◆エピローグ

エピローグ さて、一番嘘つきの物書きは――

「魔王よっ! ならば貴様はっ、民たちの安寧を願って、このエパピアラ王国を支配しようとしていたというのかっ!」

「古い約束だったのだ。古い古い……、エパピアラ王との……」

 黒の隙間から紫色の光がにじみ出る、魔王の法衣。

 その脇に深く刺さるフレッドの剣を伝って、潔い真っ白な液体がしたたり落ちた。

「邪悪なはずの魔王の血が……、純白だと?」

 魔王は言葉を発さず、苦痛に歪んだ顔をじわりと上げると、それからその快楽にも似た満ち足りた瞳をこちらへ向けた。

「フレッドと申したか? このことは、一生、誰にも言わないつもりだったのだがな……。では、あとはお前に託そう。どうか、エパピアラを良い国にしてくれ」

「魔王っ!」

 重い地響きが鳴り始め、きしみ始めた玉座の間。

 放心していたソフィアとジャンパオロがハッと俺を見た。

「フレッドっ! 魔空間の萎縮が始まったわっ! そこから離れてっ!」

「すぐに離れねぇと、このじゃじゃ馬魔法使いの封印に掴まっちまうぜっ!」

 ジャンパオロの言葉に続いて、ソフィアが「じゃじゃ馬ですってぇ?」と言いながら魔法杖を上げる。

 思わず剣を手放し、一歩後ずさった。

 揺れる玉座。

「フレッドっ! 早くっ!」

 ソフィアの叫び。

 俺はハッと我に返り、すぐに玉座から転げ降りた。 

「行くわっ! 魔王よっ! いにしえの|叡智が生み出せしこの封印書に、いざ汝を招き入れんっ!」

「魔王っ! 安らかにっ……、安らかに眠ってくれっ!」

「おうよっ、後のことは俺たちに任せなっ!」

 そのとき突然、魔王の体が目を覆わんばかりに明滅し、ぐにゃりと捻じ曲がって玉座が溶け落ちた。

 続けて響いた、耳をつんざく破裂音。

 そして、突然にその音はピンと張りつめた空気の一部になって、ただただ暗転の中に響き渡る細い連続音となった。

 その音の向こうで、一瞬、魔王の声が聞こえたような気がした。

「ありがとう」……と。

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     ・

     ・

     ・ 

「『ありがとう』……って」

「え? 僕に? お父さんが?」

「うん。いろいろ考えたけど、やっぱりあたしがワタルくんと出会えて良かったって思ったみたい」

「そっか」

 明日は、もうこの街を離れる。

 見慣れた歩道。

 見慣れたキャンパスの風景。

 新たにこの街で暮らす子だろうか、両親と一緒に不動産屋の前で立ち話をしている高校生も見える。

「あの子、あたしたちと入れ替わりでこの街へ来るんだね」

 そう言って目を細めた愛加里さん。

 ついさっきまでの不満そうな顔が嘘のよう。

 ここへ来る前、僕らはとある警察署へ立ち寄った。

 愛加里さんが、どうしても運転免許証の名前を『萩生』に変更したいって言い出して。

 どうせ向こうへ行って住所変更をするんだからその時でいいんじゃないかって言ったけど、どうしても今日がいいらしい。

 愛加里さんにしては、ずいぶん珍しいわがまま。

 そして、警察署で念願の氏名変更を行ったが、新しい名前は裏に書き入れられただけで、表は『新井愛加里』のまま。

 どうも、それがものすごく不満だったらしい。

『だって、表の名前が変わると思ってたんだもん。マスターに見せたかったのに』

 愛加里さんの『新井』という苗字は、亡くなった彼から貰ったもの。

 彼女は彼と入籍したあと運転免許を取ったので、名前が変わったときは裏に書かれるということを知らなかったらしい。

 その、なんとも可愛らしい不満顔。

 僕は思わず笑みをこぼして、その顔を覗き見上げながら彼女をなだめたんだ。

『でもさ、素敵だって思わない? 彼が愛した「新井愛加里」さんと、僕が愛している「萩生愛加里」さんが、一枚の免許証の裏表に居るなんて。もう二度とないよ?』

 そう言うと、彼女はちょっと視線を泳がせて、それから小さく口角を上げた。

 その後、地下鉄の座席に腰を下ろしている間、ずっとその運転免許証を眺めていた彼女。

 何度も何度も、表と裏を行ったり来たりしながら。

「いらっしゃいませ。あ、これはこれは、おふたりお揃いで」

 見慣れたドア。

 そして、落ち着いたブラウンの店内。

『喫茶 アルフヘイム』

 涼し気に鳴ったドアベルの響きに重なって、品のいいベスト姿のマスターがいつもの笑顔をくれた。

「ご結婚、おめでとうございます」

「ありがとうございます。遅くなってしまってすみません。明日から、ふたりで僕の故郷で暮らすことになったんで、挨拶に来ました」

「ああ、もう明日なんですね。萩生くんは高校の先生でしたっけ。愛加里さんは?」

「彼女は奏さんの事務所の専属ライターを続けます」

 パッと愛加里さんに目を移して、「ほう」と笑みを投げたマスター。

 愛加里さんがちょっと肩を上げて、恥ずかしそうに言う。

「あ、でも、ペンネームは変えるんで……」

「おや、そうなのですね。ではもう、『田原直子』先生ではなくなってしまうのですか?」

