5-4  その物書きがくれた誰よりも優しい嘘

「お願いします。読んでください。これは……、僕の最後の作品です」

 昼下がりの社長室。

 静まり返ったその部屋で、応接セット越しに僕は社長席に座る魔王に厳然と瞳を向けた。

 中央の応接テーブルに置いた短編小説の原稿が、エアコンのルーバーが向くたびに少しだけゆらりとしている。

 正面に、真っ直ぐに捉えた社長。

 僕はもう一度、深く頭を下げた。

「お願いします」

 背後では、僕のパーティーの面々がじっと声を潜めている。

「ふん」

 嘆息とも舌打ちともつかないその息。

 それが届いたのと同時に、社長席の重鎮がそっと手を差し出した。

「分かった。よこせ」

 僕はぐっと背筋を伸ばし、それから「はい」と小さく返事をして、テーブルの上の原稿を取り上げてじわりと社長席へ歩み寄った。

 近づく、魔王。

 その席に正対して、おもむろに差し出した原稿。

 社長は、しなやかにそれを受け取りつつ、僕を見上げて口角を歪ませた。

「文量は?」

「二万字強です」

「三〇分くらいはかかるな。立って居られたら気が散る。そこに腰掛けて待っていろ。みんなもだ。高溝先生、座ってください」

 僕越しに、社長が少し身を傾けて応接セットの背後の面々に掛けた声。

 高溝先生はふわりと頬を緩めた。

 奏さんは、やれやれといった顔で座り、母さんにその隣の席に座れと手を向けている。

 鬼泪山と湊さんも、いつもの騒がしさはどこへやら、なんとも行儀よく高溝先生に続いて腰を下ろした。

「何をしている。キミも座るんだ。愛加里も」

 立ち尽くす僕と愛加里さんを促した社長。

 背後で愛加里さんの「はい」という声がした。

「相川!」

 続けて響いた、社長のやや厳しい音吐。

 その声に、部屋の隅で小さくなっていた相川編集チーフが勢いよく背筋を伸ばす。

「はっ、はいっ!」

「気を利かせないか。客人らに飲み物を出せ」

「はいっ。すぐ秘書係に言いますっ」

「違うっ」

 ドンと叩かれた机。

 皆がハッと顔を上げる。

 その音に肩をすくめて立ち止まった編集チーフが、頬を強張らせながらじわりと振り返った。

「……えっと、何が……違うのでしょう」

「私はお前にやれと言った。聞こえなかったのか?」

「私が……、お茶出し……を?」

「他に誰がやるんだ。山本、お前も手伝ってやれ」

 ニコニコ顔で「アイアイサー」と小さく返事をしたはじめさん。

 相川はまだ、振り返ったまま口をわなわなとさせて立ち止まっている。

 社長がコツコツと机に指を立てた。

「なんだ? その顔は。お前、何を思ってここへ駆け込んで来たのか知らんが、彼らは私の大事な客人だぞ? お前にそこに残っていろと言ったのは給仕をさせるためだ。さっさとやれっ!」

