真珠の子
星町憩
オログの章
耳飾りと紫
深い深い森の奥で、夜鳴き虫の羽の音が儚げに途切れていく。朝が来たのだ。太陽が山際に白い光を瞬かせ、濃紺の空に水色がそっと滲む。霧に霞んで、森は淡い紫色に揺らめいていた。眠りゆく森の中を、二人の少年少女が手を繋ぎ、茂みをかき分けて歩いている。
森に林立する樹々は貝殻のような光沢をもち、青や紫の輝きを鈍く照らしていた。辺りに生い茂るのは背高で先端の鋭い、透き通った草達だ。葉脈を白く浮き立たせたその草は魚の骨のようでもあり、僅かに瞬く緑の粒と相まって、濁って見えた。それらの茎の先に揺れる小さな花々もまた、朝露に濡れ白と透明の
少年にはオログ、少女にはテルネラという名前があった。意味は知らない。意味を持たない。音で名付けられている。二人の艶やかな髪は淡く七色を滲ませた乳白色で、まるで真珠を細い糸にしたようであった。肌は血色が悪くて、黄味と灰色を帯びた色だ。爪は胡粉を塗ったかのようにほんのりと白く、青紫色に滲んでいる。なぜかといえば、彼らの血液が透けるように薄い青色だからだ。瞳の色は血液を透過して、紫色に輝いている――より区別をするのならば、少年の方は青紫に近く、少女の瞳は赤紫に近い。この【貝の末裔】は、瞳の色を花にたとえて愛をささやく。彼らの棲む森に咲く色彩をもつ花が全て紫色だからだ。
さて、オログは右腕で金の壺を抱えていた。二人は草花についた朝露を採取するために早起きしたのだった。オログは遅れがちになったテルネラを気にして立ち止まり、振り返って静かに声をかけた。
「疲れたかい、テルネラ?」
「う、ん……少し」
テルネラは途切れがちに答えながらも、やわらかく微笑んだ。その笑顔につられてオログも笑った。
「じゃあ、少し休もう。ええと――」
周囲を確認してから、オログはその場に膝をついた。焦げ茶色の地面は朝露をたっぷりと含んでいて、オログの服の裾には土色の染みが広がっていく。
「このあたりは朝露が沢山残っているみたいだ。僕が集めておくから、テルネラは休んでて」
「だめだよ……だって、私のためにこうしてここまで歩いてきたんだから……私だって手伝わなくちゃ……」
テルネラはそうは言いつつも、ほとんど倒れ込むように弱々しく座り込み、横になった。
「でも、ちょっとだけ、息をつかせてね……なんかね、頭に血が足りないの……」
「朝から何も食べてないからね」
オログは静かに応える。作業の手は止めなかった。テルネラは不規則に息を吐きながら、オログの背中を見つめた。
「オログは……何も食べなくていいの?」
「僕はもうとっくに食べたさ。お前と違って、僕の食べ物はそこらじゅうにある」
あちこちの葉の裏側や花弁の先に、朝露が今にも零れんばかりに滴っている。オログは丁寧な手つきで、その雫を壺の中に落としていった。
「いつも……ごめんね」
「急に何? 別に、いつものことだろ」
「でも……私のせいで、オログをいつも巻き込んでるよ」
「いいんだよ。僕にとっては、お前がみんなにコエナシモドキだと知られてしまうことの方が恐ろしい。それ以外のことなら何も怖くないし、つらくもない」
オログは身軽に移動したので、テルネラが寝転びながら頬を涙で濡らしたことには気づけなかった。テルネラの呼吸はしばらくすれば落ち着いて、そのまま眠ってしまったらしかった。あるいは、気を失ったのだろう。寝ているところをたたき起こして、朝から長い距離を歩かせたのだから……それがテルネラの体に鞭打つことだとはわかっているが、テルネラの
それからは、テルネラを起こさないようにより静かに、慎重に朝露をかき集めた。植物の群生した湖畔の森で、金の壺はあっという間に満たされた。
【貝の末裔】の森の湖は、どれも海のように塩からい。だがこの湖だけは塩濃度が低いので、淡水を吸って育った【貝殻の木】も塩の味が薄い。テルネラが食べられる木はここにしかない。他の民は好んでこんな
「テルネラ、起きて。さあ飲んで。たくさんお食べ」
オログはテルネラを揺り起こした。満たされた壺と腕いっぱいの殻の木の欠片を渡せば、テルネラは飢えていたと言わんばかりに朝露をごくごくと飲み干し、小さな口で殻の木をかみ砕いた。それを見つめながら、オログはそっと息を吐き、崩れ落ちるように座りこんでうずくまった。ああ、今日も無事に朝を迎えられた。テルネラがまだ生きている。誰にも気づかれずに、生きている。オログは唇をきゅっと噛み締めた。微かに響いていた咀嚼音が止まる。
