水苔と洞
葉巻の匂いを消したくて、オログは金の瓶になみなみと湖水を満たし、それを頭から何度も被った。湖畔には、湖を取り囲むように釣鐘水仙が茂っていた。その細く尖った葉が落ちてくる雫を受け止めて、ふるりと震えている。
弾かれた雫は、湖面に小さな波紋を揺らした。それをぼんやりと眺めながら、オログは濡れそぼった三つ編みをそっと抓み上げた。鼻の下に添わせて嗅いでみればまだ匂いは残っている。金属を焼く匂いも、灰の零れる香りも、体中に染みついて取れない。昨日まで嫌いではなかったそれらの匂いが、今は酷く厭わしくてたまらない。舌打ちをしたところで状況は変わらなかった。
爪先を湖面にそっと浸した。足の爪に塗った
耳の下にある小さな
体は緩やかに下降していく。裸足の裏側が、ぬめる苔野原を踏んだ。綿毛のような柔らかい感触だった。足の指で苔を掴み、体を支えた。辺りは夕闇のように薄暗かった。
不思議と、ここはとても居心地が良かった。このままずっと水の中にいたい。ここなら誰の目もなく、煩わしいことなんて何もない。
屈み込んでみると、水苔にひっそりと絡みつくタニシが見えた。それは鈍い動きで苔の奥へと逃げていく。オログは水苔の絨毯を、指先でそっとなでた後、泥ごと掴み取った。苔の隙間からぼろぼろとタニシが落ちていく。オログはそれらを何もかも一緒くたに口の中に詰め込んだ。えずきながら呑み込んだ。喉を押さえた。そうしないと吐いてしまいそうだった。
「か、は」
苦しい。自分とかつて同じだったものを食べるだなんて気色悪い。こんな気持ち悪いものを、テルネラにも食べさせなければいけないなんて。もっと気味の悪いものを、僕は食べなきゃいけないなんて。
吐き気を堪えきれずに体ががくがくと震えた。爪先に込めていた力が緩んで、足が水底から離れていった。抗う気も起きないままに、オログは水中を漂った。光の帯が、ゆらゆらと頬を撫でている。最後にごぼり、と大きな泡を吐いて、オログは力なく水面へと浮き上がった。
びしょ濡れの体を支えて、湖の縁に指をめり込ませる。地上に上がると、どうして体はこんなにも重いのだろう。水の中では、あんなに自由に揺れていられたのに。
ずきん、とこめかみが再び疼きだした。頭が痛くて体が重い。いよいよ堪えきれない痛さになってきた。一体どうしたっていうんだ。
濡れた足でぺたぺたと大地を踏みしめながら、転がしておいた金の瓶を取り上げる。重みがずしりと骨に響いて、オログは顔をしかめた。瓶はオログの手を離れて、再び地面に転がり落ちる。ああ気持ち悪い。気持ち悪い。金属はコエナシを捕らえるための道具の一つに過ぎなかった。この壺も、テルネラのために使ってきたあの壺も、その副産物に過ぎない。真珠を飾る金具だっておんなじだ。なのに浮かれて、喜んで、飾りにして――馬鹿みたいだ。気持ち悪い。気持ち悪い、気味が悪い……。
震える手で瓶を拾い上げて、首を振る。こんなことをしている場合じゃないんだ。テルネラのために、まだ露を集めないと。考えるな。今は何も考えるな。ああ、頭が、痛い。
よろよろと歩いた。木の根本に隠しておいた小さな壺を拾い上げる。壺の中には草の露を、瓶には詰められるだけの殻の木の皮を集めて、テルネラの眠る木の洞へ急いだ。日は傾きかけている。直に狩りが始まる。
「テルネラ、起きて」
蔦のすだれには、テルネラの瞳の色に似た淡い赤紫色の小さな花が疎らに咲いている。それをそっと手で除けて、オログはテルネラに声をかけた。
テルネラは、ぐったりとしたように寝そべりながら、寝返りを打ってオログを見上げた。
「起きてるもん」
「そう」
オログはほっと息を吐いた。テルネラの声を聞くだけで、拗ねたような表情を見るだけで、心の中の霧が晴れるようだ。オログはテルネラの前に壺と瓶を置いて、傍に座った。
テルネラもまたのろのろと体を起こし、オログに寄りかかりながら殻の木をかじり始めた。
ぱり、ぱり、と小さな音が響く。光の無いテルネラの瞳に、次第に色が戻ってくる。この静かな時間がオログはいっとう好きだ。やっぱりテルネラは、元気に笑っている方がいい。
「ごめんね」
オログは無意識に呟いていた。テルネラは不思議そうに首を傾げた。
「何が?」
「食事、いつも二回しか用意できなくて……本当はもっと食べたいだろ。僕だって一日五、六回食べているのに、それじゃ本当は足りないよね」
「しかたないよ……だって、甘えてるのは、私だから……本当は私がやらなくちゃいけないことを、全部オログがやってくれてる。私なんてただの寝てることしかできない役立たずだもの。寝てるだけでも許してもらえてるから、お腹もすかないよ。だって……働いてないもの」
オログは哀しげに笑った。