「はい。あの、『田原直子』は、実はあたしの母の独身時代の名前なんです。ちょっとだけ、お父さんに当てつけるつもりで使っていたので……」

「それはそれは……。では、新しいペンネームは?」

「新しいペンネームは……、『新井愛加里』です」

「ほほう」

 さらに笑みを増したマスター。

 愛加里さんもふわりと笑顔を返した。

 このペンネームは、僕が勧めた。

 亡くなった彼が彼女に残した、『新井』という名前。

 それがこの世から消えてしまうのが、ちょっと心残りで。

 これからも、物書きの彼女の傍で、僕と一緒に彼女をずっと見守っていて欲しいと思って、この『新井愛加里』をペンネームにしてはどうかと提案した。

「ああ、立ち話をさせてしまって、ごめんなさい。さぁ、いつもの席が空いていますよ? どうぞ?」

 笑みと共に、そう僕らに手を向けたマスター。

 見ると、いつもの窓際の席が、窓から降り注ぐ春の陽光のシャワーを受けて僕らを待っていた。

 春色のフレアスカートをふわりとさせた、愛加里さん。

「あたし、マスターのコーヒーじゃないとダメなのに……。もう気軽にコーヒーが飲めなくなっちゃうな」

 席へ向かいながらそうひとりごちた愛加里さんに、マスターがくしゃりと笑いながら応える。

「そうですか? 私のコーヒーなどでよければ、いつでも送らせていただきますよ?」

 いつもの、僕らの席。

 嘘つきだけど、嘘つきじゃないふたりが、以前とはちょっと違う顔をしてそこで向かい合って座っている。

 窓の外では、どこまでもうららかな春空を背景に、光風が並木の枝を揺らしていた。

「さて、ご注文は何になさいますか?」

 テーブルの横、おしぼりを置きながら僕らに穏やかな瞳をくれたマスター。

 愛加里さんが、くすりと笑う。

「ワタルくん、何にする?」

「そんなこと……、わざわざ聞く?」

「あはは」

 どこまでも愛らしい、愛加里さんの笑顔。

 見慣れたはずのその笑顔に、ほんの少しだけドキッとする。

 小さな咳払い。

 そして僕は、少々わざとらしく居住まいを正して、マスターを見上げながらその言葉をそっと投げた。

「いつものを、ふたつお願いします。僕たちの想いを繋いでくれた、あの、『ぬくもり』……を」


          おわり

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     ・

 これは、実にいい小説でした。

 馴染みの彼が、私の店が話に登場するからと、読ませてくれた一遍の小説。

 まだ本にはなっていない、物書きさんたちが使う、クリップで端を留めた横長の原稿でした。

「ありがとう。でも……、私はこんなに品のいい年寄りじゃありませんがね」

 時計を見ると、もう昼下がり。

 私は少々苦笑いしながら、大学時代からこの店に通ってくれている馴染みの彼へカウンター越しにその原稿を返しました。

 しかし、なんとも驚いたのはその著者。

 その、昔馴染みの彼に託されて読んだ小説の著者は、なんと、ずっとこの店で小説談義をしてくれていた、あの、萩生くん。

 そしてその原稿が語ったのは、彼が何度も共にこの店を訪れた、あの愛加里さんとの馴れ初めの物語でした。

 なんとも素敵に描かれていた、私の『アルフヘイム』と、自慢の『ぬくもり』。

 さらに、非常に申し訳ないことに、あまりにも品の良すぎる喫茶店マスターとして描かれていた……、この私。

 本当にそれだけでも嬉しすぎるというのに、まさかラストシーンにまで登場させていただけるとは……。

「しかし竹邉くん、愛加里さんがあなたの娘さんだったなんて、本当に驚きです」

「いや、私のほうこそ、再婚したいと連れて来た彼氏を通じて愛加里がこの店の常連になっていたなんて、思いもしませんでしたよ」

「物書き同士、お似合いのカップルですね」

「まぁ、亡くなった彼のことも大切に思ってくれているようですし、いい相手に巡り合えたと思います。ちなみに、この作品は再来月、竹邉出版とオフィス光風が共同で立ち上げる新レーベルで出版する予定です」

 とても上機嫌の竹邉くん。

 原稿を撫でながら、「もちろん、小説の中の実名は別の名前に置き換えますが」と、苦笑いを見せつつもとても嬉しそうです。

 竹邉くんが言うとおり、萩生くんは本当に素敵な青年。

 実は、私の孫娘と結婚してくれないかと思っていたほどで。

 しかし、竹邉くんは初めて愛加里さんから萩生くんのことを聞いたとき、やはり少々心配だったようです。

 再婚の愛加里さんを本当に心から大切にしてくれるだろうか……、愛加里さんの心の中に今も生きている亡くなった彼のことを正しく理解してくれるだろうか……と。

「そういえば、今日は奏さんは一緒じゃないんですね」

「あー、なんか高校時代の親友たちに会いに行ってましてね? あ、この小説の中に登場する、『光風の伝言』時代の友人たちですよ」

「そうですか。あ、もしかして、あの『光風の伝言』という小説も実際にあるのですか?」

「ありますよ? 愛加里の作です。ご覧になりたいなら愛加里に話しておきましょう……っと、ちょうどその愛加里からメッセージが。ああ、どうやら、ふたりは地下鉄を降りたようですね」