「はっ、はいっ!」

 涙目のチーフ。

 ドドンと扉が開かれ、その姿が秘書室へと消えた。

 そのあとを、ケラケラと笑う創さんが追う。

 呆気にとられた面々。

 ハッと社長席へ瞳を戻すと、社長は傍らの老眼鏡を鼻に乗せながら、上目を向けて小さく「座りなさい」と僕に手を向けていた。

 もう一度、会釈をする。

 そして、社長が原稿の表紙をゆっくりとめくったのを確かめて、僕も愛加里さんの隣に静かに腰を下ろした。

 静寂の中に、かすかに聞こえる秒針の音。

 程なくして、秘書室から出て来た仏頂面の相川給仕が僕らの面前にコーヒーを置き始めた。

 それに、なんとも楽しそうな山本給仕がミルクとシュガーを携えて続いている。

 社長はじっと原稿に瞳を落としていた。

 そのとき、突然、愛加里さんがハッと僕の顔を見た。

 どうしたのかと思って目をやると、その唇が小さく動く。

「ワタルくん……、このコーヒーって……」

 眼前に置かれた、真っ白なエスプレッソカップが湛える、なんの変哲もないコーヒー。

 しかし僕はすぐに、その平凡なコーヒーの非凡性に気がついた。

 ゆらりとした、覚えのある豊かな香り。

 これは……、『ぬくもり』だ。

 あの、夕暮れの『アルフヘイム』で……、朝焼けの僕の部屋で……、そして、愛加里さんの部屋の朝日のシャワーの中で僕を癒してくれた、あの『ぬくもり』。

 どうして、これがここにあるのだろう。

 まさか、社長も『アルフヘイム』を知っているのだろうか。

 すぐに奏さんへ目を向けた。

 しかし、奏さんは紅茶やコーヒーの味にけっこう敏感なはずなのに、これに気がついていないのか何事も無いような涼しい顔のままでいる。

 次の出番までの待機だろうか、給仕を仰せつかったふたりは音もなく再び秘書室へと戻った。

 過ぎていく、静寂。

 そして……、それがずいぶんと馴染んで、僕らのカップから『ぬくもり』が消え、さらに、漂っていた豊かな香りも次第に霧消して感じられなくなった、そのとき。

「ふん……、よくできた嘘だ」

 原稿の表紙がバサリと閉じられたのと同時に、じわりと上がったその目。

 社長はそれを真っ直ぐに僕へ向けて、それから片手で原稿を取り上げると、ひょいと僕へ差し出した。

 すぐに立ち上がり、受け取る。

「僕の気持ちを、分かっていただけたでしょうか」

「いや、分かったのはキミがそれなりに文才があるということくらいだ。その筆致なら十分に作家として活動していける。それなのに、キミは大賞を辞退して執筆活動をやめるというのか?」

「はい」

「嘘だな。愛加里を連れて故郷に帰ったあと、どうせキミは元大賞受賞者であることを吹聴して、作家活動を再開するに違いない。これは単なる取り繕いだ」

 背後で愛加里さんが立ち上がったのが分かった。

 そして、その手がそっと僕の後ろ肘に添えられると、さらに他の面々も立ち上がって僕の後ろ盾となった。

 高溝先生が一歩前に出る。

「竹邉くん、萩生くんは本気だと思うぞ? そして、愛加里さんが亡くなった彼の遺志を継いで物書きになるという夢を叶えるために、全身全霊を捧げるつもりなんだ。そう、その作品に書いてあっただろう?」

「高溝先生、この作品が彼の決意表明であることは疑いません。しかし、この作品には偽善が溢れています。彼は、未亡人である愛加里を憐れむ己を自画自賛しているに過ぎません」

