番外編
あれから
息が灰を吹き続けている。
気道は狭まり、呼吸は苦しい。肺の奥に炎症があって、体は火のように熱かった。背中の傷もずくずくと拍動していた。内側からも外側からも苦しかった。うなされながら、ウルリヒは炎の中で失ったたくさんのものを思い出していた。
× × × が、あの日と変わらぬ笑顔で笑いかけて、ウルリヒに手をふる。× × × × は彼女の隣で幸せそうだ。そうか、黄泉の国ではだれもかなしい思いはしていないのだ。
もうすぐ、おれもそちらへ行くんだろう。
かなしかった。死ぬことよりも、テルネラがいない。
戻ってくるとは言わなかった。多分、オログを選んだ時から、間に合わないとわかっていたんだろう。それでも彼女は海へ渡った。それが彼女の矜持だ。テルネラを引き止めることなんてできなかった。それは彼女の自由を奪う行為だ。
テルネラが真珠を吐いた時、うれしかった。そのわけがあの時はよくわからなかった。愛したからだと思う。愛していた。いつの間にやら、テルネラが世界で一番だいじだ。あの子があの子らしく生きられる世界を作りたかった。
自分が死ねば、青い目の子供は絶えるだろう。でも仕方がない。
鮮烈な生を送った。心残りはない。だけど、テルネラに会いたいという気持ちにも嘘はつかない。もう会えないとわかっているけれど、一生覚えていろと思う。俺を選んでくれなかったこと、一生忘れるなよって思う。
看病を続けてくれたのは、ウルリヒに手酷い傷を負わせたあのグイルデだった。奇妙なことだ。彼女は懸命に治療した。死ぬなと何度も話しかけてくるのが聞こえた。泣いているようだ。女の心は結局よくわからない。
もうだめだろうなと意識を手放しかけていた時、何かを舌下に落とされ、喉に異物が入り込んだ。
苦しい。朦朧とした意識の最中で、異物が喉の奥を押し広げるようにして入っていく。体がうまく動かなくて抗えない。そうしているうちに、今度は空気が入ってきた。
目をうっすら開ければ、デルフィがいた。ウルリヒの顔のそばで布袋を膨らませては、握って萎ませている。多分、これがウルリヒの肺に空気を送っているんだろう。
なんだそれ、としゃべろうとしたけど、うまく声が出なくて、また息苦しくなった。しゃべるな、と鋭く言われたから、そのまま楽にして、青空を見た。
空気が上手く入ってきたからか、意識が明瞭になってくる。
「空気が足りなくて苦しんでるなら、空気を送ってやればいいだけだ。呼吸が落ち着いたら水も飲め。皆に露を集めさせた。友好の使者を死なせる訳にもいかないからな」
デルフィは素っ気なく淡々と言葉を紡ぐ。
餌であるはずの自分を世話するなんて、変わってるなと思う。自分やテルネラの想いが、言葉が少しでも伝わったのだろうか。だとしたら嬉しい。喜ばしい。
「……人の体内の構造は、よく知ってる。腹を、胸を開いてたくさん食べてきた。だからできるだけのことはする。後はあなたの生命力次第だ」
デルフィは、またうとうととしかけているウルリヒをじっと見つめ、尋ねた。
「……テルネラは帰ってくるのかい」
わからない、という言葉を放つことは難しかった。きっとあの子は海の底からまた戻ってくる。だがオログがどれほど深く遠くで眠っているのかは知らない。きっと時間がかかるのだろう。自分が死ぬほうが先のような気がしていた。けれど治療をしてくれるというのなら、がんばらなければならないだろう。
かつて自分の大切なものを蹂躙し、奪っていった一族に命を委ねているなんて、可笑しな話だなとウルリヒは笑って、意識を手放した。
鳥の声が聞こえた。きっとハルだ。ハルはウルリヒの額をつつく。その美しい姿を目に留めたいと思うのに、うまく目を開けられなかった。鳥の気配が消える。ああ、お前もおれを置いていくんだな。さみしいよ。おれは何かまちがったのかな。それとも心を自分のものだけにできなかったから、こんなにさみしいのかな。
勝気ですぐにおれを嫌いだ嫌いとむずがる女、絶対好きになるもんかと思ってたのにな、止まれなかったよ。だって愛おしかったんだ。
もっとしてやりたいことがいっぱいあった。おれはあの子を人にしたくなった。そんなおれを笑うように、あの子は真珠を吐いた。あの子はどこまでも、貝の末裔でしかなかった。おれを選んではくれなかった。けれど、委ねてくれた。
