燈籠と朱

 空が白んできた頃、ウルリヒは船を港に寄せた。船員達も目を覚まし、集まってくる。朝の涼しい空気の中、白い息を零しながら、みんなで積み荷を下ろしていった。

 テルネラも手伝おうとしたけれど、あまり使い物にならなかった。まず力が弱いし、多分動き慣れていない。それでもウルリヒは放っておいた。やる気はあるのを邪魔する気はない。見かねた他の男が軽い荷物と交換していた。それもまたいいと思う。

 荷物を肩や頭に乗せて、男達は村の中央へと帰っていく。テルネラはためらっているようだった。ウルリヒもいくつか荷物を抱えて、テルネラに声をかける。

「ついて来い」

 テルネラはこく、と頷いた。

「たくさん持ててうらやましい」

「そんな戯言は腕をもっと太くしてから言え」

「うん」

 テルネラが傍にいると、胸がざわざわする。苛立ちだとか不快感とか自己嫌悪とかそんな嫌な感情、そして名前のつけようがない感情だった。泉のように湧き上がって、胸の内を満たす。それでも心にぼたぼたと残る雫は、見捨てられないだとか、見捨てたくないだなんて思いだった。居心地が悪そうでありながらひたむきなテルネラに優越感を覚え、気がかりでもある。一貫性のない思いを、持て余している。顔には出さないが。

「これは……なあに」

 テルネラは、村の入り口を彩って頭上に煌めく燈籠を見上げていた。ウルリヒも足を止めて振り返る。

「燈籠だよ」

「色がいっぱい……」

「色つきの紙で火を囲ってるだけだ」

「そうなんだ……綺麗だね。でも、少し怖いね」

 テルネラの言葉に、ぴくりとウルリヒの肩は揺れた。あの残酷な一夜を忘れられない自分の気持ちを代弁されたようだったから。

「私たちが……私が逃げた時も、同じ色の光が追いかけてきた。沢山の真っ白な手が、たくさんの金属の棒に火をつけて、色を付けて追いかけてきた。オログが私を抱きかかえて、海を泳いだ。私、泳ぎも下手でね……オログがいなければ、ここにも来れなかったんだなあ」

 ウルリヒは僅かに首を傾けた。テルネラははっとして、ごめん、と零す。

「同胞になる努力をしろとは言ったけど、思い出を捨てろとまでは言わねえから」

 ウルリヒはそっけなくそう言うと、再び歩き出した。テルネラもついてくる。

 村の中央では煌々と焚火が燃えていた。テントの奥から、帰ってきた男達をねぎらう小さな歓声が漏れ聞こえてくる。ウルリヒは焚火から少し離れた場所に荷物を置いて、テルネラの小さな手をとって腕を引いた。テルネラは少しだけよろけた。手は震えているようで冷たかった。

 ウルリヒがテントの中を覗き込めば、幼い子ども達が顔を輝かせた。

「ウルリヒさまだ! ウルリヒさまだ!」

「ウルリヒさま!」

 ウルリヒは微笑んだ。そしてテルネラの背中を押し、皆にその姿を見せた。焚き火の光に照らされたその白い姿を見て、大人は顔を凍りつかせた。テルネラも震えていた。ウルリヒはゆっくりと彼らを見渡して、響く声でゆっくりと話した。

「……海で、拾った。貝の末裔の血を引く、だけど人間の女だ。真珠も吐けない、人間も食わない、行き場所のない、おれと同じ子どもだ。なあ、おれらの村は昔から流れ者を拾ってきたよな? こいつもその一人ってだけ。こいつを村におく。みんな、仲良く……とまでは言わない。ただ、村の人間としてこいつを受け入れてやってほしい」

 ウルリヒがテルネラの横顔を見つめれば、テルネラは、ぎこちなく眉尻を下げ、頭を垂れた。

「テルネラ、です。お手伝い、たくさんさせてください。どうか、あの、私をここで、一緒に暮らさせてください」

 最後の方は声が震えて、裏返っていた。テルネラは堪えるように唇をかみしめた。人々はそれを声も出せないまま見つめていた。永遠とも思えるような沈黙の中で、やがてテルネラの喉から悲鳴にも似た嗚咽が漏れた。慌てて声を出さないようにと口を覆うが、涙が零れてしまっている。ウルリヒは手の中にあるテルネラの細い手首を見つめた。少しだけ、そっと握りしめた。