「いつもどこに行っているんだって言われるの」
テルネラがそう呟いたから、オログはどきりとした。
「私とオログが夜になるといつもどこかへ消えるって。それで朝になるとふらりと戻ってくるのは、一体何をしているんだって」
「恋人たちの夜を詮索するなんて、野暮なことするなよって言ってやれ」
梢の合間を縫って、朝日が筋となって降り注ぎはじめた。オログは眩しさに目を細め、忌々し気にそう返した。
「こ、」
テルネラは頬をわずかに青く染めて俯いた。
「……オログはいっつもそういう心臓に悪いことばっかり言うね」
「なんで? 僕はテルネラのこと、恋人って思われてもいい」
「そ、れは……私たち、ずっと一緒にいるから。でも、やっぱり恋人じゃないよ」
テルネラは目を泳がせている。少しだけムカッと来たから、オログはわざとらしく首を傾げて近づき、テルネラを覗き込んだ。
「どうしてそう思う?」
「うう……」
テルネラは眉根を寄せ、言いにくそうに唇をもぐもぐと動かしている。そわそわと落ち着きなく足を組みかえる様子も愛らしいと思うが、オログはともかく先を促した。
「みんなに、何か言われた?」
テルネラはいっそう俯いた。
「恋人は……最初に吐いた真珠で耳飾りを作って、お互いに交換してつけるでしょう? それで初めて恋人になれるでしょ。でも、でもね、私は真珠を作れないよ。オログに証を贈れないの」
オログは膝の上で頬杖を突き、しばらく考えてみた。やがてもう一度テルネラの目を覗くが、彼女の瞳は揺れていた。だからオログもずっと思っていたことをちゃんと口に出した。
「ねえ……そういうの、必要?」
「え?」
「だから、そういう、形になるようなものがどうしても必要なの?」
テルネラは虚をつかれたようだった。けれどすぐに、何かを振り切るように真珠色の睫毛を震わせて、耐え忍ぶように目を細めた。
「ここに、」
テルネラは自分の耳たぶに触れる。
「ここに痛みがあるということが、愛されてるっていう実感。そう、みんな言ってたよ。私は、それをきっとこれからも、一生、オログにあげられないんだ」
「いいよ。痛みが愛だって言うんなら、僕はとっくにお前に痛みをもらってるし、今でもずっと、痛いよ」
「それは……どうして?」
「テルネラが、コエナシモドキだから」
思いのほか声が震えた。テルネラの顔も苦しげに歪んだ。
「ごめんね……できそこ、ない、で」
「違うんだ。違う。テルネラがいつかいなくなっちゃうんじゃないかって怖いんだ。テルネラがいなくなったら、僕は生きていけない自信があるよ。毎朝、こうしてお前と朝を迎えられることにほっとする、お前が生きているだけで嬉しい。耳飾りなんてそんなものなくても、お前がいてくれるだけでいい。他に欲しいなんて思わないんだよ」
オログが諭すようにそう言葉を紡ぐ間、オログの喉からはぽろりとそれが零れ落ちた。緑色の光沢を浮かべる大粒の黒真珠だった。照りも形も美しいそれを爪先でつつきながら、テルネラはなおも難しく考え込んでいるようだった。オログは、自分の真珠をじっと見つめた後、彼女に畳みかけることにした。
「ね、いいことを思いついたよ」
「え?」
オログは懐から小さな紫色のお守り袋を取り出した。巻貝の体液で染めたその色はくすんでいて、オログの瞳の色によく似ている。袋の口をそっと開けば、中に入っていたのは真っ白な真珠――で、できた耳飾りだった。形はやや不ぞろいだが、照りは美しい。
「それ……どうしたの? 誰の?」
オログが白真珠の耳飾りをしゃらりと引き出している間、テルネラは不思議そうに首を傾げていた。
「僕の」
「え? ……でも、オログのは黒真珠じゃない。これは白真珠だよ」
「そうだよ。今の僕は黒真珠を吐くけれど、僕が最初に零した真珠はこの白真珠だったんだ。いつかお前にあげようと思って、とっていた。白かったのは最初のこの六粒だけでね、あとは黒真珠ばっかり零れるようになっちゃって。でもさ、最初は本当に白かったんだ。ほんとだよ」
