ウルリヒの章
青と曙
これは、
『その大地は、緑と色鮮やかな花で溢れている。
人間はかつて女神の手によって海で生まれ、やがて陸の土を踏みしめた。海では感じなかった空腹感に、原始の人間は酷く苦しんだと伝えられている。おなかがすいたと泣く人々の元に、一羽の青い鳥が舞い降りて、足元に一粒の種を落とした。それは美しい花を咲かせ、人々はその花を土からむしり取り、食んだ。
人が大地で初めて口にしたものは花であり、人は花を食べて生きてきた。
もちろん、花だけでは足りない。その後人間は、土から顔を出す様々な植物を調べ、空腹を癒すための食べ物を模索した。麦や稲は人々の腹を満たした。花の蜜は人々に甘さを教え、木の実は人々の体に力を与えた。やがて人は増え続け、食べ物を地上の植物だけでは賄えず、海に求めた。女神が眠る聖域に網を張り、魚を捕獲する。――それは女神への冒涜であり、命がけの行為だった。それでも、そうして得られた魚や貝は、人々の生きる糧になった。
人が海の生き物を乱獲するようになった頃。恐らくはその頃からだった。
輝く金色の髪や燃えるような赤い髪を持つ者が、少しずつ、けれど確実に地上から消えていった。青や緑に色づいていた宝石のような瞳は黒ずんでいき、髪や肌も色褪せていく。
それは、女神からの罰なのだと人は考えた。それでも彼らは、海に行くのをやめなかった。
ある日のことだ。
浜辺に、白い髪、白い肌を持つ美しい少年が現れた。彼は朝日に濡れる藤の花のような、美しい紫色の瞳を持っていた。黒髪の人間たちは、その美しさに目を奪われた。少年の肩甲骨からは、翼のような銀色の角が生えている。
少年は、言葉を紡ぐたびに黒い真珠を零した。彼は己のことを、真珠貝だと答えた。
人々はぞっとした。自分たちが食べてきた貝が、人の姿を取り、人間に復讐を果たしに来たのかもしれない。
人々の恐れに、少年は頭を振った。
少年はこれから、海底樹になる。そして、人の生きる大地を支えるのだと。そうしなければ、人間の生きる大地はすぐに海に沈んでしまう。だから、今までも、これからも、ずっとそうして、貝の一族は生きているのだ――そう、静かに語った。
彼はやがて、貝殻のような木に姿を変え、海の底へと消えていった。
人々は、己の命が幾多もの犠牲の上に成り立っているのだと知った。以来、彼らは海に花を流すようになった。海の底へ消えた少年が安らかに眠れるように。その慣習はやがて姿を変え、人間は祭りの夜に花のような色とりどりの燈籠を作り、海に流すようになった。
後の世、その灯りに惹かれたように、少年と同じ白い姿を持つ人間たちが海を越えてやってきた。彼らには、海底樹となった少年のような角は無く、また彼らは白い真珠を吐きだした。
人間たちは、彼らを快く迎え入れた。
けれども彼ら貝の一族は、にやりと口の端を釣り上げ、人間を殺した。
赤い血にまみれて、彼らは人間を捕食した。ニクイ、ニクイと叫びながら殺し続けた。
燈籠は傾いて、森は火に飲みこまれていく。赤に満たされた世界。人々が逃げ惑い辿り着いた森の奥で、一人の少女が紫色の花を守る様にうずくまっていた。
人々は立ち止まった。少女はゆっくりと瞼を開いた。その目は、海のように青く澄んでいる。少女の周りには、青い鳥の羽が散らばっていた。――青い鳥が、やってきたのだ。
「愚かな人間たちよ。犠牲の上に成り立つ世界に、なおも立ち続けようとする人間たちよ。その罪を、赦しましょう。古代より人は犠牲なしには生きられない生き物でした。それを生かしたかったのは、女神もまた、かつて人であったが故」