テルネラがそうやってどこか自虐的に俯くのを、いつもうまく励ましてやれない。そんな風にずっと劣等感に苛まれてくれたらいい、とさえ思う。そうしたらきっと、テルネラはこの洞から――僕の洞から、出て行かないから。
「あのね、テルネラ」
「なあに」
「お前、貝は、食べられる?」
静寂が二人の間に横たわる。黄昏時の淡い光が、すだれ越しに差し込んで、テルネラの顔の半分を網目状に照らした。オログはただまっすぐに、テルネラの揺れる瞳を見つめ続けた。ややあって、テルネラが唇を僅かに緩める。
「貝……食べたことないから、わからない、けど」
声は震えているのに、テルネラは凛とした眼差しでオログの目を見つめ返した。オログはなんだかこそばゆい心地になって、頬を掻いた。
「うん。子どもにとっては、貝の肉は毒になるんだってさ。真珠を作れないうちに食べてしまうと、以降真珠を作れないまま年老いて行くんだって。だから大人になって――真珠を零してから初めて、僕たちは同朋の肉を食べるようになる」
「つまり……大人だって認めてもらうためには、貝の肉を食べなければならないってこと?」
テルネラは硬い表情でそう言った。オログは静かに頷いた。
テルネラは俯いた。まるでしかめ面のように眉根をぎゅっと寄せて、瞳を揺らしていた。
「みんな、食べてるんでしょ?」
「そうみたい」
オログはへら、と笑ってみる。
「そう。それを食べたら、私、もう少しは栄養足りるかな」
「え?」
今度はオログが驚く番だった。オログの揺れる瞳を、テルネラは顔をあげて真っ直ぐに見据えた。
「だって、食べれば栄養になるでしょう? 大人たちは子どもよりもずっと大きいからだをしてるのに、こんなおいしくない木を食べてるばかりで、いつも元気なのが信じられなかったの。これでやっと納得できた。みんな、肉を食べてるのね。だから……私だって、肉を食べればきっと元気になれるよね? そしたらみんなの役に立てて、オログの役にも立てるよね?」
「そ、んなの……」
オログは震える唇を動かして、ごまかすようにもっとへらへらと笑ってみる。
「わからないよ? 食べてみないと……」
「可能性があるなら食べる」
テルネラはきゅっと口を引き結んだ。
「私は、元気になりたい。こんな弱いからだはもういや」
オログはテルネラから目を逸らして、床に敷き詰めた唐草編みの絨毯を、焦点の合わない目でゆらゆらと眺めていた。
「いいの? もしかしたら、まだお前は真珠が作れないでいるだけで、いつか作れるようになるかもしれないのに。今食べたらその可能性も失うよ」
「もうこの歳で作れるはずないよ。私はコエナシモドキだもの。それくらい、知ってる」
オログは、はっとして顔を上げた。テルネラは凪いだ目でオログを見つめ返していた。
「コエナシモドキが本当はどんな目に遭うのか……私にはわからないけど、でもこれだけみんなが真珠はまだか、まだ作れないのかってこだわるんだもの。きっと、作れない子どもは……コエナシモドキは、多分嫌われるんだわ。それなのに、私はオログを犠牲にして、みんなを騙して、いい思いをするんだよ。いい思いをしていられるんだよ。だったらそれ以外のことは普通にしたいよ。当たり前のことをしたい。みんなが大人になる時、当たり前に貝の肉を食べるなら、私も食べる。他の選択肢なんてない」
――嫌われるなんて、生ぬるいものなわけがないだろ。
オログは喉の奥の息苦しさを隠すように、意味もなく首を振った。
ねえ、テルネラ、お前が思う
「そ、うだね」
オログは吐き出すように笑った。
「今日ね、大人たちで狩りに行くんだ。肉を取ってきてあげるから、お前はそれを食べな。きっと無事に帰ってくるから、待っててね」
「狩り……?」
テルネラは怪訝な顔で眉をひそめた。
「貝を採りに行くだけなのに、どうして狩りに行く必要があるの? そんな大袈裟なことをしなくても、貝なら簡単に捕まるでしょうに」
オログはにこりと笑った。ああ、頭が痛い。ずきずきする。どうしてこんなに痛いんだろう。どうしたらこの熱も、痛みも、なくなってくれるだろう。
ばかなテルネラ。
オログは泣きたい気持ちで笑って、テルネラの頭を心配ないよとでもいうようにそっと撫でた。
この小賢しい僕が、お前に本当に知られたくなかったら、【狩り】なんて言葉、吐くわけがないでしょ。死んだって吐かないよ。
どうしたいのか、自分でももう、わからない。お前に言いたいのかな、言いたくないのかな。つらいよ。つらくて、痛くて、眩暈がするんだ。
「僕、お前と同じで、殻の木を食べられない子どもだったらよかったのになあ」
「ばかなこと言わないで」
テルネラはむっとして、たしなめるようにオログを睨んだ。オログは空洞が広がる暗い天井を見つめて、笑った。
「うん、僕って、ばかなんだ」
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