テルネラの章
雨粒と瞳
夢を見ていた。
真珠を吐いて、疲れ切って、ウルリヒの膝の上で眠っていた。
雨がぱらぱらと振りだして、テルネラの頬を撫でた。麦の穂に、髪飾りに、ウルリヒの土色の指に当たって、弾ける。
その音の心地よさに、テルネラは睫毛をふるると震わせた。
雷が鳴る。僅かにびくりと肩を揺らすと、ウルリヒの手がそっと髪の毛を梳いてくれた。
濡れるのに、と思う。起こしてくれたらいいのに。そうしたら、無理をしてでも歩けるよ。
体は気怠いけれど、まだ、私は歩けるよ。
ウルリヒの手は、男の子にしては小さくて、細い。
だから、撫でられると少しだけくすぐったかった。
旅人さんや、ベレグラさまのそれとはちがう。オログの手ともちがう。
微睡みに抗って薄目を開け、テルネラはウルリヒの膝の周りに散らばる桃色の歪な真珠を眺めた。
一つ、二つ、七つ、八つ、九つ……。
たくさん、吐きだしたなあと思う。私はやっぱり人間ではない。コエナシモドキだった。
こんな夕焼けみたいな色の真珠なんて、見たことも聞いたこともない。小さくて、形もばらばら、
コエナシモドキが、こんな綺麗な色の真珠を吐けた。
私は、ウルリヒのおかげで――
少しだけ、鼻が詰まった。テルネラは僅かに唇を開けて息を吸い、ウルリヒの指に頬をすり寄せた。
視界がぼやけて、暗くなる。
朧のような夢がまたテルネラを包み込んだ。ウルリヒが自分を持ち上げ、抱えてくれたのがわかる。
……ぴちゃり、ぴちゃりと音がする。瞼を開ければ白い世界が広がっていた。記憶の底に沈んでいた柔らかな音色が耳に響いている。ああ、これは夢なのだ、とテルネラは考える。
まさか、真珠を吐いて最初の夢がこれだなんて――罪悪感がちくりと胸を刺す。
顔を上げれば、記憶と違わぬ旅人さんの姿があった。ぼんやりとした輪郭で視界に映り、彼は一所懸命に赤茶色の干し肉を噛んでいた。ぴちゃり、ぴちゃり……。その咀嚼音を不思議な音だなと思ったのを覚えている。
殻の木を食べる自分達と、旅人さんが食べ物を噛む音はちがっていた。自分達の立てる音はばりばり、ぐちゃぐちゃという汚らしい音だけれど、旅人さんの立てるその音はまるで木の葉に当たる雨粒の音のようで、好きだった。
ある日突然現れた旅人さん。彼は自分を吟遊詩人だと名乗ったけれど、テルネラには吟遊詩人というものがよくわからなかった。そう素直に伝えたら、彼は黒い目を細めて柔らかな声で歌ってくれたのだ。こういう歌を歌う人のことだよと言って。
彼の知っている歌は少なかった。彼はいつも二つの歌を繰り返した。他にお歌はないの、と尋ねたら、彼は悲しげに目を伏せた。
『僕には、これだけが精いっぱいだったんだよ』
『どういうこと?』
『僕は、罪人なんだ。王さまの宝物庫から、絵本を盗んだんだ。不思議な絵本だった。五本の線の上に、蛙の幼生のような不思議な黒い記号が並んでいて、その下に言葉が点々と記されている。それがよくわからなくて、僕はずっとずっとそれを読みこんで、ある時気づいた。これは、歌を書いたものなんだって』
旅人さんは、夜空のようなキラキラした眼を青い空に向けた。
『それで、王さまの家畜だった馬を一頭盗んで、殺して、その皮と尻尾でこの楽器を作った。そうしたらさすがに見つかってね。だから僕は罪人になって――ああ、そんな顔をして……僕が恐いかい』
テルネラは震える唇で呟いた。
『恐いけれど……でも、その楽器は、とても音が綺麗だと、思うの、だから……』
旅人さんは、くすりと笑って、テルネラの頭を大きな手で撫でてくれた。
『ごめんね、恐がらせて』
その手の温もりは、一度だけ長老に撫でられた時のことを思い出させた。初めて殻の木を食べて、吐いた時のことだ。長老は、他の誰の子のことも撫でなかったのに、テルネラだけは撫でてくれた。目を細めて、どこか嬉しそうに――そう、この、今の旅人さんのような柔らかい表情をして。
『旅人さん。旅人さんが歌う歌は、いつも同じ言葉を繰り返しているような気がするの。あの、少しだけ悲しい音色の方』