そう言って、碧眼の少女は夜空に手を伸ばした。すると夜空の星が青い炎となって大地に降り注いだ。青い炎はみるみるうちに燃え盛り、赤い炎を塗りつぶしていく。赤い炎では死にもしなかった貝の一族は、青い炎に包まれ次々と苦しみ死んでいった。人間は、その光景を呆然として見つめていた。
やがて、貝の一族は碧眼の少女に赦しを乞うた。少女は彼らの一人一人に、紫色の花を持たせた。
「それはお前たちの瞳のお花。さあ行きなさい。お前たちもまた、人になりたいのなら」
貝の一族は、紫色の花を抱えて水平線の向こう側へ消えていった。その後、彼らは紫色の花を咲かせるため、別の大地を作ったと伝えられる。碧眼の少女は、忽然と姿を消した。
貝の一族と人間は、その後何百年も交わらぬよう一線を引いて生きてきた。しかし貝の一族は女神との約束を忘れ、何度も人間の大地に現れることとなった。貝の一族がこちら側に足を踏み入れる度、青い目の子どもが青い炎を操り、人間を救った。』
◇
「もう、聞き飽きたよ……」
あの頃、ウルリヒはこの昔話をとにかく延々と聞かせられていた。まだ
「嫌なら、駄々を捏ねるのをやめなよね」
小さな切株の上に腰かけウルリヒに説教をしていた青年はセルネウと言って、ウルリヒにとって兄代わりでもあった。セルネウは義眼の右目を前髪で覆い隠していて、両足もまた木でできた義足であった。
星の輝く夜に、紅く燃え盛る焚火を囲んでいた。その後ろには、裾に花の刺繍が施された黄色のテントが林立していた。それが集落の家であり、寝床だった。中からは、大人達のいびきやくすくす笑いが漏れ聞こえてくる。小さな小さな人の営みだ。
「あーあ、おれ早く寝たいんだけど。ねえ、セルネウ、お説教はもういいだろ? 耳にたこだよ。そらでおぼえちゃったよ。おれもう暗唱できるよ」
「へえ。じゃあ、今ここで、ぼくに聞かせてみてくれる?」
「うげっ」
ウルリヒが心底嫌そうに顔をしかめたら、セルネウは肩を揺らして笑うのだった。
「いいかい、ウルリヒ。救いの御子。ぼくたちはお前が生まれてくるのを本当に……本当に、心待ちにしていたんだ。背負わせて悪いけれど、それでもね、お前に頼るしかない。他に、どうしたらいいのかわからないのだから」
「だからさあー」
ウルリヒは、口を尖らせた。所在なさげに目を泳がせ足をぶらぶらと揺らしても、不安感はちっとも消えなかった。
「それって神話っていうかあ、昔話で、うわさばなしみたいなもんなんだってエリカのばっちゃが言ってたぞ! 『ほんとうといささかちがうんだ』って言ってたんだぞ!」
「……あの
セルネウは端正な顔をわずかに歪め小さく舌打ちした。ウルリヒはそれを見て肩をすくめた。セルネウは再び笑みを浮かべるが、うさんくさい。
「あのね、ウルリヒ。エリカ
まるで幼子に言い含めるような言い方だ。ウルリヒは一層足を泳がせる。
「でもさあ、おかしいだろ? ふつうに考えてみてよ、セルネウにいちゃん。貝の末裔が赤い炎でけがしないなんてありえるのかよ。だって、人間と同じ格好してんだろ? セルネウだって言ってたじゃんか。そいつらも、ふつうに炎で火傷してたって」
「それは……そう、見えたけど」
セルネウは苦々しげに眉根を寄せる。ウルリヒはぱっと食いついた。
「だろー? だったらふつうにそいつらの陸に行ってさあ、赤い炎で一気に燃やしちゃえばいいじゃん。青い炎なんか待たなくてもさあ。何度も言ったけど、おれ青い炎なんて見たことないし、もし見ても使い方なんてわかんねえし、むりだって。なんだっけ? そう、もっと
「あの子は――それは、というか、あの子の場合は、単純に早くぼくと結婚したいからそういうこと言ってるだけだ。今のままじゃそんなこと、考えられないから!」
セルネウはほんのりと鼻の頭を染めて怒鳴った。
「おんなはおとこよりげんじつてきなのよー、って言ってたよ」
