鴎と赤紫

 オログは、夢を見ていた――

 視界は揺らめく薄銀と灰色の層で覆われているように心もとない。

 ああそうか、この景色は、海の中なんだ……そう、ぼんやりと考える。


 そう、の目の前で、ひとりぽっちの女の子が泣いているよ。歯をがちがちと鳴らして泣いている。でも海の底で、そんな音は掻き消え泡になるだけ。

 泣いているよ。


『どうしよう。どうしよう……! 死んじゃう。どんどん死んでいってしまう。やっと見つけた、最後の生き物なのに。箱の中に生きていたたった一つの生き物なのに……!』


 女の子は、透明な輪郭を持つ箱を抱きかかえて、震えている。その中には何匹もの青い魚が――否、かつて【青かった】魚が、今は薄汚れた灰白色の体で、体を倒してぷかぷか浮かんでいる。青い色が失われたということは……そうか、みんな死んじゃったんだね。

 透けた箱の中で、まだ生きている青い魚たちは、小さな口をぱくぱくと開け、美しい鳥翼のようなひれをゆらしている。ぼくも、いっしょうけんめい殻を開けたり閉めたりして、彼女を見上げている。

 ぼくらは彼女に伝えたかったよ。ぼくたちも生きているよ、って。あなたのそばにいるよと。だから泣かないでよ。

 けれどぼくらは声を持たなかったね。青い魚の君たちは、めだまを持っていた。目と目で彼女と心を通わせあっていた。でもぼくらには、目もなかったね。

 それでもぼくらは彼女を見ていたよ。伝える術を持たなかったんだ。だから彼女はぼくらの気持ちをなかなかわかってくれなかった。

 彼女は魚と見つめ合って、涙を拭いた。


『そうだ……そうね、どうして、考え付かなかったのかしら。この子たちを造り替えてしまえばいい……。ねえ、ベタ。私と同じものになって。そうして私と沢山お話しましょう。ね?』


 魚はいいよというように尾ひれを揺らしたね。ぼくらだって彼女に心を伝えたくて、こぽりと真珠を吐き出したんだ。できそこないの白い珠と、美しい黒の珠が、ばらばらの方向に散らばった。けれど、彼女はそれを見てはくれなかった。ぼくらを見てくれたのは、ベタ――魚の君たちだけだったね。


 彼女は生き残った青い魚に、新しい姿を与えた。彼らの目は、彼らのかつての姿を忍ぶように、青に染まっていたよ。


 ああ、だから懐かしく感じたのか――

 オログはぼんやり考える。

 ずっと前から、君に会いたかった気がする。

 もっと早く、会いたかった気がする。

 ウルリヒ、ぼくは、貝の末裔は、きみにおねがいがあるよ。

 

 そしてオログは、夢から覚める――



 ●



 耳の中を満たしていた、揺らめく籠った音がぷつりと途切れた。夢から浮上する。

 風の音が帰ってきた。オログは小さく咳込んで、そっと瞼を開けた。長い睫毛の隙間から少しずつ、紅く染まる光が差し込んでくる。長い時間気を失ってしまっていたらしい。やがて、目を潤ませたテルネラの顔を認めた。

「オログ!」

 テルネラが首にばっと抱きついてきたから、オログの体もぐらりと後ろによろけた。不意の衝撃に頭の中がぐらぐらと揺れる。体を支えようと後ろ手をつくと、左腕に鋭い痛みが走る。オログは痛みに顔を歪め、そこで気づいた――手足を縛っていたはずの縄が解かれている。テルネラもだ。オログははっとして辺りを見回した。

 桃色、茜色、橙色。それらが真っ白な水平線から光の筋を放射線状に伸ばして空を赤く染め上げている。美しい夕暮れの空を背に、コエナシの少年ウルリヒが舷にもたれ、船縁に両肘を乗せた寛いだ姿勢でオログを見下ろしていた。