『ああ、これか』
旅人さんは、弦を弾いて音を鳴らした。
『ウー シャフテム マイム レッセッセ ミーマイェノハ ヤーシュア マイムマイム マイムマイム……』
『不思議な歌』
テルネラは肩をすくめた。
『マイムって、どういう意味?』
『僕もよくは知らないよ』
テルネラは、旅人さんの悲しげな笑みを見つめながら、首を傾げた。
『失われた言語の一つだと思うんだ。かろうじて発音は分かるけど、意味はわからない』
『失われた……?』
『うん。僕はね、きっと、かつてはいたと言われている僕ら人間の祖、赤い髪や金色の髪の人たちが残した歌なのだろうと勝手に思っているけれど。それからね、多分、この歌は海を憂える歌なんだと思うんだ』
『海を憂える? どうして? どうして、海を憂えるの?』
『言い伝えがあって、』
旅人さんは、からん、と弦を弾いた。
『この世界は、最初は海しかなくて、その海を神様が引き裂いたんだ。とある子どもを木にして、大地を支えさせた。そうして僕たちの陸が生まれて、こうして生きていられる……君たち貝の末裔は、陸が無くても……海の中でも生きていけるんだろう?』
『うん……海の中には女神さまがいるから、積極的に潜ろうとは思わないけれど……』
『はは、すごいや。僕たち人間は、海の中では生きられないんだ。息が出来なくて、死んじゃう』
テルネラはさっと顔を白くした。
『旅人さん、死んじゃうの』
『今はまだ死なないよ。海に潜ったらって話。でもね、死は怖いことじゃないんだよ。僕たちはもともと海という死の世界から生まれて来た。またその場所に還るだけさ』
『テルネラ、むずかしい話はよくわかんない……』
『僕たち人間が、君たち真珠貝の子どもを犠牲にして、生きているっていう話だよ』
旅人さんは、テルネラの頭をもう一度そっと撫でた。
『そのせいで、僕たちはなかなか仲直りできないんだ』
『じゃあ、じゃあね、テルネラね、旅人さんと仲直りする!』
『あはは、僕とテルネラは喧嘩もしていないのに』
旅人さんは、可笑しそうにくすくすと笑った。
『でも、ありがとう。そうだね、仲直りしよう。いつか、もしもテルネラが道に迷ったら、海に還っておいで。僕ももうすぐ、そこに行くから。そこで待っているから』
『旅人さん、もうすぐ死んじゃうの』
『そうだね。人は、貝の末裔より少しだけ寿命が短いんだよ』
『そうなの……』
いなくなる前、旅人さんはようやくテルネラに名前を教えてくれた。旅人さんは、親のない子どもで、だから名前もなかったけれど、自分でつけたと言った。親というものがよくわからないテルネラには、旅人さんのその話もよくわからなかったけれど。
『マイミア』
旅人さんは最後に、三日月のように口の端を釣り上げて笑った。その時の旅人さんの眼差しはよく覚えていない。今思えば、その時にはすでに旅人さんは目玉も食べられていたのかもしれない。実際、最後に聞かせてくれた歌で旅人さんは何度も楽器の音をはずしたから。
『マイムマイムって何度も言っているとね、だんだん、マイミアって言っているような心地になってさ。ああ、これが僕の音なんだなって。僕の名前だなって思ったんだ』
『マイミア』
テルネラも笑った。
『素敵な名前だと思う』
まるで、大地に染み渡る、雨粒のような音だとテルネラは思った。テルネラの心の中には、今でも彼の柔らかな声が残っている。それはきっと、テルネラにとっては初恋のようなものだった。
やがて旅人さんはいつの間にか姿を消した。テルネラは、彼は海に還ったのだと思った。青い海に溶けて、死んだのだ。涙は出なかった。せめて手向けに真珠を零せたらよかったのにと思ったけれど、今零れないということは――悲しいのに、それでも真珠を吐きだせないということは、旅人さんは自分にとってつがいではなかったのだ。
テルネラは、そう思って悲しみを飲みこんだ。それ以来テルネラはずっと、真珠は自分の涙なのだと信じていた。
心からの涙なのだと、本当の恋の証なのだと、信じた。