二つの種族の未来を。あの子の未来を。それから……あの子自身を。
たしかに、死んでいる場合じゃないよなあと笑う。重ねた体に震えるテルネラの姿をまだ鮮明に覚えている。身体中に熱を穿ったように苦しくて、幸せだった。その切ない記憶を反芻しているうちに、意識が浮上する。ちぇ、もう少し夢を見ていたかった。
「起きろ。水を飲め」
今度はシュークヘルトだ。いつの間にか喉に差し込まれた管は抜けていた。彼に差し出された椀から水を飲み干す。
「……少ししょっぱいな」
「なんだって。……ああ、しまった。薬を混ぜるのに枝を使ったから」
シュークヘルトが頭を掻きながら、匙のような形の殻の木の枝を椀から取り上げて、バリ、と噛み砕いた。その枝から塩味がしみだしたのだろう。
「いや、でもその塩味がうまかった。これくらいの方がちょうどいい」
「そうか? それならいいんだが」
シュークヘルトはウルリヒの額に手を当てる。
「大分熱が引いたか。まだ熱いな。一時はどうなるかと思ったが、お前が丈夫で何よりだよ」
「皮肉か?」
「皮肉も多分に混じっている。だがテルネラが好いた男を殺すのは何か違う気がした。お前がコエナシだとしてもな」
シュークヘルトは椀を受け取り、もう一杯瓶から水を汲み取る。そら、塩気が欲しいならこれを使えと小さな枝をよこされて、それを溶かしながらウルリヒは水を飲んだ。
「……女神さまが助けてくれたんだ」
「なに?」
「夢の中に出てきた」
ウルリヒは枝をかじってみた。海の味みたいに塩辛くて、笑えた。
「青い鳥の……いや、青い小さな魚の末裔として、おれにはまだやることがあるから。オログが大地を支えたように、おれは人とお前たちの関係を変えていかなくちゃいけない」
「……なぜ、そんなことを。今さらだ」
「テルネラと生きていきたいから」
「……戻ってくるのか? あいつはオログの所に行ったんだろう」
「戻ってくるさ。いや……違うな。戻ってきて欲しい。あの時オログを選んだように、彼女のやりたいことが終わったら、今度はおれを選んでくれたらと思ってる。せっかく生きのびたしな」
「まだ予断は許さないとデルフィは言っているぞ。水はたくさん飲め。落ち着いたら一度向こうに戻った方がいい。ここでは真水に限界があるからな」
「話してみると、おまえたちは本当におれらと変わらないね」
シュークヘルトは黙り込んだ。ウルリヒは笑った。
「おまえらが人間を食べないでいてくれるだけで、こんなにも話が弾むんだぜ」
「……」
「おまえらは鳥を飼わないのか?」
「鳥とは共生はしてきたが。飼うとはなんだ」
「おれらは鳥だって食べられるけど、食べずに餌を与えて一緒に生きるのさ。命つき果てるまで、その美しい羽を愛でて、時にその賢さに助けられながら生きていくんだ」
「まるで稚児を育てるみたいだな」
「そういうものだよ。おまえたちが人間を飼ってくれたら、おれたちはこの世界で共に生きていけるんだ」
ウルリヒの言葉に、シュークヘルトは目を伏せて口元を少し緩めた。
「……案外面白いかもしれないな、それは」
「対等でありたいなんて言わねえよ。おれたちはおまえらに脅かされたくないんだ。生きていたいんだよ」
「デルフィにも伝えることだな」
ふっと笑って、シュークヘルトは顔を上げた。
「死骸のように過ごしていたやつだが、おまえを助けるためにまた生き始めた。感謝してる」
「友達なのか」
「そうだ。俺とあいつと、グイルデで、いつも三人で一緒だった。あいつとグイルデは好きあっていて、俺はテルネラをつがいにしたかった」
「…………」
「そう顔をしかめるなよ。今はグイルデを大事にしたいと思ってる。俺にとってはあいつもデルフィも同じだけ大切な友だ」
「おれのことも友にしてみる気はない?」
「愉快なことを言うじゃないか、考えてやってもいい。お前と話すのはそう悪くない」
それに、テルネラが好いた男だからな。
シュークヘルトがそう言って穏やかに笑むのを、見ていた。
体を洗うために水を浴びることにした。塩濃度の低い、貝の末裔にとっては不味い湖水があると教えられて、そこへ向かう。まだ少し咳は出る。デルフィに支えられ、土を重く踏みしめながら湖畔に辿り着いた。そしてふと、それに気づいた。