 ウルリヒの目は海のように青く澄んでいた。見つめ合えば、今しがた見た夢を思い出して胸がずきんと痛んだ。羨ましさや愛おしさが、まるで血潮のように体中を駆け巡る。あんな景色は知らないはずなのに、どこか懐かしくて、苦しかった。頭の隅で、あの泣いていた少女がこの世界の女神だろうと確信を抱く。

 オログはウルリヒから目を逸らして、右耳にぶら下がる真珠を撫でた。夢の中で、確かには、白い真珠を【できそこない】だと思っていた。今の貝の末裔で、黒い真珠を零すのは自分しかいないのに。

 オログは頭を振り、視線を上げた。今は目の前のことに集中しなければ。

「縄は、どうして」

 オログの言葉に、ウルリヒは首を傾けた。

「別に、害はねえかなと思っただけだよ」

 ウルリヒはぶっきらぼうに答える。そうして、顎でくい、とテルネラを指し示た。

「おまえが寝ている間も、その女がきゃんきゃん煩くてさ、だから解いてやった。けどな、この船の中で、おれら人間に手ぇ出してみろ。おまえら二人ともまとめて殺してやる。例え貝の一族だろうが、子ども二人何の怖いことはない。おれの手首の傷見ただけで吐くようなやつに、おれを食えるとも思えないしな」

 テルネラはウルリヒを睨んでいる。オログは唇を震わせ、ごくりとつばを飲み下し、そしてウルリヒの手元に視線を移した。

「あ……手首、君、けがは――」

「あ? てめえの心配してろよ。聞いてなかったわけ? おれは、おまえらをいつでも殺せるっつったんだけど」

「ウ、ウルリヒなんかほんとにきらい! どうして、どうしてそんな風にけんけんと物を言うの? オログは今目が覚めたばっかりなのに……もっと優しくしてくれてもいい!」

 テルネラが噛みつくように叫ぶ。やっぱり、珍しいとオログは思う。テルネラが他人に対してこんな風に感情を昂ぶらせたことはなかったのだから。

 対するウルリヒは眉間にしわを寄せ、冷めた目でテルネラを見下ろしている。

「さっきから、本当に口の減らない女だな……おまえ本当にわかってんのか? おまえは捕虜、おれらの気分一つにおまえらの命がかかってるわけ。そんな態度で、おれがガチギレして殺してもいいわけ」

 ウルリヒは腰にぶら下げた小さな鞘から鋭い剣を抜き、テルネラの眼前に突き付ける。テルネラの肩が小さくびくりと震えた。オログはそっとテルネラの手を握ってから、静かにウルリヒを見つめ直した。ウルリヒから殺意は感じられなかったのだ。

「その剣……石、なんだね」

「は? いきなりなんだよ」

「いや……コエナシが、金属を知らないって本当なんだなって思って」

 ウルリヒは訝し気に片方の眉を吊り上げる。オログは静かに笑って、自分の左手を見下ろした。

 切れた手首に巻かれた包帯には青黒い血の跡がにじんでいて、まだ湿っている。石の剣を構えるウルリヒの手首にも包帯は巻かれていて、紅い血がにじんでいた。

「石でも、よく切れるんだね。知らなかった。僕らは石を刃物にはしないから」

 オログはへら、と笑った。その言葉に眉をひそめた後、ウルリヒは黙って腕を下ろした。かちん、と音を立てて剣を鞘に戻す。

「金属なんつうものは知らねえが、おまえらが耳につけてるその金色の石みたいなものには、まあ興味はあるな。それ、貝の一族の陸で採れるのか? 硬そうだな」

「原料は採取できるけど、加工してこうなってる。でも僕はこれの作り方をよく知らないよ。ちゃんと教わる前に、あの場所を出てきたから」

「はあ、役に立たねえ」

 ウルリヒは小さく息を吐いた。

「その女じゃ話にならないから、あんたが起きるのを待ってたんだよ」

 ウルリヒの言葉に、テルネラがまた隣でむっとしたのがわかった。オログはテルネラの横顔を見つめて、はは、と笑った。どうしてだろう、体が軋むように痛い。

「何? 僕に何か聞きたいことでもあるの」

「大ありだよ。そいつに聞いたところじゃ、おまえ、こいつが食べられるからなんとかっつって、たった二人で逃げてきたんだって? わけわからないんだけどさ、おまえら貝の一族は共食いもすんのかよ、気色悪いな」

