいしいって言うのに、私、おかしいのかな。未だに真珠も作れないし、私、やっぱりおかしいのかも』
『……大丈夫だよ。アレルやヘルガだって、まだ真珠は作れないよ。テルネラだけじゃない』
そう言ってテルネラを慰めながら、嫌な汗が噴き出していた。
幼い頃は、オログもまた、塩水のからさが、殻の木のからさが、つらくてたまらなかった。だのにいつのまにか苦にならなくなっていた。そうして今では、真珠を吐けるようになっている。真珠は、殻の木を食べ、塩水を呑んで、栄養を搾り取ってできた粕だ。そして真珠を口から吐き出せるようになったら、一人前になったということだ。
真珠を体内で作れるようになるまで、【貝の末裔】の子どもは一族の同胞とみなされない。一族が捕食し【コエナシ】と呼ぶ人間と何の違いもないからだ。コエナシと一族の違いは、真珠を吐くか吐かないか、ただその一点に絞られる。体ばかり大きくなっても真珠を作れない子どもの末路は、【コエナシモドキ】と差別的に呼ばれながら捕食され、誰かの真珠の餌になること。
……テルネラだって、そのうちぽろりと真珠を零すかもしれない。そんな淡い期待を捨てたくなかった。けれどもうわかっていた。ずっと傍にいたからこそ、目を逸らせなかった。テルネラは、【コエナシモドキ】に違いない――
まだ真珠が作れていない子どもは残っている。けれど彼らは、与えられる殻の木も、水も、今ではおいしそうに食べて、飲むことができる。
テルネラだけが、それをからいと感じて、苦しんでいる。食べられなくて痩せていく。どうしてテルネラが肥えないのかようやく合点がいった。小食なのかと勝手に納得していた自分をオログは恥じた。
【コエナシモドキ】なんてめったに生まれないとは言ったものだが、本当かどうかさえ怪しい。子らの知らないうちに間引きされているとしたら。【コエナシモドキ】なんているわけない、そんな風に楽観的に考えることなんて到底できない。オログはテルネラのいない世界に価値など見出せない。けれどこれは誰にも話せない。話してはいけない! テルネラがいなくなって困るのは、この世界で自分だけなのだ。
運命ってそういうことでしょう? だってオログは、テルネラとつがいになりたい。テルネラを守れるのは僕しかいない、きっと……
テルネラのために森を渡り歩く。草花に貼りついた朝露をかき集める。貯めた雨水で、塩を吸い込みからくなった殻の木を何度も洗う。大人達の目を盗んで、それらをテルネラに食べさせ続ける。彼らの前では、与えられたものをおいしいと言って食べろとテルネラには言い聞かせ。後でどれだけ吐いてもいいから、倒れたって寝込んだっていいから。大人たちの前では、絶対にぼろを出さないで――。森の奥深くに塩濃度の薄い湖畔を見つけてからは、その場所をテルネラの主だった食料源とした。
大人らが二人の様子を訝る時もなかったわけじゃない。けれどその都度、オログは作り笑いで無邪気さをよそおってきた。
『テルネラはね、僕が傍に居ないと、ものが喉を通っていかないんだって。だから僕が食べさせているの』
●
欠伸が止まらず足取りもおぼつかないテルネラの手を引いて、木の洞の寝床へと連れて行く。横たわった身体に薄い木綿の布をかけてやれば、テルネラは「うう」と唸った。オログはテルネラの長い髪の房を手に取り、そっと口付けた。
「おやすみ、テルネラ」
そっと囁くと、テルネラは目蓋を薄く開けてこくりと頷いた。オログは指を伸ばし、ためらいのち、そっとテルネラの左耳に触れてみた。鈍く輝く黒真珠の粒を撫ぜた時、肌がぞくりと粟立った。
戸惑いながら、ぱっと手を離した。体が軋むように痛かった。ようやく手に入れたという愛しさだろうか。それともこれからも続く、いつ奪われるかわからない恐怖か。口を押さえたが間に合わず、指の隙間からぼろぼろと真珠が零れ落ちる。鈍い黒に乗る緑の光は、数を増やして草を食らい尽くす虫の色に似ていた。きっとこれからも、テルネラに触れれば触れるだけどろりと零れるのだろう。
ずきずきと疼くこめかみを撫でながら、そっと洞を後にする。
ぱちぱちという小枝の弾ける音が村の中央から響いてきている。緑と紫色が滲んだ朝霧の中、今日も空には灰が昇り、空の青色をくすませるのだった。大きな焚火の傍で大人達は指を組み炎に祈りを捧げている。オログも腰を下ろしてそれに習った。
「テルネラはどうした」
隣の青年――シュークヘルトは、ちらりとオログを見るなりそう呟いた。
「まだ眠っています」
静かな声で答えれば、シュークヘルトは舌打ちを漏らした。
「あの娘、寝るか倒れるしか能がないのか」
「そうかもしれません。でも僕は、それでも構いませんよ。起きてあの笑顔を誰彼かまわず振りまくよりは、ずっとましです。特にあなたにとか、ね」
焼ける枝の香ばしい香りを吸い込みながら祈る手を崩す。にこりと笑いかければ、シュークヘルトの顔はかっと青く染まった。
オログはわざとらしく首をこてりと傾げた。耳飾りが大きく揺れる。焚火の赤い光に照らされて、白い真珠は淡く輝く。シュークヘルトはそれを凝視した。
「お、まえ……それ、どうしたんだ」
「ああ、これですか」
オログは耳飾りを手慰む。
「テルネラが零したんです。初めてだったので、疲れて眠ってしまったみたい。少し浮かれてしまって、僕、夜なべして編みこんだんですよ。綺麗でしょう」