「ああ、もう! これだって充分現実的な話だろう? お前は実際に貝の末裔を見たことがないからそんな呑気なことが言えるんだ。ユーイだってそうだよ、あの子はまだあの時赤ん坊だったから。でもね、このぼくの右目と足を見てもまだそんなことを言えるって? ぼくはね、おまえに懇願してるんだよ。早くあの化け物たちを何とかしてくれって!」
ウルリヒは気圧された。それでも控えめに食い下がってみた。
「そりゃ、セルネウの義足は不便そうだなって思うけど……でもものごころついた時からセルネウにいちゃんはそんなんだったし、あんまりよくわかんないよー……」
「ああもう、この子は」
セルネウはがりがりと頭を掻く。ウルリヒは眉を潜めた。セルネウのその癖が苦手だった。どうしてわかってくれないんだろう、と思うのだった。
「だから……そんなに怖いなら、みんなでさ、さっさときしゅーこうげきってやつ? そんなんでもしかけて殺しちゃえばいいだろー。魚を獲るみたいにさ、ばーっと」
「……最初の、黒真珠を零した貝の一族の子どもの話をしたでしょ」
セルネウは額に手を当てて、俯く。
「それが本当かどうかはぼくたちだって知らないさ。けれどね、おそらくは、ぼくたちが彼らの誰かを犠牲にしてこの大陸でのうのうと生きていることは事実なんだ。そして、彼らがいないとぼくらは生きていけない。だからぼくたちは、彼らに怯えこそすれ、汚してはいけないんだ。それが、教えだろう」
「そんなこと言ったって……だったらどうすんだよ。昔話では青い炎で青い目の女の子がやつらを殺しちゃったんだろ。それって今セルネウの言ってることと矛盾してるよ」
「ああもう……この子は、聞き分けがないうえ妙に頭がいい」
セルネウは顔を両手で覆った。
「彼らの大陸には赤い炎では燃えない貝殻の木が群生しているという。だから、たとえ赤い炎で対抗したところで無駄さ。木の洞に隠れられたらおしまいだ。だからこそ、青い炎をぼくたちは待ち望んでいるんだよ。女神の青い炎には、貝殻の木をも焼き尽くす力があると伝えられている。それがあれば、やつらへの牽制にもなるだろうからね……とにかく、さっさとおまえは希望の自覚を持って、ぼくたちが安心して生きられるようにどうにかして! 青い目を持って生まれてきたんだから、それがお前の責任なんだよ。どんなに嫌だろうとな。ぼくがいやでも目と足を失ったように、お前にとってはその碧眼が抗えない運命だ。これ以上聞き分けがないと、叩くからな」
「うげえ」
ウルリヒは地面にごろんと横になった。
「……はーい、わかったよ」
ウルリヒの言葉に、脱力したようにセルネウは溜め息をついた。そのまま立ち上がって、頭をゆるく振りながら、テントの中へと消えた。
ウルリヒは、星空をぼんやり眺めながらざらりとした地面を撫でた。ややあって体を再び起こし、膝を抱え、めらめらと燃える炎を見つめる。ひとりぼっちで。
「別におれ……こんな目に生まれて来たかったわけじゃねえもん」
ウルリヒは、そっと自分の左頬を撫でた。そこには、希望の子の証である金色の刺青があるのだった。
十年前、ウルリヒが生まれる少し前。貝の末裔が、
ほとんどの人々が食い尽くされ、木々は無残に切り倒されたのだそうだ。セルネウの右目と両足もその時に失われた。生きながら眼球をえぐり取られ、足を食われていく痛みと恐怖は、今もなお忘れられないものなのだとセルネウは言う。
この集落は海に接しているがゆえに貝の末裔の襲来による被害はいつの時代も甚大なものだった。一方で内陸部の人間は貝の末裔の存在を知らず伝説程度にしか認識していない者が多い。この村は村人の望む望まざるとに関わらず、人間の国にとって防波堤そのものなのである。