 オログは薄笑いを浮かべたままだった。ウルリヒを上目遣いで探るように見つめた。ウルリヒの目はまっすぐでぶれやしない。次にオログはテルネラから手を放して立ち上がった。ウルリヒにゆっくりと近づいて、その耳元に唇が触れるくらいに顔を寄せてみた。その間も、ウルリヒは一切オログから視線を逸らすことなく気の強い眼差しを向けてきた。けれどいつでも攻撃しようという意思は感じられなかった。警戒はしているようだが、隙が多いなとオログは思った。ウルリヒを攻撃する意図なんてこちらにだってないけれど。

 ――そんな風でいいの。仮にも、君たちコエナシを食べたヒトガタだよ、僕は。

 オログは乾いた笑みを深めて、ささやいた。

「テルネラがいないところで、話がしたいんだけど」

 ウルリヒは、オログの真意を図りかねているようだった。深く息を吐き、しばらく海を眺めた。海は赤紫色に変化していた。ややあってウルリヒは口を開く。

「おい、女」

「テルネラ!」

 テルネラが小さな声で抗議する。

「……うるさいな……おまえ、その辺のどっか、床に座ってろ。おれに近寄るな。ふらっふらうろついてんじゃねえぞ」

「誰があなたなんかの傍にいたいもんですか……!」

 目を吊り上げ頬を膨らませて、テルネラは立ち上がった。服の裾をパンパン、と叩いて遠ざかる。

「……っ、だからうろうろすんなっつってんだろ!」

「うろうろしてない!」

「人食いの癖にいちいち口答えたあ……」

「テルネラは、人食いじゃないよ」

 ウルリヒの悪態を拾って、オログはぽつりと呟いた。

「あ?」

 ウルリヒはますます眉根を寄せた。

 オログはふわりと笑った。

「僕はコエナシを食べたけれど、あの子は食べていない。これからも、食べさせたくないし、食べる必要もないと僕は思ってる。あの子がどう思っているかは……もう僕にも、わからないけど」

 ウルリヒの瞳に、自分の姿が映っている。オログはゆらゆらと視線をを揺らした。

「おまえって、餌の前でずいぶん気弱だな、へんなやつ」

 ウルリヒはそう言って小さく息を吐くと、そっと瞼を閉じた。

「貝の一族が話が通じる種族なんざ思ってなかったけどな、一応話くらい聞かせたいなら聞かせてみろよ。ただ、おれらがおまえらの餌だってことは忘れんなよ。おれらも忘れてないからな。どうしたってつきまとう、前提条件だ」

「そうだろうね」

 オログは、記憶に残る赤錆色の景色を思い、苦々しく笑った。

 少し離れた場所から小さな野太い悲鳴が聞こえて、オログとウルリヒは同時に振り返った。テルネラがコエナシ達の傍に寄って何事かを話しかけている。コエナシ達は身をすくませている。

「ばっ、」

 ウルリヒは眉を吊り上げて、がりがりと頭を掻いた。

「なんなんだあの女!? ばかなのか? 頭湧いてんの?」

 テルネラが「手伝いたい!」と無邪気に叫んでいるのがかすかに聴こえてくる。オログは顔を歪めて俯いた。泣きたくないのに、悲しくなった。今も昔も、テルネラにとってコエナシは【旅人さん】なのだ。彼らが自分に怯える意味も、何も、本当の意味では理解できていないのだろう。

