緑と鋸

 炎の側で、シュークヘルトがテルネラの腕をつかんで話をしている。シュークヘルトは口元が緩むのを抑えきれない様子だった。その口からひっきりなしに言葉が紡がれているのが離れていてもわかる。テルネラもずっと頷いて話を聞いている。

 ――なるほどね。

 目の前の光景に対して、腹は立っていない。絶望もしていない。ただ、体の内側に銅の青い火が燃えているようだ。一つ、二つ、三つ……燃えて、増えて、瞼の裏に昨夜の景色を映し出す。

 その青を思い出している間だけは、胸の痛みを忘れられるような気がした。内臓を抉るような疼きと、骨が削れるような軋みに苛まれたくなかった。頭の中は、殴り書きの言葉が無秩序に重なるようでぐちゃぐちゃだ。シュークヘルトの輪郭をじっと見つめ続けている間に、知らず、口の端が吊りあがる。ほとんど無意識に耳飾りを撫でながら、足元の蟻を見て、潰そうと足をあげた。そこで不意に、肩に手が置かれた。我に返って体が跳ねる。

「よぉ」

 デルフィだった。人好きのする笑みを浮かべて、掌をひらひらと振っている。もう片方の腕には大きな鋸を抱えていた。まだぼんやりとしたまま、オログはデルフィの濃紫色の瞳を凝視した。 

「無表情で見つめんなよ。ちょっと怖いぞ」

 デルフィは肩をすくめた。

「お前、今日から大人の仲間入りだからな、ちゃんときりきり働けよ。今日僕の手伝いな」

 オログは、再び焚き火の方を振り返った。……テルネラがいない。

「はは……めちゃくちゃ焦った顔してんなぁ、おまえ」

「だって、テルネラが」

「別の娘が連れて行ってたよ。女の子たちには服を織ったり、糸を編む仕事があるからさ。別にシュークと四六時中一緒ってわけじゃない」

 デルフィはオログと肩を組んで、声を成さない音でささやいた。

「ここで、あんまりあの二人に触れるなって」

「なんで――」

「ほら、仕事仕事!」

 デルフィは、ぽん、と丸めた縄を投げてよこした。オログは慌ててそれを受け止める。ばらばらと崩れる縄を抱えて、オログはデルフィの背中を追いかけた。

 向かった先は浜辺だった。デルフィは昨夜のコエナシの舟を縄で木の根に固定し、鋸を入れ始めた。

「コエナシの舟をばらして、日干しするのが僕の仕事の一つなんだけどさ。貴重な木材だからな。んで、今日からこれをお前に任すわ。ほら、こういうふうに、鋸入れて、切るだけ。簡単だろ? これくらいの幅で……こう。――な? こんな感じ」

 その手つきを眺めながら、オログはふと、訝るように眉根を寄せた。

「なんで……そんな、ふちから切るんだ?」

「うん?」

 デルフィは、切り取った小さな板をひょいっと空に投げて、再び手で掴む。

「なんで?」

 デルフィはにっこりと笑ったまま聞き返してくる。オログはますます眉間に皺を寄せた。デルフィの笑い方はグイルデのそれに、似ている。

「……別に」

「そ。まあ、適当に、好きな感じでやれって」

 デルフィはぱんぱん、とオログの背中を叩くと、今度は砂を掘り始めた。できたくぼみに鋸を置いて、砂をかけてしまう。

「……ねえ、なんで、鋸を隠してるの」

「うんー?」

「だって、使うんじゃないの、今から」

「あー、いいのいいの。後で適当にやっといて。別に今日じゃなくても、明日でも明後日でも、んなのはいつでもいいの。それに、寝かせたほうがね、船もちゃんと乾くし。今日は手本を見せただけー」