オログが自分を大切にしてくれていることは、ずっとずっと知っていた。
テルネラも、オログのことが大好きだった。きっと世界中を探しても、これほどに自分を大切にしてくれる人は他に現れないだろうと思っていた。旅人さんが私に優しかったのは、私が幼く可哀相な貝の末裔の子どもだったからだ……。オログは、誰よりもテルネラを必要としていた。その気持ちに応えたかった。だからこそ、テルネラはずっと、ずっと、真珠が欲しかった。私だけの真珠。オログにあげるための、オログだけの真珠。
けれど、いつまでたっても殻の木は美味しくなくて、オログはいつも苦しげな顔をしていた。
私ではオログを幸せにできない――そう思った。オログはきっと、そんなことはないと言うだろう。テルネラがいるだけでオログは幸せなのだ。そう思い込んでいるし、また、オログにとってそれは真実なのだろう。それくらいはわかっていた。それでも、オログの側にいるべきが本当は自分じゃなかったことくらいは知っていた。
オログはテルネラを異常なほどに暗い洞の中に閉じ込め続けた。あの頃、オログが何に恐がっているのかはよくわからなかったが、自分が真珠を吐けさえすれば解決する問題なのだろうとはわかっていた。次第にテルネラは劣等感に苛まれていった。大好きなのに。こんなに大好きなのに、真珠が吐けない。
つがいになろうと言われた時は、嬉しかった。私はきっと、誰かを本当の意味では愛せない子だから、きっとこれからも真珠をオログにあげることはできないだろう……。それでもいいと、守ってあげると言ってくれるオログが愛おしくて、恨めしくて、苦しくて、幸せだった。
心を返せなくてもいいから、私はただ、オログの傍にいよう。オログのためなら私、どんなつらいことでも我慢できる。つらいことと言ったって、全部ただの勝手な劣等感の
「マイム、マイム、マイム、マイム」
呪文の言葉のように、一人きりの時は繰り返し呟いた。歌う度に涙が滲む理由は、自分でもよくわからなかった。
ウルリヒに出会った一瞬、その姿に目を奪われた。
真っ黒な髪に、土色の肌。旅人さんと同じだった。違うのは目の色。海のように青い、とても綺麗な瞳。
胸が熱くなって、やけどしたみたいにつんと痛くなった。
旅人さんが還ってきたのだと思った。ほかの人間達のほうが彼とよく似た姿だったのに、どうしてだか、ウルリヒこそが旅人さんの生まれ変わりなのだと思った。……思いたかった。だからこそ、開口一番、吐きだされた暴言の数々にひどく衝撃を受けた。
――嫌い。嫌い嫌い嫌い……!
どうして、こんなに胸が痛くて、悲しくて、ウルリヒのことが恨めしくなるのかわからなくて、気持ちをもてあました。
ごく初期の段階でウルリヒから旅人さんの面影が切り離されたことは、自分にとってよいことだったのだとテルネラは思っている。
ウルリヒのことを嫌えたからこそ、テルネラは彼に対してあまり引け目を感じなかった。むしろ、嫌っているのは自分だからと仄暗い優越感さえ感じていた。ウルリヒがテルネラに対して言うほどの悪意を持っていないと、言葉を交わすようになってからすぐに気づいた。不思議だった。オログにいくら頼まれたからとはいえ、たとえできそこないだとしても、テルネラが人の憎むべき貝の末裔であることに変わりはないのに。
あの日、オログが目の前から消えて、まるでテルネラを拒絶するように一人で逝ってしまって、テルネラはようやく真珠を吐かなければいけないという義務感から解放された。追いかけられなかったのは、オログの意思を尊重したからではなかった。もう、苦しいのは嫌だったのだ。だから、楽な方に逃げた。ウルリヒに守られながら生きる方が、他の人々の心ない言葉や眼差しに晒されたとしてもずっと楽だった。テルネラは、村の中央で燃え盛る炎の火花をそっと掌に乗せながら、一人何度も胃液を吐いた。狡い自分が、嫌いで仕様がなかった。オログは、私の狡さを見抜けていただろうか。それとも、知らなかっただろうか。