「はあ? 手伝いたいだあ?」

 ウルリヒは眉根を寄せて、呆れたような声で呟いた。目はテルネラの一挙一動を追っている。

「変わった女だなあ……」

「ウ、ウルリヒ~」

 男達の泣きそうな声が風に乗って届く。カモメが何羽も海の上を滑空して、鳴いて笑う。ウルリヒもやがて鼻で笑い、声を上げた。

「おー、いいんじゃねえの? 人間様がどれだけ身を削って食ってるかその棒切れみたいな体に教え込んでやれよ。遠慮はいらないぜ。こちとら人質はあるからなあ」

 ウルリヒは口の片端を釣り上げて、どこか面白そうだった。テルネラがばっと振り返って、また膨れ面をする。

 ウルリヒはテルネラににやりと笑いかけ、くい、と顎でオログを指す。テルネラはますます眉を吊り上げ顔を逸らし、「何すればいいの!」と半ば八つ当たり気味に叫んだ。

 キュイ、キュイ、とカモメの声が響く。やがて男達も恐る恐るテルネラに話しかけ、網に括り付けられた縄を持たせた。テルネラは男達と一緒に縄を引くが、体が引きずられるようにずりずりと滑り落ちる。まもなくぺたんと甲板に尻もちをついた。テルネラは笑いだした。男達は戸惑ったように顔を見合わせ、頬を掻いて。

 やがて、緩やかな笑い声が、疎らなカモメの鳴き声のように風に溶けたのだった。

 オログはそれを静かに見つめていた。

 ――霧が晴れた世界は、綺麗だね、テルネラ。

 悲しさが胸の内にじんわりと沁みこんでいく。

「で、話って何」

 ウルリヒが続きを促した。

 オログは振り返って、その青い瞳を見つめた。自分の目線よりも少し下にある青色の目は黄昏の光に照らされて、まるで海波のように揺らめいて見えた。

 二人で、飴色の甲板を見つめている。

「僕ら貝の末裔は、君たちのことをコエナシと呼ぶ」

 オログの声は夕焼けに柔らかく溶けた。二人の背中を照らす茜色の光が、包帯の巻かれた腕に筋を引いている。

「それは、君たちが僕らと違って、真珠を零さない種族だからだ。僕らの中ではなぜだか、コエナシであれば食べていいという考え方が巣食っていてさ。でもそれは、本能的に備わっていたんじゃなくて、次第にそういう考え方に毒されていったんだと僕は思ってる。僕は幼い頃に同胞が森に迷い込んだコエナシを食べるのを見て嫌悪感を抱いた。今でもコエナシのことを食べたくないと思っているし、彼らを食べたこと、後悔している。どのみち僕はテルネラを守れないんだから、コエナシを食べて生き延びる意味なんかなかったんだ。食べなければ、もう少しだけ、こんな角が生えてくる時間を先延ばしにできたかもしれない」

 オログは角に触れて、俯いた。

「……どこからつっこめばいいかわからないけどな、一応聞くが、森に迷い込んだ人間はどういうやつだったんだ?」

 ウルリヒがオログの横顔を見つめた。

「君たちと同じ、浅黒い肌に、黒い髪と目を持っていた。琴、という楽器をずっと手放さなかったよ。僕とテルネラに歌を歌って聴かせてくれた……自分を吟遊詩人と名乗っていたけれど、どうして彼があの時あの森にいたのか、僕は今でも理由を知らない」

 オログはウルリヒの横顔をそっと覗き見た。ウルリヒは、どこか遠くを睨みつけている。

「テルネラは、コエナシモドキだった。つまり、一族で稀に生まれる、【真珠を零せない】子ども。それを知っていたのは、多分僕だけのはずだ。でも……今は、それもよくわからない。僕はテルネラの秘密をただ一人抱えて、テルネラを守っているつもりだった。でももしかしたら、生かされていたのかもしれない。長老の言葉の端々に、なんだか……テルネラがコエナシモドキだと知っているような感じはあった」