 デルフィはのんびりとそう言った。

「ほら、万一子どもが浜辺に遊びに来て、万一にも鋸の歯が直で置いてあったら危ないからねー。こうして隠しておく方が安全安全」

 そういうものかなと思いながら、オログは寄せる波を見つめた。水色の空に蒼い波。昨夜の赤黒い血はすっかり消えてしまったのだろうかと思うほどに、水は透き通っている。

 鋸を埋めおわると、デルフィは勢いよく立ち上がった。砂ぼこりがはらりと舞い上がる。

「よし、じゃあ行くぞ」

「え……どこに?」

 デルフィはにやっと笑って、オログの腕から残りの縄を取り上げた。

「こっちが今日の本題」

 しゅるしゅる、と掌の上から離れていく縄の端を、オログは咄嗟に掴んだ。

「えっ」

「え?」

 デルフィは目を丸くして、オログの手元を見ている。オログもまた、縄の端を掴む自分の手を見つめる。

 数秒。

「ぷっ……く、はは、ははっ」

 デルフィは、口に手を当てて笑った。指の隙間からころころと白い真珠が零れ落ちて行く。オログは、なぜ笑われたのかわからなかった。持てと言われたから持っただけなのに。

「いいよ、いいよそのまま。おいで」

 デルフィは尚も笑ったまま、縄のとぐろを肩にかけて歩き出した。オログもその後をついて行く。

 向かった先は、オログが初めて入る森の最深部だった。

「草が、背が、高い、ね」

 オログは、弾む息の合間に言葉を零した。

「ん~。そうね、この辺はよほど用事がなければ僕らも来ないからな。草刈ったりしてないもんなあ。生え放題だよ」

「じゃあ、その、よほどの用事って、何?」

「鉱石が足りなくなった時、とかかな」

「鉱石、って……げほっ」

 オログは咳込んだが、その間もデルフィは歩みを止めなかった。オログはふと、縄の端を持っていてよかったと思った。少しでも気を抜いたら遅れてはぐれてしまいそうだ。

「大抵の金属は再利用できるけどな? 酸化しちまって、どうにも使いようがなくなる時もあるんだよな。そうなると補充しなきゃいけないんだけど、金属が埋まってる洞窟ってのは空気中に毒があるんさ。だから、長時間はいられないし、みんなも入りたがらない」

「じゃあ、なんで、デルフィは、行くのさ」

「おれ? んー、おれ、別に早死にしてもいいしなあ」

「は?」

 オログは思わず立ち止まった。縄の輪が一つ解けてデルフィの肩から地面にずり落ちた。オログははっと我に帰り、縄を手繰り寄せながらデルフィに駆け寄った。

「ねえ、それって、なんで?」

「んー……」

 デルフィは、黙り込んでしまった。そうこうしているうちに目的地に着いたのか、立ち止まる。

「ああ、ここだよ。一つ目」

「一つ目?」

「そう。まあ、でも二つ目以降はまたいつか来た時な。今日は銅を補充するんだ。昨日ので使い物にならなくなったやつもあるし。ここは銅鉱石がよくとれるところ」

「ずっと気になってたんだけど」

「ん?」

「金属をそんなにとって、あんなに加工して、他に何に使ってるの?」

 オログの言葉に、デルフィはきょとんとして目を瞬かせた。

「何って……飾りとか、食器とか。色々あるでしょ」

「そんなに? やけにたくさん、毎日加工しているように見えるけど」

 二人見つめ合う。オログの視線に目を泳がせた後、デルフィは頬を掻いてふっと笑った。

「おまえ、いつも顔しかめてばっかだよね。疲れない?」

「別に……普段からこれだし」

 オログはむっとして、デルフィから視線を逸らした。

「オログって、ちょっと不機嫌になると無表情になるしさ、けっこうわかりやすいよね」

「そうかな」

「そうだよ。だから、多分お前が思ってるより、お前のこと見てたらわかるやつもいる。そこんとこ、覚えとけな。まだ餓鬼なんだからさ」

 オログはますます眉間に皺を寄せた。その間にもデルフィは自分の腹にぐるりと縄を巻いて、反対の端をオログの腹にも巻きつけた。

「……何、これ」

 オログは腹の周囲に巻かれた縄を撫でて呟く。

「足場が結構悪いからね。命綱ってとこ」

 デルフィはそう言って、洞窟に足を踏み入れる。オログも後を追いかけた。

 しばらくの間、お互いの輪郭が辛うじてわかるくらいの暗闇をそろそろと慎重に進んだ。やがて、緑色のぼんやりとした光が暗闇をぼうと照らす場所に出た。自分の口から、え、とか、あ、という声が漏れる。オログはいつしか、洞窟の天井に目を奪われていた。

 それは光の簾だった。緑色の光の粒を緑色の輝く糸が数珠つなぎにして、天井から何百本、何千本と天井から釣り下がっているのだった。満点の夜空を間近で見ているようだった。この景色をテルネラが見たら、どれほどはしゃいで喜ぶだろう――朝の喧嘩のことも忘れて、オログは思いを馳せた。

「はは、口は閉じておいたほうがいいよ。蠅がうっかり口の中に落ちてくるかもしれないからな」

 オログは振り返って、小さな声をあげた。

「蠅?」

「そう。これね、光る蠅なのね。ああ、外でぶんぶん飛び回ってるやつとはちょっと違うみたいだけどな。こいつら、洞窟から出すと光出さなくなって死んじまう。だから、こういう洞窟の中にしかいないんだよ」