足がない人、手がない人、指がない人、目が潰れてしまった人、鼻が捥げてしまった人、肉が不自然に削げている人。色んな人がこの村には暮らしている。そんな人々の姿はウルリヒにとって生まれた時から見慣れた風景で、いっそ五体満足な自分の方が異質だと思える。
ウルリヒが生まれた日、村の人々は、否、この大陸すべての人間が、宴を開いたのだそうだ。
青い目を持つ子どもは、女神にもたらされた【救いの御子】――救世主だ。その根拠だと言って、大人達はウルリヒに何度も何度も同じ昔話を繰り返し聞かせる。ウルリヒの左の頬には、赤子の頃に入れられた黄色の刺青がある。日の出の太陽を模ったものだ。貴重な黄色を使ったらしい。それもよく聞かされる。恩着せがましくも、何度も。
刺青のある村人は他にもいるが、すべて顔以外の場所に入れているし、自由意思で入れたものだ。そういうところでもウルリヒとは違う。ウルリヒにとっては、顔の刺青は自分が逃げ出すことのないようにと早々につけられた枷そのものだ。
どれだけ救いの御子と期待されていても、ウルリヒには青い炎の出し方、呼び寄せ方、何もわからない。どの大人も教えてはくれない。青い目を持って生まれたからと、それだけの理由で伝説を妄信する。それがウルリヒにはなんだかばからしくて、同じだけ彼らがかわいそうだ。ウルリヒだって、みんなを救えるものなら救いたい。もっと幼かった頃には、どうにか青い炎が出せないかなあと何度も練習した。最近はもう、しないけれど。
大人達の必死さが、怖い。
セルネウはウルリヒをずっと可愛がってきてくれたが、本心からの愛情だったかどうかは疑わしい。セルネウがウルリヒを見つめる目がいつもちゃんと笑ってはいないからだ。その光のない目が恐ろしくて、ウルリヒはセルネウと話すときについ、へら、と笑ってしまうのだった。その顔が気に食わないと、セルネウは何度も何度も同じおとぎ話を聞かせて自覚を持てと説教する。いやがったり反抗するとぶたれるから、顔色を窺いながら適度に合わせて日々を過ごしている。息苦しい。
どれくらい炎の爆ぜる音に聞き入っていたのだろう。ふいにふわりと肩に着物をかけられ、ウルリヒははっと我に返った。座ったまま転寝していたらしかった。辺りは白んで明るくなり、焚火はすっかり消えてしまっている。振り返れば村で数少ない少女、ユーイがくすくすと笑っていた。
「あ、ありがとう、ユーイ」
「ふふ……こんなところで寝たらだめだよ。風邪引いちゃうよ?」
「うん。気をつける」
「またセルネウにお説教されてたの? ウルリヒも懲りないのねえ」
「うーん、だって、セルネウって『おかたい』んだもんなー」
「あはは、たしかにー」
ユーイは口元に手を当てて笑った。
――セルネウにいちゃんも、貝の末裔のことなんか忘れて、とりあえず幸せになっちゃえばいいのにな。
ユーイの柔らかな笑顔を見つめながら、ウルリヒはそんなことを考えていた。ウルリヒは、ユーイに気づかれないように指の逆剥けを引っ掻いた。そんな日々を過ごして大きくなった。
あれは燈籠流しの日。ウルリヒが十二歳になった日でもあった。
昔話に習い、木々に色とりどりの燈籠を吊るし、夜になったらそれらを海に流すのだ。かつて海底樹になるために海の底へと旅立った貝の一族の少年――否、少年
ウルリヒは木の上にいた。女達から燈籠を受け取り、枝々に括り付けていく。その様子を眺めながら、ユーイが赤い髪飾りを揺らして首を傾げた。
「ウルリヒも背が伸びたねえ」
「そうかな」
「うん、ちょっと前に比べたら大分伸びたよ」
「うーん、おれ、もうちょっと高くなりたいなあ」
「どれくらい?」
「セルネウは追い越したいかな」