同時に生きていくための理由を失ってしまった。オログのために、オログの分まで生きるだなんて偽善は、オログのいない世界ではあまりにも虚しかった。むしろテルネラは、オログのことを少しだけ忘れたかったのだ。だから、貝の末裔である自分を捨てろと、オログと同胞ではなく自分と同胞になれと言ったウルリヒの言葉は、テルネラの心を軽くした。ウルリヒといると調子が狂う。どうして会ったばかりなのに、こんなにも的確に私を救ってくれるのだろう。頼んでないのに。望んでいなかったのに――とかくテルネラは、ウルリヒに対して大きな依存心と、同じだけの反発心を抱いた。
ウルリヒが忘れろと言ったから、忘れるわけにはいかなくなった。
忘れられない。私はオログを覚えていたいのだ。覚えていたくて、同じくらいできるものなら忘れたい。それはきっと、私がオログを大好きだということだ。その証明だ――
その気持ちがテルネラを支えてきた。生き方も覚えた。料理や家事を覚えた。人としての暮らしになじんで、心に余裕が出て、テルネラはやがて、ウルリヒに興味を持った。
不思議なことを言う人。旅人さんともオログとも似ていない変な人。いやなことばかり言って、冷たいそぶりばかりして、けれどいつも、傍に座ってくれて、魚を焼いて、一緒に食べてくれる。
ウルリヒも狡い人間だった。狡賢くて、心を隠すのが上手だ。まるで自分を鏡合わせに見ているようだとテルネラは思った。本心を隠している時は、いつだって口の片端だけをつりあげる。
もしかしたら、ウルリヒも本当は私のことが大嫌いなのかもしれない――そう思うこともあった。けれど、それでもよかった。テルネラはウルリヒから一つ大事なことを学んだ。
ウルリヒもテルネラも同じように狡くて、つまりそれは、心が弱いからだということ。
ウルリヒはいつからか、ふとした時に自然に笑うようになった。ウルリヒの海のような青い目がキラキラ輝いているのを見るのはなんだか好きだった。ウルリヒが笑うと、ほっとした。そうして、自分もまた笑えるようになっていることに気づいた。それが泣きたくなるくらいに嬉しかった。オログといた時の何も知らなかった幸せな自分が戻ってきたようで。
けれどテルネラは、ウルリヒも自分も決してあれから強くなったというわけではないと思っている。テルネラは相変わらず弱いままだし、ウルリヒはむしろ前よりももっと弱くなった。時折でも年相応に無邪気な笑顔を零すウルリヒを見ているうちに、テルネラにはわかったことがある。
オログもまた、弱い子どもだった。テルネラと違っていたのは、オログはきっとあの頃にはすでに自分の弱さを知っていて、それと一生付き合っていく覚悟も決めていたのだということ。テルネラを同じ子どもの自分がずっと守っていくために。
オログは弱い子どもだった。テルネラと同じように弱くて、狡い子どもだった。
テルネラはオログと同じように、弱い子どもだった。ただ、それだけのことだった。
オログと同じものになれた――それは、テルネラにとっての生きる導になった。ウルリヒがいなければ理解することはできなかっただろう。テルネラは、少しずつ、ウルリヒを嫌いだと言うのをやめた。それでも、時々は言ってしまうことがあった。その度にウルリヒは面白くなさそうにむっとした。その表情を見るのが――ウルリヒと憎まれ口をたたき合うのが、何故か楽しくて、心が高揚する。それがずっと不思議で、わけのわからない感情に戸惑っていた。嫌い、と口にするごとに、ウルリヒの青い色が体中に刻み込まれるような気がした。その鋭い眼差しで、もっと睨みつけてほしい。余すところなく、私を見て、恨んで。私が見ているのと同じくらい、私を見て。
本心を建前で巧妙に隠しながらチエッタと軽い口調で会話するウルリヒを、煙る空気の中で睨んでいた。その狡さに憤りと、仄暗い嫉妬を覚えるくらいには。
もう気づいていた。テルネラはもうずっと、ウルリヒの青色に溺れていたのだ。
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