「な――」
「えっ、テルネラやっと真珠吐いたの? よかったなあ」
声を聞きつけ、別の少年――アレルが顔を覗かせた。
「僕も初めての時は体がだるかったもんなあ。わかるよ。お大事にって伝えといてよ」
「うん。ありがとう」
オログはにこりとアレルに笑い返した。
「な、お前ら……成人の儀はまだだろう? だのにそんな……非常識だぞ」
シュークヘルトの声は震えている。そのうろうろと泳ぐ眼が火に燻される魚みたいだと思って、オログは思わず口の端を釣り上げた。
「そうなんですけど、こうでもしないとあの子に虫がつくかなって思って。真珠はもう交換してしまったから、後は長老にお伺いをたてに行くだけなんですよね。まあ……順番は逆だけれど若気の至りだと思ってもらえればいいなあ」
「あー、虫ね。テルネラ可愛いもんな。な、シューク」
「な、誰があんな、男に身の回りの世話をさせるだけの能無し!」
シュークヘルトは顔を真っ青に染め上げながらどもった。オログは頷いた。
「そう。僕がいないとね、生きていけないようにしたんだ。そうしたら誰も、まさかあの子のこともらおうなんて思わないだろ」
シュークヘルトは絶句している。彼はそのまま勢いよく立ち上がり、長い三つ編みを尾の様に揺らしながら、立ち去った。その背中は霧に紛れてすぐに見えなくなる。
「あーあ。シュークのやつあれ結構へこんでるぞ」
「知ってる。だからわざわざあの人の隣に座ったんだ」
「オログも結構腹黒いよね」
アレルは肩をすくめた。オログは眉根を寄せた。口の端がわずかに引きつった。
「だって……あの人、毎朝毎朝、口を開けばテルネラはどうした、まだ寝てるのか、今日も来ないのか、ってうるさいんだよ」
「そりゃ……まあ、それはうっとうしいよな、まあ」
アレルは言葉を濁しながら頬を掻いた。
「でも勘弁してやってよ。あいつ、テルネラに会えるの朝だけだから、あれで結構楽しみにしてたんだよ」
「知ってる。だから夜散歩させて朝起きれないようにしてるの」
「うわ……すごい束縛。はは、すっげえ――な、なに、どうしたの、その顔」
「え、何?」
「お前、今すっげえ怖い顔してるけど」
「ああ、うん……自覚は、ある」
オログは頬の肉を詰まみ、ぎゅっとさらに眉根を寄せた。
「あー……うん、そうだ、お前、寝起きのまま来ただろ。目の下に隈ができて酷いことなってる。顔洗って来いよ」
アレルは困ったように笑いながら、大きな蕗の葉をオログに渡した。オログも大人しく受け取る。
そそくさと離れていったアレルを見送り、息をついた。頭がずきずきと痛む。辺りに転がっていた金の瓶を拾い上げ、のろのろと湖畔へ向かって歩いた。
歩きながらも真珠がぽろりと零れ落ちる。掌で受け止めた三粒は、黒みがかった淡い深緑の輝きを放っていた。オログは無感動にそれを眺め、溜息と共に瓶の中へと放り込む。真珠は瓶底にぶつかってからんころころと音を立てた。
湖に裸足の足を浸けて、水を汲んで。左目を覆い隠すような短い三つ編みを解き、頭ごと瓶の水に浸からせて洗う。ややあって顔をあげれば、髪の先から水が滴り落ちる。唇に乗った雫はしょっぱかった。水の味か、涙の味かわからない。
『あなたの瞳の色は、露草色』
思い出せばまた体が軋む。辺りを見渡せば、みな同じように身を清めている。けれどその中にテルネラの姿は無い。これからも、外に出すつもりはない。
本当は、叶うならあの子を炎の前で温まらせてあげたい。焰の橙の光を浴びたら、きっとあの子はとっても綺麗だろう。人目を忍ばず湖で遊ばせてやりたいとも思う。テルネラが可愛くて、目を引くことだって知っている。
でもだからこそ、テルネラを外に出したくない。誰にも見せたくない。誰かの目に映る機会が増えるほど、あの子が真珠を吐かない不自然さが目に付くに違いないのだ。これはテルネラのためだ。僕だけのためじゃない。テルネラだって死にたくはないだろう。食われたいわけがない。
テルネラの血肉が誰かの真珠になるなんて、耐えられるわけがないだろ。しかたないんだ――
吐き気。また二つの真珠が服の裾に転げ落ちた。オログは口を拭い、真珠をつまみ、瓶の中にぽちゃりと投げ入れた。濡れた髪を絞って、蕗の葉で顔を拭く。立ち上がる。
テルネラだってきっと僕が好きだろ。だからいいじゃないか。いいはずなんだ――
青白い指先で、無意識に耳飾りを手慰む。それはかつて赤銅色を帯びた白真珠だ。今になって、
老獪な長老と渡り合わなければならないことに、今更少なからず緊張しているとでも? あの日のことはなるべく思い出したくないというのに――そうしてふと、オログは考えてはいけないことを、思った。
テルネラがコエナシモドキでよかった――
大人になれないかわいそうなテルネラ。綺麗な女の子のままで、僕だけが守ってあげられる。閉じ込めて、どこへも行けないように、誰にも攫われないように。これからも、ずっとずっと。きっと。
オログは空虚な笑みを浮かべる。ぶん、という耳障りな音が耳元を通り過ぎた。視線をあげれば、蔓を編み合わせた藤棚と、咲き
オログは煙を大きく吸い込んで、熊蜂が飛び交う藤棚を潜り抜けた。
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