「あはは、それ、結構伸ばさなきゃね。あともう何年か必要かなあ」
「くそ」
「もう、そんな言葉使わないの」
ユーイは朗らかに笑って、港に打ち寄せる波を見つめた。ウルリヒも全ての燈籠を飾り終えて景色を眺めた。
「誕生日おめでとう、ウルリヒ。やっと……おそろいだね。どう? セルネウの気持ち、少しは分かりそう?」
「まだ……あんまり」
ウルリヒは目を細めた。
十二歳は、セルネウが貝の末裔に目と足を奪われた齢だった。セルネウに
「それって、きっと、おとなになってきたってことなんだよね。きっとね」
素直な気持ちを話したら、ユーイはそう言って微笑んでくれた。その可憐な笑顔は、ウルリヒの心を温かくさせた。
「……セルネウ、さっさと覚悟決めちまえばいいのになあ。損してるよ」
「ん? なんて言ったの?」
「なんでもねえ。こっちの話」
二人は、顔を見合わせて笑った。この日は、そうやって穏やかに過ぎ行くはずだった。
この時から、ウルリヒの髪先には青い羽飾り――先端だけがほんのりと黄色い――が括り付けられていた。碧眼を持つ子どもに受け継がれてきたというそれは、村からおとなと同等だと認められた証だった。
空が薄藤色に染まった頃には、琴の音が響く中、燈籠を海に放した。赤、橙、紫、赤紫、桃色、黄色。色とりどりだが青い色だけがそこにはない。燈籠を染める布の色は全て花からとっている。青い花の色だけは水に触れると溶けて消えてしまうので、燈籠には向かない。
そういうところも、
海に浮かぶ光を、綺麗だな、とウルリヒは思う。貝の末裔に怯えるくせに、その死を悼むように色の光を海に流す人間達。その姿は、貝の末裔の目にどう映っているのだろう。ばかみたいだと笑っているだろうか――
……不意に、チチ、という鳴き声が聴こえた。ウルリヒは、その音に誘われ振り返った。
浜辺に揺れる木々の梢に、影が見えた。鳥だ。青い、鳥。色彩豊かな光が物珍しいのか、枝の上でしきりに羽をばたつかせ、首を傾げていた。頭は赤く、胸の辺りには黄色の模様があって、長い尾の先も少しだけ黄味を帯びていた。髪飾りの羽根と似ている――思わず髪飾りに触れながら、鳥達と見つめ合った。初めて見る種類の鳥だ。まさか、伝説は本当だったのかと逸る気持ちを抑え――ふと、鳥達の風切羽が切られていることに気づいた。
「あ、青い炎だ!」
誰かが叫んだ。ウルリヒは弾かれたように海の向こう側を見た。水平線の
「ウルリヒぃ! 青い炎だ! 青い炎だぞ! やっぱりすげえや! おまえ、やっぱり救いの御子なんだ!」
大人達が、歓声を上げる。背中や肩をばしばしと叩かれた。
まさか、本当に奇跡が起こったというのか。ウルリヒも酔いしれたかった。けれど、鳥の鳴き声が何度でもウルリヒを我に返らせる。鳥のこの鳴き方を知っている。怯えている時の音色だ。
それに、あまりにも、炎の場所が遠い。
ウルリヒは目を細め、海の向こうの青を観察した。揺れ方も妙である。円弧を描くように、弓なりに規則的に揺らめいているのだった。風で揺れる炎なら、あんな動きにはならない。
背筋が泡立って、ウルリヒは後ずさった。
あいも変わらず騒ぐ大人達が、怖くてたまらなかった。
燈籠の光に照らされて、大人達の瞳は色づき爛々と輝いている。あの光を――青い炎を、早く手に入れてほしい、できるだろう、とウルリヒに訴えかけてくる。
「どうやって、」
ウルリヒは、頬を引きつらせて笑った。口の端が片方だけ釣り上がった。
「どうやって、あそこまで行くんだよ。舟でも出すわけ? こんな真夜中に。死ぬだろ」
それでも、大人達の好奇の光は消えない。はやく、はやく取ってこいと口々に言い募る。
あんなの、伝説の炎のわけがないじゃないか。どうしてわからない?