「綺麗だ……」

「だろ? 僕も、これ見るの好きで、鉱石取りに来るのも嫌いじゃないんだよね」

 デルフィははにかむように笑った。

 更に奥へと進むほど、緑の照明は月明かりよりも眩く密になって洞を照らした。やがて辿り着いた開けた空間でデルフィは緩やかに立ち止まった。地面には古びた箱が置いてあり、中には鉄製のつるはしが入っていた。

「オログ、僕の上着持ってて。汚れるの嫌なんだよ」

「ああ、うん」

「ありがと、助かるよ」

 そう言って、デルフィはにっと笑い、壁をかりかりと削ぎ始めた。

 つるはしは一つしかない。デルフィの作業を眺めながら、オログは肩まで伸びる緑の糸を手慰んだ。ねばっとした感触は蜘蛛の糸に似ている。指先に絡みついたそれはしばらくぼんやりと輝いて、やがて色を無くしてしまった。

 待ち続けて数刻。

「……ねえ、まさか、僕の仕事ってこれ? 上着持ち?」

「まあね」

「何それ……」

 呆れたように嘆息して、オログは視線を上げた。ちょうどデルフィがこちらへ背を向け――

 その背中は、異様だった。

 薄い真珠層が、皮膚を侵食していた。左の肩甲を覆うようなそれは鳥の翼の形に似ている。

「デルフィ、それ、」

「ん? ああ、これ……」

 デルフィは振り返って、くすりと笑った。

「これ、生まれた時からあったんだってさ」

 デルフィは緩やかに立ち上がった。その手には、赤く輝く鉱石の塊が握られている。手を差し出してくるので、ためらい後、オログは上着を返した。

「まさか、それを見せるためにわざわざ脱いだの」

「いや、実際いつも脱いでるんだよ。でも、見せる気もあった。だから連れて来たんだ。ね、オログ。僕たち、仲間みたいなもんなんだよ。お前の角もこの翼のなりそこないも大差ない。等しく異形ってやつだ。……こんなこと、他の誰かがいるところでは話せないから、仕事教えるついでってやつ。これなら二人きりで話す口実ができるだろ?」

「仲間?」

「そう。お前はその角があるから【女神の贄】だし、僕はこの翼があるから、次の【長老】になるんだ……ベレグラ様が死んだ後の話だけどな。あーあ、成人の儀を早めるだなんて、オログもばかだよね。それをしなけりゃ、お前はもうちょっとの間は何も知らない子どもでいられたし、今頃角なんか生えてないよ。ベレグラ様は最初からわかってたんだ。お前が黒真珠を吐きだした時点でさ、ああ、この子が次の【贄】になる子どもだなって」

 オログは、緑の光沢を帯びた、デルフィの紫の瞳を見つめた。

「贄って……なんなの」

「言葉通りだよ」

 デルフィは地面に座り込んで、足を延ばした。オログも習って腰を屈める。

「【贄】っていうのはな、海に潜って女神に会いに行く権利を持った、ただ一人の犠牲者だよ。女神に会いに行って、海底樹に変えてもらうんだってさ。それで、僕らがいるこの大地と、コエナシの大地を海の底から支えるんだよ。僕らが……地上でずっと生きていけるように。やがて木が腐りきって、次の【贄】が選ばれるまで。そう、聞いてる。僕ら一族は、ずっと昔から、ずっとずっとそうして【贄】の犠牲の下、生き延びてきたんだってさ」

 オログは、地面を見つめた。ふと気づくと、両手が小刻みに震えていた。

「皆……それを知ってたんだ? 大人たちは、みんな。だから、シュークヘルトもテルネラにちょっかいかけるんだね。僕があの子と添い遂げられないって知ってるから」

「オログ」

「僕がいつか、木になって、人じゃなくなるから、そしたらテルネラのこと奪えるって、そういう魂胆なんだ、あいつ、はは」

「オログ、違う」

 デルフィは、オログの頬に手を当てた。

「【贄】が誰か、そしてどうなるか、知ってるのは【長老】の資格を持つ人間だけだ。だから、ベレグラ様と僕しか知らなかった。シュークはただ、ベレグラ様にテルネラを娶っていいって言われてちょっと舞い上がってるだけだ。許してやってくれよ、あいつあれで、意外と単純でばかなんだ」

「グイルデだって、僕とつがいになるって言ってきた!」

 オログは叫んだ。叫び終わらないうちに口を塞がれた。

「グイルデは……グイルデのことも、許してやってくれ」

「なんでだよ」

「あの子も、ただ――」

「長老に言われたからって? だから何。本当は好きな人がいるけどいやいや僕の子どもを産もうとしてるって? 僕はすぐにいなくなるから今のうちにって?」

 オログは両手を喉に当てた。ぼろぼろと、また真珠が口の中から転がり落ちていく。緑色の洞で輝くそれは、形も歪でまるで作り物の緑の石だ。オログは渇いた笑みを漏らした。デルフィは言葉を失ったように黙り込んでいる。