信じてくれるでしょ、とあざとく微笑めば、テルネラも頷いた。そしてオログの瞳をじっと見てから、悲し気に目を伏せた。
「信じるわ。……ねえ、真珠の色って、体調とか気持ちにも左右されるって聞いたよ。もしかしてオログは、ずっと具合が悪かったの?」
オログは頭を振った。
「そんなことは……ないよ。ただ、そういうものだったんだよ。それだけのことだ。……それで、これを僕がつける」
オログは白真珠の耳飾りを自分の右の耳にはめた。その後、懐をまさぐってもう一つのお守り袋を取り出した。珊瑚の粉を溶かして染め上げた、淡赤色の袋だ。その中からつまみ上げたのは、一粒の大きな黒真珠だった。金の金具が、朝日に照らされてきらりと眩く輝く。
「綺麗……」
テルネラは顔をほころばせた。
「これは、僕が零した中で一番大きいやつ。テルネラにあげるね」
つられるようにオログも笑ってから、テルネラの左の耳にそっと触れた。金具をパチンと留める時、指先が緊張で震えた。
テルネラはおずおずと耳たぶの黒真珠に触れ、オログを見上げる。オログはテルネラの小さな手に指を絡めた。
「これで僕たちはだれが見てもつがいだろ。だから……これからも、僕と、ずっと一緒に居てよ」
テルネラはわずかに体を震わせた。
「でも……こんなの、騙しだよ……だって、その耳飾りは……私の真珠じゃ、ない」
「誰も気づきやしないよ」
オログは口の端を優雅に釣り上げる。
「だって、白真珠なんて、ありふれすぎてて。いいじゃない、今朝になってようやくお前が零した白真珠。僕は嬉しくてそれで早々に耳飾りを作ったのさ。そうして僕たちは愛を交わした。そういう筋書きだ。誰も何とも思わないよ。そろそろね、ごまかすのは難しいかなと思ってたんだ」
「そ、んなの……そう、だけど……でも、私、私たち、まだ子どもだよ」
「どうだっていいじゃない」
オログは笑った。
「こうすれば誰もお前に危害は加えられない。お前に誰も触れられない。だってお前は僕のものだもの。そしたらお前が、コエナシモドキだってバレることもない。僕ならお前を守ってやれる。ずっとそうしてきただろう? だいじょうぶだよ。だって僕は黒真珠に愛された子どもだよ。誰も僕に文句なんか言えてないじゃない。今までだって、多分これからだって、そうだよ」
「たまに、あなたが怖い」
テルネラは俯いた。
「構いやしないよ」
テルネラは迷うように目を泳がせた後、顔をあげてオログの目をじっと見つめた。
「……今思いついたみたいに言ったけれど、ほんとはずっと前から考えてたんでしょ」
「どうしてそう思うの?」
「だって、どちらも最初から耳飾りにしてあったし、それに、オログの瞳が揺れてないもの」
オログは目を丸くした。
「そんなことないよ。今だってほら、心臓はどきどきしてる」
オログはそう言ってテルネラを抱き寄せた。テルネラの耳が、頬が、胸に触れて僅かに温かさを滲ませる。
「……そうね」
拗ねたような声。オログが笑えば、テルネラは口を引き結んだままオログの胸に顔を埋めた。ぐりぐりと頭を押し付けて、ぽつりと呟く。
「あなたの瞳は、露草色」
その言葉を聞いた瞬間、オログの心は震えてざわめいた。だってそれは、愛の言葉と同義だ。
「ふふ。いつか言えたらいいなって思いながら、ずっと温めてたの」
テルネラはオログの腕の中で笑った。
「僕も、」
オログはかすれた声で、呟いた。心許なく震える指先で、テルネラの頭を壊さないようにそっと撫でた。
抱きしめたい、もっと。
今の、僕の心のままに抱きしめたら、テルネラは壊れてしまうかもしれない。割れて、欠片になって、もう、戻らないかもしれない。怖い。嬉しい。知らなかった。愛おしいって、きっとこういうこと。
「僕も、ずっと言おうと思ってたんだ。言いたいと思ってた……」
オログの瞳はゆらゆら揺れる。頬に熱が集まっている気がした。テルネラはまっすぐに見上げてくれている。
「お、お前の瞳は、紫陽花色だね」
くしゃりと顔を歪ませ不器用に笑ってそう告げれば、テルネラはふわりと花が匂い立つような笑顔で頷いた。
「ありがとう。私の瞳は紫陽花色なのね」
二人はこの時、確かに幸せだった。
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