言い知れぬ不安が、ウルリヒの胸を巣食う。
「言い伝えでは、青い炎は夜空から降ってきた。何にも不思議はないだろう? ごらんよ、ウルリヒ。海と空のちょうど境で青い炎がお前を待っているじゃないか」
セルネウが、よく通る声でそう言った。気づけば琴の音は止んでいる。苛立ちまぎれに視線をやれば、吟遊詩人はびくりと肩を跳ねさせた。その頬には沢山の傷と痣がある。内陸の都市部で、王の逆鱗に触れた流浪の罪人だ。彼だけは、わかっているようだった。あの光が希望でもなんでもなく、貝の末裔の灯す何かだって。
ああそうか、犠牲になれっていうんだな。この村の人間はこの国の犠牲者で、その中でも碧眼に生まれたばかりに俺が人身御供されようとしているんだな。本当は、みんなわかっていたんだな。碧眼は神秘性の証じゃなくて、異端でしかないって。
ウルリヒの口元は歪な笑みを浮かべた。ふざけんなよ。あの炎を取ってくるために、一人で海に身を投げろって? 貝の一族の少年みたいに、犠牲になれってか。美談にするために、ずっとあんな作り話、聞かせて来たのか。それでおれを操れると思ったんだ。そうか、そうだったのか。
ウルリヒは腕を上げた。木の枝から羽音が鳴って、青い鳥が一羽、よろよろと腕に留まった。人々が、息を潜めた。
「あれが本当の女神の炎なら、待っていてもおれの
大人達は目を見開いた。
「で、でも、ウルリヒ――」
「言っただろ? おれの下に向こうからやってくるはずなんだよ。言い伝え通りになあ? 昔少女の下に星が降り注いだようにさ。そもそも、青い炎はいつやってきた? 貝の末裔目掛けて降ってきたんだ。今ここに、貝の末裔はいない。だとすれば、あれは、おれが成人した祝いの灯だ。貝の末裔が攻め込んできたら、おれが青い炎を扱っていつでもあいつらを殺せるという、印だ。おれにはわかるぜ。さあ、祝えよ。ずっとこの時を待ってたんだろ? ほれ、祝って見せろよ。それとも、口先だけじゃ信じられねえか?」
ウルリヒは青い鳥の尾羽をそっと撫でた。鳥は気持ちよさそうに、クルル、と鳴いた。指先は震えていた。声も上ずりそうだった。ウルリヒは、笑みを深めて、人々を見回した。大人達は混乱したように顔を見合わせる。
「なあんだよ、いざ実際奇跡を目の前にして、今度は信じられねえっての? 救世主のおれ様の言葉が信じられないの。じゃあ好きにしろよ。でもな、言っておくけど、女神の意思に違うことをしたら、ろくなことはないぜ。魚や貝を獲り続けたせいで、やつらに復讐されたみたいになあ?」
ウルリヒはそう言って、すぐに踵を返した。ざわざわと人々の声が響き広がる。次第に足取りは速くなって、ウルリヒは大樹の幹を急いで上った。葉に覆われた枝の上で、こっそりと嗚咽を漏らした。青い鳥は、いつまでも不思議そうに、ウルリヒを見つめていた。
ウルリヒの代わりに舟に乗せられ、捧げられたのは、吟遊詩人だった。知ったのはあれから三日後だった。顔を見かけないと言ったら、セルネウが笑って応えたのだ。
ほかの人たちはだませても、ぼくの目はごまかされないよ。お前、単に腰が引けたんだろう。せっかく青い炎が現れたのに、なんてもったいないことをするんだろうね。仕方ないから、あの炎はあいつに取りに行かせたんだ。みんなでたくさんぶってね。あの炎を無事に取って帰ってきたなら、もう二度とぶたないであげるって言ってね。まあ、戻ってこれなくても別にいいじゃない。元々罪人なんでしょう? この村に寄越されたのだって、村人共々、あいつが貝の末裔に食べられてもいいと王さまが思ったからなんだろうからさ。はは、ふざけるなよ。ぼくらはもう二度と、あいつらに食べられてなんかやるもんか。