「要は、おまえら的にはあのテルネラってやつをおれたち人間と同じ捕食対象と見なすってことか。だから連れて逃げて来たって話かな」

「そう。だから、逃げて来た」

 オログは両手を重ねて、握りしめた。

「僕は、あの子が食べられてしまうのが怖くて、ずっとあの子がコエナシモドキであることを隠して、あの子の食べ物を用意した。僕らは海水や塩湖の水を飲み、塩濃度の高い殻の木を食べるけれど、テルネラはそれらがからくて食べられないと泣いた。だから僕は、毎日なるべく塩濃度の低い木を探して、朝露を集めてテルネラに与えていた。毎日集められる量は少なくて、あの子は常に力が出なくて、ぐったりと寝ていたんだ。そろそろ隠すのも難しくなって、僕は、大人になってあの子とつがいになればもっとあの子を守れると思った」

「つがい? 婚儀みたいなもんか」

「婚儀?」

 オログは眉根を寄せて、首を傾げた。ウルリヒは両手の人差し指を近づけて、その指先をそっと合わせた。

「男と、女が、一緒になること。子どもを作ったりして、家族になるって感じかな」

「……多分、それに近いんだろうね」

 オログは、足元に視線を戻した。

「大人になるために、コエナシの肉を食べなければならないと言われた。テルネラは……事情があって、コエナシの肉じゃなく、貝の肉を食べることになった。それで、一昨日の夜、僕は浜辺で青い炎を灯してコエナシを誘き寄せて……食べた。テルネラも、貝を食べた。そしたら僕の頭には角が生えて、テルネラは嘘みたいに元気になった。僕のこの角は、女神の贄の証なんだって。僕の体はこのまま殻の木になって、海に還って、二つの大地を――僕らの陸と、君たちの陸を支える海底樹になる」

 オログはそこで言葉を切って、ウルリヒを見つめた。ウルリヒは、ちらとオログを見て、逸らした。オログは苦い笑みを浮かべて、瞼を閉じた。

「それを知って、僕の行きつく先を知って、僕は怖くなった。いつか僕がいなくなったなら、テルネラはどうなるんだろうって。僕がいなくなったら、テルネラは食べられてしまうかもしれない。僕の体がいつこの木にすべて蝕まれるかもわからない。それで、逃げようと思ったんだ」

「海の中に? おまえらは海の中でも生きていけんのかよ」

「僕は……そうだね、多分僕らの一族は、きっと海の中でも生きていける。えらが、あるからね」

 オログは、顎の縁を撫でた。

「でも、テルネラには苦しかったと思う。僕は海水を飲んでもなんともないけれど、テルネラにとってはからいばかりの水だ。それにずっと浸かっているのは、きっと苦しい。でも、そうじゃない。僕は……海の中に逃げたかったんじゃない。海の中に逃げたのは、あの一族が女神への信仰心のせいで海の中に潜ることができないからだ。海に潜ってしまえば、追いかけてこられないだろうと思った。僕はただ、コエナシの――人間の生きる大地に、テルネラを連れていきたかった」

 ウルリヒがオログの横顔を見つめた。オログも視線を合わせた。ウルリヒは眉根を深く寄せている。オログはへらりと笑った。

「ばかみたいって思う? 人間」

「ばか以外の何かあるかよ」

「そうだね」

 オログは息を吸って、吐いた。

「でもね、ウルリヒ……って、呼んでいいのかな。あの子は、テルネラはね、君たち人間と何も変わらないんだ。真珠も零せないし、海水は飲めない。木を食べてまずいという。僕たちとは違って、むしろ君たちとよく似ている。違うとすれば髪の色、眼の色……あとは、ちょっとだけ小さなえらがあるってことくらいかな。でもそれだって、水の中に潜らなければ目立たない。貝の肉は食べたけれど、あの子は人間と同じだよ。だったら……殻の木を食べなければ生きていけない僕と違って、あの子なら君たちと共に生きていける」