「で、君は知ってたんだろ。他は知らなくても、君は僕が贄になるって知ってて、あの儀式を見逃したんだろ。食べたくなかった。僕は、コエナシを食べたくなんかなかったんだ!」

「成人の儀をやりたいって言ったのはお前だろ。勘違いすんなよ」

 デルフィの声は棘を孕んだ。

「お前一人の命だとか幸せと、僕ら全員の命、考えたら、なあ? 別に、誰もお前一人いなくたって困らないでしょ? だってお前、テルネラとしか話してなかったじゃん。誰も、お前がいなくなっても悲しまない。お前がそうしてきたんだ。あえてお前は、『敵を作ってきた』。違う?」

 オログは目を緩やかに見開いた。

「な、にを――」

 デルフィは瞼を閉じて、唇に指を当てた。まるで、黙れとでも言うように。

「言っておくけど、僕だって犠牲を払ってるよ。子どもが作れるだけましじゃないか。僕なんかなあ、種なしなんだぜ」

 デルフィは歪んだ笑みを浮かべた。

「この翼持ってるやつはな、みんな、生殖能力ないんだってさ。だから僕、自分の子孫は残せないんだ。長老ってのはただ、大多数の幸せそうな同族たちを生かすためだけに生かされてんだ。自分の命は繋げないのに。テルネラと耳飾り交換できたお前に、僕の気持ちがわかるはずがないだろ。僕、好きな子がいたってつがいになってやれないんだぜ。お前の方がずっとましだろ。たとえそれが、その幸せが仮初だとしてもさあ」

 オログはしばらく、デルフィと睨み合っていた。苛立ちが募って、傍にあった緑の糸をぶちぶちと引きちぎった。緑色が淡く消えていく。緑の粒は、ぶん、と耳障りな音を立てて天井へ吸い込まれるように消えていった。

「あーあ、八つ当たりなんかで、せっかく作った巣を壊してやんなよな」

 天井を見上げて、デルフィが呟く。オログはがちりと歯を合わせて唸った。

「そんな話をするために、僕を呼んだわけ」

「そうだよ。ありがたいだろ。僕なんか、つがいになるお許しをもらいにベレグラ様の所に行って……二人で、行って、そこで聞かされたんだよ、お前は種なしだから、そう決まっているから、つがいは持てない。あの子は美しい娘だから、別の子どもを産ませるってさ」

 デルフィは力が抜けたように屈みこみ、両手で顔を覆った。

「きっとおまえには誰も教えないだろうから、僕が教えたんだ。おまえ、まだ【海底樹】になりきってはいないだろ。これからどれだけその角が伸びるのか……それとも他の場所から生えてしまうのかも、わからないけどさ。遠からずお前の体は海底樹に生まれ変わる。その角は、お前の体にその準備ができたっていう証拠なんだ。残酷だろうとこれが現実だ」

 しばらく、二人は黙っていた。静かな洞のどこかでぽちゃりと跳ねる雫の音だけが響いていた。

 ややあって、オログは口を開いた。

「なんで、あんたらを活かすために、僕が踏み台にならなきゃいけないの」

「それ、僕も思った。種無しって言われた時な」

「この話、ベレグラ様には通してるの? 僕に話すって」

「してないよ。僕の独断だ」

「そう……」

 『おれ、別に早死にしてもいいしなあ』――

 デルフィの抑揚のない声が脳裏によみがえる。

 ふちを少し削っただけの舟。埋めて無かったことにした、鋸。告げられた真実。内緒の話。認めてもらえないつがい。

 デルフィは感情を抑えてまた穏やかそうに笑い直した。色々と腑に落ちた気がして、オログもデルフィをまっすぐに見つめ返した。その視線を受け止めて、デルフィは力なく笑うと、膝の中に顔を埋めた。

「……いつ出て行って、女神様に会いに行くかはお前しだいだよ。ただ、ここにいる限り、お前たちの想いはどうであれ、お前はグイルデを抱かなければいけないだろうし、テルネラはシュークが引き取るだろうな」

「……うん」

 オログが返事をすれば、デルフィはちらと顔をあげ、ほっと息を吐いた。オログの肩に手を置いて立ち上がる。

「じゃあ、話は終わり。舟のことは頼んだよ、【黒真珠の子】」

 黒い闇に潜りこみ帰途につくデルフィの背中を、オログはじっと見つめた。

 腹に巻きつけた縄がぴん、と張る。オログも立ち上がって重い一歩を踏み出した。

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