吟遊詩人は、戻ってこなかった。
そして彼が消えた七日目の黄昏時。……貝の末裔が、やってきた。
彼らは手に松明を持っていた。青い、炎だ。ウルリヒは呆然とした。村人達は恐慌した。
「う、うそだ、うそだ……!」
セルネウは、唾をまき散らしながら叫んだ。
「あ、青い炎は、ぼくたち人間のものだ! お前ら化け物のためじゃない! それを持って、お前たちがぼくらを襲っていいはずがないんだ! 来るな、来るなああ……っ!」
貝の末裔は松明をセルネウに押し付けた。左の目が焼けていって、セルネウが断末魔のような悲鳴をあげた。
「これは偽物だよ、決まってんだろ。こんなの、赤い炎と変わりゃしない」
そう言って貝の末裔はげらげらと笑った。
ウルリヒはセルネウを背負って、逃げた。
逃げた。逃げた。逃げた。どうすることもできない。どうしたらいいかわからない。
あれはためらいもなく人に炎を向け、肉を引き裂き、食いちぎる。舌なめずりをしながら、蹂躙する。
人の皮を被った化け物に、どう対抗したらいいというのか。ウルリヒは木に登って、太い枝の上に呻くセルネウを横たえた。自分の服を引き裂いて、セルネウを枝に縛り付けた。
「セルネウ……っ、落ちないように、気を付けて」
ウルリヒの声を遮るように、セルネウは呻き続けた。
「おしまいだ……もう、おしまいだ……」
「セルネウ!」
「もうおしまいだ……もうぼくは、あの子の顔も見れない」
ウルリヒは言葉を失った。呆然として、悲鳴が鳴り響く薄闇を見つめる。
そういえば、あの子は。ユーイは、どこに行ったのだろう。
ぞっとして、ウルリヒは木を降りた。
息が上がる。村の中央に向かって走り続けた。めらめらと赤い焚火が燃え盛って、金色の火花をまき散らしていた。ウルリヒはテントの中を覗き込んだ。子ども達と年寄りが、身を寄せ合って震えている。ユーイの姿は、見当たらない。
「ここから、動くな。いいな?」
ウルリヒは、短く鋭く言い聞かせた。人々は怯えたように頷いた。
焚火の中に手を入れ、炎で潤った枝を腕いっぱいに抱え、ウルリヒは再び走り回った。木々に火を放ち、森を燃やした。
景色が紅い光に煌々と包まれる。悲鳴は膨れ上がった。ウルリヒは慎重に森の中を進んだ。貝の一族は、青ざめた顔で逃げ惑っている。……村の人間達も、逃げ惑う。ウルリヒは、彼らが集落へと逃げ延びるのを待った。たくさんの食い散らかされた骨や肉、残骸が、土の上に転がっている。その中に、赤い髪飾りが転がっていた。血に濡れていた。
「はは」
ウルリヒは、暗い音を零して笑った。
ゆっくりと、セルネウのいる木へ歩む。セルネウは、見えない目で布を解き、枝に結び直していた。
「何してんの? セルネウ」
歌うように問うても、セルネウは答えない。
「首でも吊ろうとしたの」
セルネウの体が、風に揺れる。ぶらり、ぶらりと。ウルリヒは、震える唇で呟いた。
「……ユーイ、食われたよ」
セルネウは、口をだらりと開けて、唾液を零し、事切れていた。きっとセルネウは、ユーイの心なんて少しも考えなかったのだろう。もう何もかもが遅すぎた。
「ごめんなさい」