 テルネラが泣いている理由はわからない。恐怖なのかもしれないし、屈辱かもしれない。それでもテルネラは嗚咽を押し殺しながら目をごしごしと擦って、笑ってみせた。

「よろ、しく、おねが、い、します、がんばる、ので……がんばり、ます」

「ああ~……あのな、案外いいお嬢ちゃんだから。お、おれらも何日か一緒にいたけどよお、仕事とか手伝ってもらって結構助かってよお」

 助け舟を出したのは、船員だった男の一人だった。空元気を出すような声だったが、その一言で周囲の空気が和らいだと思う。ウルリヒは唇の端をそっと持ち上げた。

「だれか、こいつの服をあとで用意してやってくれ。こんな透けた服、人間は着ない」

「わ、わかったよ」

 小さな子どもを抱きしめていた細身の女が震える声で頷いた。

「テルネラ。服着替えたら、焚火の前に行っとけ。後でおれも行くから」

 ウルリヒはテルネラから手を放してテントを離れた。テルネラは遅れて頷いた。


 ウルリヒは、海へと注ぐ川の真ん中でざぶざぶと水を浴びた。塩の匂いを消すように長いこと体を洗っていた。やがて獣のような仕草で頭を振り、水滴を河畔にぶちまける。冷えた体に群青色の衣装を羽織り、爪や指の隙間に泥が潜り込むのも構わず、裸足のまま焚火に向かって歩いた。

 テルネラは、焚火の前に敷かれた絨毯の上にぺたんと座り込んでいた。あてがわれた服は赤紫陽花のような色のブラウスと袖のない水色のワンピースだった。足を止めて、ウルリヒはしばらくその後ろ姿を眺めていた。ほんの少しだけ見惚れていた。良く似合っていたのだ。

 テルネラは、手の中に黒真珠の耳飾りを抱えていた。つけるかどうか迷っているのかもしれない。

 また泣いているだろうかと顔を覗きこむ。渇きかけの涙の筋が、橙色に煌めいているだけだった。

 その隣にどさりと音を立てて座り込んだ。テルネラもウルリヒを見上げた。それを目の端で捉えながら、ウルリヒは魚を開いた干物を炎にかざして焼いた。表面が泡立って、じゅうじゅうと音を立てる。テルネラのお腹がきゅう、と鳴った。それに少しだけ笑ったら、自分のお腹も音を立てた。テルネラもぎこちなく笑った。

「ほらよ」

 ウルリヒが干物を一つ渡すと、テルネラは指でつまんで、「熱い」と小さく呟いた。せっかく焼き立てをくれてやったのに、結局テルネラはウルリヒの分の魚が焼けるまで待っていた。二人で殆ど同時に魚に噛みついた。ウルリヒの一口は大きくて、テルネラの一口は小さい。

「おいしい」

 テルネラはしゃくりあげながら呟いた。

 テルネラの腹が、食べ物を求めるかのように再びきゅるきゅると呻く。テルネラはやがてがつがつと魚に食いついたのだった。それを眺めながら、ウルリヒももう一口を口に運んだ。

「おいしい……おいしいよ」

「おー、そりゃよかった。人間さまの食い物も悪くないだろ」

 テルネラは目をぎゅっと閉じて、ぼたぼたと涙を零した。干物の表面を、涙の雫がつたって行く。

「耳飾り、つけねえの」

「つけていいの」

「捨てられねえんだろ」

「うん。オログのこと、忘れたくない。オログがくれたものを離したくないの。そうでなければ私、まだしばらく生きていけない。オログのために、私は人間になる、の」

「へー」

 ウルリヒは干物を口に運びながら、炎を見つめた。左手で、自分の髪にぶら下がる青い鳥の羽をつまむ。ウルリヒがそれを指で手慰むのを、テルネラは鼻をぐすぐすと鳴らしながら不思議そうに眺めていた。

「お揃いだな」

「え?」

「この青い羽もおれにとっては生きていく証だ。おれも人間として、碧眼の子どもとしてこれからも生きていくつもりだよ。他の生き方なんて知らない……。いいんじゃねえの。別におまえから、その黒い塊まで奪ったりしねえよ」

 テルネラは吐息を零すように、小さく笑った。

「うん……おそろいだね。あと、これも」

 テルネラは自分の左頬を撫でていた。ウルリヒもつられて自分の刺青に触れたが、咳払いをしてごまかした。眼の奥がじんとして熱い。

「この服、可愛いね。こういうの作るの難しそう。人間は器用だね」

「裁縫は得意だろ。作り方だって習えばいいよ」

「教えてくれるかなあ」

「知らねえよ、自分で考えろっつーか、話しかけろ」

「もう、すぐそういう言い方するんだもんね」

 テルネラは拗ねたような声を出したが、結局笑った。泣き笑いの顔はなんだか愛らしい。もう一度鼻をぐすりと鳴らし魚にかぶりつくテルネラを見ながら、ウルリヒも大きく口を開けて魚を噛みしめた。

 くちゃくちゃと、二人が肉を咀嚼する音が風に溶けていく。炎の周りにまとわりつく風は生ぬるいが、冷えた体を温めるにはちょうどいい。ウルリヒは炎の先端を見つめた。薄紫色の空には、尚も白い星達が淡く瞬いていた。あれをかき消すくらいにもっとたくさんの燈籠を吊り下げて、明るい夜を作ってやろうかなんて考える。空なんか見る暇ないくらい。海の底に眠る真珠を忘れるくらい。

 ――柄でもねえな。

 ウルリヒはもう一度頬の入れ墨を撫でて、最後の一口を咥内に放り込んだ。

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