「根拠は?」

「ない、けど」

「はあ……おまえ、ばかなんじゃないの?」

 ウルリヒは瞼を閉じて、ずりずりと舷から甲板にずり落ちた。膝を立てて、項垂れたように頭を下げる。

「おまえ、おれたちがどれだけおまえらに怯えて生きてきたか知らねえの? 今は海を越えてやって来ないかもしれない。でも、昔は……つい十数年前までだって、おまえらが海を越えてやってきていたのは事実だ。記録にだって残ってる。おれたちは海に近い場所から順に襲われて、村を荒らされた。おまえたちはどう足掻いたって恐ろしい人食いの化け物だ。女神信仰がどうのこうのなんて多分大して関係ねえよ。おまえらが人間の陸に来なくなったのはな、海に潜らなくなったのは、単純な話だろ。おれたち人間がおまえらに餌を献上しているからだ」

「……え?」

 オログは手首をぎゅっと握りしめた。傷口がつきんと傷み、血がにじむ。

「おまえの言った吟遊詩人だったか、そいつは多分、その最初の生贄だ。内陸の王族に歯向かった罪人だからって理由でな、海岸沿いにあるおれの村に回されたんだよ。おれの村は罪人を定期的に回収して、おまえらが偽物の青い炎をちらつかせたらすぐに罪人を小舟に乗せて、おまえらに献上してんだよ。おまえら、もともとおれらの肉がないと死ぬわけでもないんだろ。定期的に餌が来るなら、それ以上の餌をわざわざ求めて、深い海を渡ってきたりしない……ただそれだけのことだ。おれらは、おまえらばかな貝の一族が、【人間は青い炎に惑わされてほいほいやってくる】っておれらをばかにしてるだろうこともわかってやってんだよ。だからそれを逆手にとって騙されてるふりしてんだ、おれらの生きる大地を守るために。おれらの関係はそういう、糸の上を歩くみたいな危ういものなんだよ。そんな存在をさ、いきなり仲間にしろって? 人間と大差ないから、人間と同じ扱いをしてくれだって? んなもん、おいそれとうまくいくわけないだろうが。一体おれらの大陸にどれだけたくさんの人間がいると思ってんだよ。おれ一人を丸め込むくらいなら簡単かもしれないけどな、人間全員をそうできると思うなよ」

 ウルリヒの声はわずかに掠れている。

「偽物……」

 オログはぽつりと呟いた。

「そうか……はは、わかってたんだね、やっぱり、人間は」

 ――僕らが思ってるほど、ばかじゃないかもしれないじゃない。

 デルフィがぽつりと零した言葉が、蘇る。

「はは、賢いね、人間って」

「なにがおかしいんだよ。笑い事じゃねえよ」

「笑える。笑えちゃうよ。賢い人間になら、テルネラを預けても安心だ。やっとこれで、僕は、少しは安心できるのかな」

 オログは前髪を掻き上げて、くしゃりと握りしめた。

 ウルリヒは、悲しいような、苦しいような、複雑な表情を浮かべて、口を引き結んだ。その喉からは悲鳴にも似た小さな音が漏れていた。泣くまいとしているのだろう。ややあって、ウルリヒは頭を激しく振り、立ち上がった。

「おまえらって、本当にどこまでも自己本位な種族だな」

 ウルリヒはオログを蔑むように目を細めた。

「はは……血だね。そうだ、人間と違うところがもう一つあったよ」

「は?」

「君たちの血は赤い。僕らの血は……青色だ」

「んなの知ってるよ」

 ウルリヒは苛立ちをにじませ吐き捨てた。

「……なんで、おれにだけそんなこと話すんだよ」

「なんでだろう」

 オログは苦しくてどろどろとした思いを持てあましながら笑った。

「本当は身も知らないコエナシに、お前なんかに、預けたくないけど、でも、お前ならなんだか、テルネラを守ってくれる気がした。僕が同情さえ引けば、君は案外簡単にほだされる気がした」

