終章

貝の少年と人の娘



 僕、夢を見ていた。

 真珠色の明るい靄の向こうで、けらけらと笑う白髪の子どもたちを眺めていた。

 銀黒色の貝殻に小さな穴をあけて、紐を通して。その子どもたちは、それを首にかけて笑っていた。子どもたちにとって、それはかつての衣だった。人の姿を得る前の、身を守ってくれていた宝石だった。

 そしてそれが、今は己の体の芯になっている。貝は人の姿を得るため、殻の欠片を核にして真珠を作るのと同じように、己の肉に殻の骨を埋め込んだ。

 黒真珠を零す子どもたちはやがて、体を骨に貫かれた。女神は泣いて、その子どもを安らかに眠らせようとした。けれど子どもはそれを拒んで笑った。

 ――ぼくが木になって、沈んだ大地を持ち上げたら、きっとあの女の子も生きられるんでしょう?

 女神は泣いて、何度も何度も貝の子どもに謝った。貝の子どもは首を振って、土に手をずぶずぶと沈ませた。

 ――いいんです、ぼくはかなしくないよ。だってぼくは、あの青い目をした女の子が好きだから。あなたとあの子が青空の下で笑っていてくれたら、それがぼくの一番のしあわせなんです。

 夢はいつもそこで覚めて、また最初から繰り返す。目を開けても、広がるのは鈍色の闇だった。僕はいつしか姿かたちも木に成り果てて、瞬きをするのもやっとなのだ。

 ――だってぼくは、あの青い目をした女の子が好きだから。

 子どもの言葉を、反芻する。

「……僕は、紫陽花色の目をした女の子の方が好きだよ」

 僕はぽつりと零して、僅かに笑った。真珠の代わりに透明な泡が零れて粒になった。

 紫陽花の色は容易く移り変わる。白や赤紫、青紫、青。あの子は、あの青目の子供と一緒に生きているだろうか。……あいつ、ちゃんとテルネラを守ってくれたかな。

 あの子の綺麗な眼が青色に染まっても、僕は好きでいられるかなあ。少し、悔しいかもしれないな。でも、いいんだ。青色は、僕の色でもあるから。おかしいよね、露草って青色なのに、僕の目は紫なのに、テルネラは僕の目を露草色だなんて言ったんだ。

 あの子には、僕の目は青く映っていたのかな。

 そう思ったら、なんだか少し、嬉しいな。

「……グ、オログ」

 あれ?


 僕は目を瞬いた。やっぱり広がるのは鈍色の闇ばかりだけれど、何か声が聞こえたような気がするのだ。

 忘れかけていた、僕の名前が。


「オログ……ごめんね」


 大好きな子の、柔らかい声が僕の名前を呼んでいる……そして、謝っている。

 謝らなくて、いいのに。

 僕は少しだけ悲しくなった。

 お腹の辺りが、足の先が、腕が、少しだけひりひりする。

 心が痛いからかなあ、とぼんやり考えていた。

 心地よい微睡みにもう一度目を閉じていたら、不意に瞼の上がすうすうとする。

 僕はもう一度、睫毛を震わせて目を開けた。


 心臓が、きゅっと小さな音を立てた。


「オログ」

 テルネラが、笑っている。

 嘘だ、と思った。こんな都合のいい夢、見るわけがない。

 ずっと、最初の子どもの夢しか見られなかった。だって僕の骨には、その記憶が染みついているのだから。

 けれど目の前のテルネラは、目に涙を溜めて、あの頃と変わらない赤紫色の目に僕の顔を映している。

「テルネラ……?」

 少し、髪が伸びた?――そう言おうとしたけれど、声が擦れて、出なかった。テルネラの髪には、僕の真珠ではなく、青い羽根がぶら下がっていた。それが、なんだか苦しかった。体がきしりと音を立てたような気がした。

「うん」

 テルネラの唇から、ころりと何かが零れた。

 夢を見ているのかと思った。

 僕は、動かない体で、僅かに顎を引いて、その淡い色の粒がゆっくりと水底へ落ちていくのを眺めた。

「オログ、私ね、真珠を作れるようになったの。だから、あなたにそれを伝えたかった。だからね、すごくからかったけど、おいしくなかったけれど、この海をずっと歩いてきたの。あなたに会いに来たの」

「ばか……だなあ」

 僕は、戸惑いながら、声を零した。

「無理なんか……しなくて、いいのに」

「無理したよ。したかったもん。でもね、からくていいの。つらくていいんだ。生きてるってそれだけでつらいし、だれかを犠牲にしてるんだよ。でも、私もオログを食べたから、おあいこだよね」