「間もなくですね。楽しみです。ところで、この小説、どのあたりまでが事実なのですか?」

「さぁ……。確かに、社長室で似たようなことはありましたが、もっとずっと穏便でしたよ?」

「そうなのですね」

 さらに苦笑いになった竹邉くん。

 私が差し出した『ぬくもり』へ手を差し出しながら、まるで独り言のように言葉を続けました。

「……まぁ、これは『私小説』ですからね。『私小説』と言えば、マスターは太宰治の『富嶽百景』をご存知ですか? ラストの、旅行者の女性たちから富士山を背景にしてカメラのシャッターを切って欲しいと頼まれるシーン」

「ああ……、小気味良い、とてもいいラストですよね。太宰がシャッターを切る際、背景の富士山を主役にして女性たちをフレームから外すんでしたっけ」

「はい。でもあれ、事実は違うそうですよ? 後年、あの小説に登場したというふたりが語ったそうです。『先生は私たちを「追放した」と書いておられましたが、本当はちゃんと私どもも写真に収まっておりました』……と」

「そうだったのですか。それは知りませんでした」

「まぁ、『私小説』とはそうしたものです。なので……、このふたりの物語も、きっと――」

 そう竹邉くんが言いかけたとき、カランコロンと聞き慣れたドアベルがカウンターの私たちへ届きました。

 ハッとその音へ目を向けると、そこで覗いていたのは……・。

「ああ、いらっしゃい。おふたりお揃いで、遠路はるばるよくお出でくださいましたね」

「お久しぶりです、マスター。お父さんも」

「マスター、ご無沙汰です。うわ、お父さん、それ、ワタルくんの原稿? 出版前のを見せちゃったの?」

 父に駆け寄る愛加里さん。

 そして、その後ろ姿を実に愛おしそうに見つめる萩生くん。

 竹邉くんが、ニヤリと口角を上げます。

「いいじゃないか。マスターは小説に登場する関係者だぞ?」

「もーう、せめてキャラクター名を変更してからにしてよ。もろにあたしとワタルくんの名前が出ちゃってるんだから」

 久しぶりの親子の対面。

 実に、微笑ましいものです。

 私はその光景を眺めながらカウンターを出て、それから窓際の席に置いていた『予約席』のプレートを手に取りました。

「さぁ、萩生くん、愛加里さん、いつもの席を取っておきましたよ? どうぞ?」

 そう言って私が手を向けると、ふたりはおもむろに席へと近づき、そしてゆっくりと向かい合って腰を下ろしました。

「お父さん、一緒に座らない?」

「いや、さすがの私もそんな無粋なことはしないぞ? せっかくだから、しばらくふたりであの頃の雰囲気を味わったらいい」

「そう? それじゃ……、わっ、わっ」

 その瞬間、父の言葉に笑みを返した愛加里さんの手が、バッグを肩から下ろそうとして盛大にナプキン立てを倒しました。

 苦笑いの萩生くんが、すぐにナプキンを拾いながら愛加里さんの顔を覗き見上げます。

「あはは。久しぶりに見たね。愛加里さんのナプキン倒し」

「ふーんだ」

 肩をすぼめた愛加里さん。

 どうやら、あの頃と少しも変わっていない素敵なふたりのようです。

「さて、ご注文は何になさいますか?」

 私は、その微笑ましいふたりにこれ以上ない笑みを向けました。

 一瞬、きょとんとしたふたり。

 そして、その見つめ合った瞳が、じわりと細められた目の中で笑います。

「マスター、あたしたちにそんなこと聞きます?」

 そうでしたね。

 おふたりなら、仰せつかる注文はあれしかありません。

 彼が書いたこの物語のラストも同じでした。

 再び、その思いが湧き上がります。

 あの小説……、どのあたりまでが本当のことなのか……。

 しかし、それを口にするのはあまりにも無粋でしょう。

 きっと……、本当はこの物語よりも、ずっとずっと素敵なことがあったのだと思います。

 でも、それはふたりだけの秘密。

 これを読んでいる読者の皆さんも、そう思ってそっとしておいてくださいね。

 そう私が自己完結していると、彼は彼女へ向けていた慈愛の瞳をゆっくりとこちらへ向けて、それから満面の笑みと共にその言葉を私へ投げたのです。

「いつものを、ふたつお願いします。僕たちの想いを繋いでくれた、あの、『ぬくもり』……を」


          おしまい

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ぬくもりは珈琲色 ‐物書きは嘘つきのはじまり‐ 聖いつき @studiotateiwa

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