「芽が、出てる」
「え」
ウルリヒは足元をじっと見た。透明な双葉が点々と芽吹いていたのだ。デルフィもつられたようにそれを見つめる。
「山荷葉という花があるんだ」
「サンカヨウ」
デルフィはその響きを不思議だというように片言で繰り返した。
「紫じゃなくて白い花なんだ。だからおまえたちは知らないんだろうな。水に濡れると、こんなふうに透明になる。山荷葉に似てる草がここには群生してるんだな。霧に覆われているから草花もよく濡れただろう。テルネラが露だけで生きていけるわけだ」
湖水を舐めれば、おいしかった。身体に染み渡るような気がする。
「そう、あの子は露を舐めて生き延びたのか」
「塩濃度の低い湖の水を吸って育った殻の木を食べて、朝露を集めて飲んだって言ってたぜ。オログが思いついたんだと」
「オログか……」
デルフィは水浴びをするウルリヒを湖畔に座って眺めた。
「彼がここから逃げ出すようにけしかけたのは僕さ。でも、本当にテルネラをここまで生かすなんて思わなかったよ」
「人を見る目があったな、オログは。……あっ」
茶化すように言ったら、うっかり足を滑らせた。思ったより深い湖だった。
くぐもった、自分の名を初めて呼ぶデルフィの声が聞こえてくる。笑ったら泡が漏れ、水が鼻、気管に入ってくる。咳込めば咳き込むほど水に侵され、顔の周りの水が薄黒く濁った。
気が遠くなっていく。病み上がりで力が入らないのだ。テルネラはどうしてるだろうか。彼女には鰓があると聞いたが、同じように苦しいのではないだろうか。かろうじて呼吸をしながら今頃懸命にあの細足を動かしているんだろう。瞼の裏にその姿が見えるような気さえする。がんばれ、がんばれ……。ウルリヒはぼうっとしながら心の中でテルネラを励ます。
こぽりと小さく泡が漏れる。苦しいけれど、気が遠くなって苦しくなくなってきた。頭がよく回らないが、思い出されるのはテルネラの色んな表情で、それだけでとても幸せだった。オログもテルネラの夢を見ているだろうか。オログのつがいだったのに、好きになってしまってごめん。愛してごめんな。
喉の辺りを、胸を、何かがちまちまとつついてきてくすぐったい。それのせいで、こんなにも眠いのに眠りにつくことができない。何度も柔らかく食まれて、ウルリヒはようやく目を開けた。透明な小魚達が、なぜかウルリヒの喉を、胸を、顎を、啄んでいる。
垢を食べているのだろうか?
すっかり呼吸の苦しさを忘れて、ウルリヒはそれに魅入った。魚は少しずつ白くなり、そして黒ずんでいった。魚達は満足したのかひらりと尾びれを揺らして、ちりぢりになった。一瞬のことで、彼らを目で追いかけることは叶わなくなった。そして、沢山のあぶくが降ってきて、ウルリヒは引き揚げられた。
しばらく咳き込んでいたが、それが収まった頃、ウルリヒは呼吸が楽になっていることに気づいた。デルフィはほっとしたようで、何度もウルリヒの背中をさすっていた。悪人になれないやつだなとウルリヒは彼のことを評価した。
「さっぱりした」
「溺れかけておいて言うことじゃないよ。まったく、本当に驚いた……人間は泳ぐのも下手なんだね」
「いつもはもっとちゃんと泳げるぞ。息が出来なかったから……でも、不思議だな、なんだかとても楽になったんだ」
灰の匂いが消えている。空気がおいしい。それだけで生きてると実感できた。腹も空いてきた。死にかけてから初めて、生きたいと――
もっと生きたい、テルネラに会いたい、会わなくちゃ、と思った。
ウルリヒは、テルネラを待つためにがんばることにした。今初めて、生きていることを嬉しいと思う。淡い橙や紫色の真珠飾りを手のひらに乗せる。それは髪から伝う水滴を浴びしとどに濡れていて、キラキラと輝いていた。ウルリヒはこの大地に来てから初めて泣いた。テルネラにもらったものが嬉しくて、泣いた。
……その後、帰ってきたテルネラが双子を産んで、あの時の子だと二人で目も合わせられず顔を赤くしたり青くしたりするのはまた別の話。
貝の末裔と人の交わりが生まれたのは、それからのこと。
真珠の子 星町憩 @orgelblue
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