「根拠は!」

 びりびり、と周囲の空気が揺れる。ウルリヒは腹から叫んで、息も荒く、肩を揺らしていた。

「君の目が、青いから」

「……は?」

 波が揺れる。揺れて、ささやいてきたような気がした。オログは水面を見つめた。やがて、船縁を握る手が小刻みに震えだした。オログはうずくまり、額を舷に押しつけ、肩を震わせながら笑った。

 僕は知っている。僕だけが気づいている。僕たちがただの貝で――きっとコエナシだってもとは人間じゃなかったこと。この世界で唯一の人間は夢で見たあの少女だけ。だとしたら僕たちは、わかりあえたはずの海の生き物。

 だったらきっと、青い目を持つこの少年なら、あのベタの色を失っていないこの少年だけは、きっと貝の少女を手放せないはずだ。僕がこんなにも海に焦がれるように――体を蝕む鋭い痛みは苦しいのに、それでも海に潜っていたいだなんて思うように。そう信じよう。

 ああ苦しい。苦しいよ。一度海に潜ってしまったから、気づいてしまった。もう今では陸に上がっている方がずっと苦しい。体が重くて、怠くて、たまらない。痛い……。

「おい、どうした」

 ウルリヒがオログの肩を揺らす。オログは泣いた。

「なん、でも、ない。痛いだけ。体が」


 ざあ。


 ざあ。ざあ。


 ざあ。


 波がひだを作って揺れる。


 風の音とカモメの鳴き声が、耳を掠めて揺れる。海がひそやかに真実をささやく。


 ――『青い魚は人の姿を得た。けれど彼女は、大事なことを忘れていたんだ。彼女は神様だったから、海の中でも生きていけた。けれど人間は、海の中では息が出来なくて死んでしまう。

 だからね、人間は海の上に帰って行った。けれど海の上には瓦礫が浮いているだけだった。直にそれも人の重みで水底に沈んでしまうだろう。人々は力を合わせて、瓦礫を組み立てた。そうして人間は、自分たちの生きる場所を勝手に作ってしまった。女神のことなんて忘れて、海の上で生きてしまったんだ。

 頭では仕方のないことだと分かっていたけれど、女神は悲しくて寂しくて、ようやくぼくらを見てくれたよ。けれど最初はうまくいかなかった。ぼくらには、【骨】がなかった。人の肉を、皮膚を支える骨がなかった。だから女神は、ぼくらの体を外から支えていた殻を、ぼくらの体に埋め込んだ。そうしてぼくらはようやく人の姿を得た。今度は、海の中で女神と共に生きられる不完全な人の姿となってさ……』


 波はさらさらと揺れる。打ち寄せる音が、風の音が、カモメの鳴き声も――ウルリヒの声でさえ、混じりあって誰かの声になる。オログは喉を押さえてえずいた。痛い。痛い痛い痛い痛い。体が痛い。背中が痛い。痛くてたまらない。足も腕も、手も、頬も、何もかも。


 ――『実はね、人になれた真珠貝は、ぼくら黒蝶貝にとってはできそこないの、白い真珠しか作れないやつらばかりだったのさ。人の姿になれた黒真珠の子どもは、たった一人だけだった。でもね、今度はその子ができそこないだったんだ。』


 肩の皮膚が裂けていく。痛みにオログは呻いた。だめだ。だめだよ。声を出しちゃだめ。テルネラに気付かれちゃいけない。気づかれたくない。僕が痛がっていること。僕がお前を、諦めようとしていること。


 ――『それでね、その子は結局、体中を貝殻が引き裂いちゃったのさ。彼の体を引き裂いた殻はどんどん伸びて、太くなって、あっという間に木になった。ぼくらはその木の上に大地を作って、青い魚の人間のように陸で生きてみることにしたんだ。その頃にはぼくらすっかり、泣き虫女神に辟易していたからさあ。』