 テルネラは、花のように笑った。

 小さな手が、そっと僕の右の耳に触れた。ぱちりと音がして、僕の耳から重みが消えた。胸が締め付けられる。

「やめて……それは、」

 ――外さないで。

 僕が、僕であるためのよすがなんだ。

 僕は縋るようにテルネラの瞳を見つめた。テルネラは僕の白真珠の耳飾りを手の中に包み込んで、悪戯っぽく笑うのだった。

「だめ。これは私がもらうの。……だって、私たち、約束してたでしょう?」

「約、束……?」

「そうだよ。言ったでしょう? 私ね、真珠を吐けるようになったの。綺麗な丸でもないし、白くもないけれど、小さいけれど、私の大事な真珠だよ。オログと、ウルリヒが私にくれた、私の宝物なの」

 テルネラは、僕が残した珊瑚色のお守り袋を懐から取り出した。ずいぶんと色褪せている。あれからどれほど経ったのだろう……。その中から細い指が取り出したのは、朝焼け色の何かだった。


 二粒の真珠に、金の鎖。僕はそれを、ただ茫然として見つめていた。


 信じられなかった。僕が今まで見た、どの真珠よりもきっと綺麗で、可愛いと思った。そう思ったら、なんだか泣けてきた。心がぐちゃぐちゃだ。自分の心なのに、どうして涙が出るのか、わからなかった。

 ずっと、泣かなかったのに。

「えへへ」

 テルネラは笑って、僕の白真珠をそっと左の耳につけて。僕はそれをただ、見ていることしかできなかった。

「ふふ。ねぇ、似合う? どうかな、オログ」

「うん……」

 テルネラは首を傾けた。白い真珠がぱらぱらとテルネラの頬にぶつかって、跳ねた。

「……うん、似合うよ。おまえの髪に、よく映える」

「じゃあ、オログにはこれ、似合うかな」

 テルネラは、また僕の右の耳に触れた。体がふるりと震えた。この気持ちを、どう表したらいいのか僕にはわからない。

 泣きたいくらい苦しくて、でも苦しくない。

 耳たぶに僅かな重みがかかった。小さな粒が僕の頬にそっと触れる。体を動かせない僕には、それを見ることができなかった。けれどその感触は、とても温かくて、優しいと思った。

「私のはじめてを、あなたにあげる。ねえ、オログ」

「うん……なんだい」

 テルネラは、泣きそうな笑顔で、笑った。

「もう一度、教えて。私の瞳の色」

 僕はゆるゆると目を見開いた。

「私、それを宝物にする。この耳飾りと一緒に、ずっとずっと持っているね。いつか、この木が世界にいらなくなるまで」


 ――やがて貝の少年は、貝殻の木に侵されて、木となってしまいました。もう、自由に謳うことも、泣き声を上げることすら、叶わないのです。

 『ああ、身に余るものを求めた報いか。女神の宝物を欲しがった罰なのか。

 それでもわたしは、あの人に想いを伝えたいのです。

 あの人に笑って欲しいのです。

 どうかこの夢が、

 叶ってくれたら。』

 貝は眠りにつきました。

 いつか、愛するただ一人に想いを告げることを夢見て。


 僕の体が、もう一度ふるりと震えた。あの旅人の声が、胸の内で鮮やかに蘇った。

 僕は、このために生きていたのだ。

 大好きな女の子に、想いを告げるために。

 愛の言葉を伝えるだけで、テルネラを置いて逃げた。

 きっと僕は、あの時死んだ。あれが幸せだと信じていた。

 でも、今度こそ僕は、生きていくのだ。

 テルネラに大切な言葉を残して、これからも生きるのだ。テルネラのために。テルネラの生きていく世界で。

「はは……お前の真珠の耳飾り、体が動かないから見えないなあ。ちょっと残念」

「いつか、きっと見られるよ。私、がんばるから」

 テルネラは僕の体――貝殻の肌にそっと額を触れて、僕を抱きしめた。

 テルネラの言っていることはよくわからなかった。けれど僕は、朝焼け色の輝きが今は見えなくてもいいと思った。

 僕の頬に、触れてくれるから。そこにあるから。

「お前の瞳は、紫陽花色」

 僕はありったけの心を込めて、テルネラの瞳を見つめた。

 テルネラは輝くような笑顔で僕の瞳を覗きこんだ。

「あなたの瞳は、露草色だよ。大好き」



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