ウルリヒは目を伏せて、また木に火をつけた。
「もう、十分だ。もういい。やめてくれ。これ以上、同胞を失いたくない」
貝の末裔が降参だと手を上げる。彼らは一様に海の浅瀬に浸かって体を冷やしていた。
「はあ……?」
赤い松明を握りしめながら、ウルリヒは喉をくつくつと鳴らした。可笑しすぎて笑う度に体がぶるぶる震えた。背後で燃え盛る森が、ウルリヒの体を、頬を、赤く輝かせる。歯がガチガチと音を鳴らした。恐怖だったのか怒りなのかもうわからない。
「何言ってんの? こっちの同胞食い散らかして、おまえらさまは何言ってんだよ?」
「ふん、お前もまた、その同胞の残骸に火を放っただろう。きちがいめ」
貝の末裔は、燃え盛る森を見て溜め息をついた。
「はぁ、なんと勿体ない……その木を我々は重宝していたというのに」
「てめえらにこれ以上やる木なんざねえなあ」
ウルリヒは笑った。
「おまえらが炎で簡単に焼け死ぬこともわかったからなあ? おれたちには船がある。おまえらなんか一生かかっても作れねえ船がなあ。おまえらの森も全部焼き尽くしてやる。貝殻の木が火に焼けない? そんなこと関係ねえなあ。貝殻の木が焼けないならおまえらの肌に直接火を押し付けてやんよ」
「ふむ。それでもよかろう。だがなあ、碧眼の人間よ。我々が死んで困るのはお前たちではないのか?」
貝の末裔は、にやりと醜悪に笑った。
ウルリヒは目を細めた。
「死にたくない言い訳がうまいもんだな、あ?」
「無論、我々も死にたくはない。だがお前たちの肉もまた必要。お前たちは殺されたくはない。だが我々の体が必要だ。ままならぬ。のう?」
ウルリヒはくすりと笑った。
「おまえら、おれらの肉を食べないと死ぬのかよ?」
「そういうわけではない。だが、良質な真珠のためにはお前たちの肉が必要なのだ」
「はー、さっぱりわかんねえわあ、やっぱり化け物さまのいう事は違うなあ? 気色悪い」
ウルリヒはにやりと笑みを深め、松明を投げた。ギャッと声がして、貝の末裔の一人がうずくまった。その白い肌がみるみるうちに焼けただれていった。
「なら、もうおまえらは二度と来んなよ、化け物どもよお。肉を定期的に送ってやりゃあいいんだろお? くれてやるよお。つーか、七日前にやっただろうが、欲でも出したか、化け物」
貝の末裔は顔を見合わせた。
「だが、我らはお前たちコエナシを捕食するためだけにこの大陸に降りているのではない。我々には木が必要だ。この大陸でなければ育たぬ、木が」
「ならその木で作った舟ごと生贄を送ってやんよ。それを使えよ。それともそれを使う能もないの? は、貝の末裔様が聞いて呆れるな」
ウルリヒは笑みを消して、彼らに飛びかかった。
恐らくは、炎さえなければ彼らは怯まなかった。ウルリヒは貝の末裔の肌を容赦なく燃やした。黒焦げの腕や顔を抱えて、貝の末裔が泣き叫ぶ。
彼らは怯えたように波の中へと逃げていった。やがて白い髪がすっかり水底に消え、炭の欠片が波に筋を残した。
森はようやく全てを燃やし尽くして、焼け野原になった。空が白んでくる。水平線の向こう側から金色の太陽が昇って、波に三本の筋を垂らした。その景色はあまりにも己の頬の模様と似通っていて――ウルリヒはその場に崩れ落ちて、泣いた。膝も髪も、全て砂で汚れた。
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