「……相変わらず、思い込みが激しい種族だね」

 オログは、海の声に向かって呟いた。ウルリヒが眉をひそめたのが分かる。自分がもう、陸で生きるものではなくなってきていることが、わかる。

 覚えている。最初の黒真珠の子どもに浴びせられた、心無い言葉達を覚えている。オログを蝕む殻の木が、それらの音を全て洞に閉じ込めているのだ。そのことに、オログはようやく気付いた。聞こえていると思ったのは女神の声でもない。元始の黒真珠の子の声でもない。


 ……これは、世界の大樹――殻の木が持つ記憶だ。僕はその欠片に蝕まれてしまった。


 僕という子ども黒真珠の子が生まれるために、貝の一族は殻の木を食べ続けなければいけなかったのだ。いつか木に寄生される憐れな子どもを生み出すために。それが、コエナシとどう違うというのだろう。大多数のコエナシを人食いから守るために、幾つかの命を贄にするコエナシと。その小狡さと醜悪さは、一体どこが違うというんだ。


「僕もウルリヒもテルネラも、みんな同じなんだよ」

 オログは喘ぎながら言った。ウルリヒが不安げな眼差しでオログを覗き込んでいる。青い目が、揺れていた。

「お、まえ……腕が……」

 ウルリヒの視線の先を追うと、オログの腕は皮膚が裂けていた。裂け目の奥からは、七色の光沢を持つ灰色が見えている――何度も何度も飽きるまで見た殻の木が。ああ、僕の体は内側から木だったのか。オログは口を歪めた。

「ウル、リヒ。ごめん、テルネラを、どうか、」

 オログは、ゆらりと立ち上がった。痛みのせいで靄がかる視界を揺らめかせ、テルネラの姿を探した。オログの痛みなど気付きもせず、懸命にコエナシの手伝いに励むテルネラは、オログに小さな背中を向けている。


 ははは。……ははは。


 オログの視界は、絶望に白く眩んだ。


 オログは船縁に腰かけた。

 ウルリヒは戸惑ったように視線を揺らして、皮膚が裂けていくオログの手足を呆然と見つめている。オログが腰を下ろしたことに、少しだけほっとしたようだった。

「おまえ……その、どうしたらいいかわからないけど、少し休んだ方がいいよ。あと、そこ危ないからさ」

 ウルリヒは裏返ったような声でそう言う。オログはウルリヒを少し高い位置から眺め、初めて彼が自分よりも幼いことに気づいた。気丈に振る舞っているから、全然気が付かなかった。なんだ、この子はまだ子どもだ。目の前で僕がこんなことになって、心細そうにしている。

 ……けれど不思議と、ウルリヒに対して申し訳ないとは思わなかった。種族が違うからかもしれない。テルネラを託すことが、本当は癪に障っているからかもしれない。けれど、それももう、どうでもいいことだ。

 オログは笑った。ウルリヒが、幼さの残る眼差しでほっとしたようにオログを見上げる。


「頼んだよ」


 そう言って、オログはぐらりと体を後ろに揺らした。

 誰かが叫ぶ音が聴こえる。けれど、カモメの声にかき消されてしまった。背中から落ちていく。落ちていく。


 オログの髪が、空に向かって巻き上がる。三つ編みがふわりと舞って、解けてしまった。オログは、痛みの疼く両手でそっと耳飾りを包み込むように握りしめた。視界いっぱいに、赤紫紫陽花色の空が広がっている。


 飛沫が上がって、音が鳴って。波紋が広がって、やがて凪いで。


 オログの体は、水底へ消えた。


 舟の上では少年と少女が叫び続けていた。けれど、凪いだ水面は襞をつくるばかりで。


 角つきの少年が浮かび上がることは、二度となかった。

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