「それは、あまりに偏った取り方ではないかね?」

「そういう読者も居るということです。愛加里にはもう、物書きの世界と縁を切るように命じました。彼の偽善に付き合わせるつもりはありません」

 偽善か。

 確かに、そう受け取る読者も居るだろう。

 物書きは嘘つきだ。

 その嘘は、ときに本質を包み込んで取り繕い、読者を物書きの偽善に埋没させる。

 物書きの世界との決別。

 僕は、まったく構わない。

 彼女を幸せにできるのなら……、彼女の夢を叶えられるのなら、僕はもう二度と小説が書けなくなっても構わない。

 しかし、愛加里さんが彼を想う気持ちは、何よりも大切にしてあげたい。 

 それが偽善だと……、僕自身の評価を上げるための狡猾な腹案だと言うのなら、勝手にそう思っていればいい。

「愛加里……」

 僕を捉えていた社長の瞳が、ゆっくりと僕越しの彼女へと流れた。

 ぎゅっと僕の後ろ肘に添えられた手が強張り、それから小さく息が漏れた。

「はい……」

「その男が物書きである以上、再婚は許さん。お前は、物書きとは無縁の世界で生きろ」

「お……、お父さん……、あたしは……」

 絞り出された声。

 僕はそっと後ろ肘のその手を撫でて、それから大きく息を吸った。

 真っ直ぐにその父の瞳を捉える。

「僕は……、僕はいくら夢を捨てても構いません。しかし……、お願いします。彼女の夢を……、亡くなった彼への想いを、奪わないでください。愛加里さんは――」

「黙れ。お前の偽善に付き合っていては愛加里は幸せになれない」

「偽善と思われても結構です。必ず愛加里さんを幸せにして、来るいつか、それが違うということを証明します」

「いいか? 愛加里も聞け。お前が本当に偽善の物書きをやめて、そして愛加里が死んだ彼のことを忘れて物書きになる夢を諦めると誓うなら……、そうしたら、一緒になることを許してやる」

 ハッとした愛加里さん。

 同時に、ずっと後ろで湊さんの声が響いた。

「偽善? 萩生先生の想いが偽善なわけないじゃないっ」

 ガタゴトと揺れた応接テーブル。

 振り返ると、今にもこちらへ飛びかかってきそうな湊さんを鬼泪山が必死で押さえていた。

 高溝先生と母さんも湊さんの腕を掴んであたふたしている。

 奏さんは、しっとりと立ったまま、腕組みをして目を閉じていた。

 社長席前の向かい合った無言。

 社長は、肘をついた両手に顎を乗せて僕を睨みつけている。

 僕は、真っ直ぐにその瞳を見下ろしていた。

 愛加里さんは、下を向いている。

 小さく聞こえた、愛加里さんの声。

「物書きになる夢を諦めるなら……、ワタルくんと一緒になることを許してくれるって……こと? それなら……、それなら、あたし――」

「愛加里くん、それはダメだ」

 響いた、温かな男声。

 見ると、鬼泪山に湊さんを託しながら、高溝先生がじわりとこちらへ歩みを進めていた。

 ゆっくりと、先生が愛加里さんに並ぶ。

「キミは、父の呪縛から解き放たれた未来を……、亡くなった彼の遺志を継いで想いのままに書き綴る人生を……、ずっと求めて来たんじゃないのかい?」

「高溝先生……」

「なぁ、竹邉くん、もう愛加里くんは立派な大人だぞ? 彼女が選ぶ人生を祝福してやろうじゃないか。萩生くんの想いが偽善だというのなら、どうだね、その偽善に騙されてみては」

 目を伏せた社長。

 高溝先生は、さらに僕の横にまで来て社長席のデスクを見下ろした。

「そうだ、竹邉くんはこの一節を知っているかね? 『表面を作る者を世人は偽善者という。偽善者でも何でもよい。表面を作るという事は内部を改良する一種の方法である』……」

「ふん……、漱石ですな」

「けっこう好いている文でね。この一節のとおり、嘘でも、偽善でも、それによって呼び起こされた人の心は……、間違いなく『本物』だ。物書きの嘘を紐解いて、笑い、泣き、怒り、そして悲しむその感情は、作者が読者の心に創造した『本物』以外の何物でも無い」

「高溝先生……、私は、そんなことは百も承知しています」

「それなら、いいじゃないか。物書きである萩生くんの『優しい嘘』が愛加里くんの中に『本物』を芽生えさせ、その『本物』を愛加里くんがさらに『優しい嘘』で連綿と書き綴って多くの人々に伝えていく……、素晴らしいことだと思わないかね?」

 やや腰を落として、まるで小さな子供に問いかけるかのように竹邉社長を覗き見上げた高溝先生。

 社長は押し黙っている。

 それまで僕の後ろ肘に触れていた愛加里さんの手が、ゆっくりと僕の手を握った。

 僕もそっと握り返す。

 そのとき、母さんが奏さんに小さく声を漏らした。

「奏ちゃん、もう無理なんじゃない? 代わりに言おうか?」

「はぁ……、お節介オバサンは黙ってなさい?」

「ううぅ、お節介、好きなのよぉ」

 母さんの返しにさらに深い溜息をついた奏さんが、腕組みを解きながらおもむろに口を開いた。

「竹邉先輩……、これ以上は無理ね。元々、この子たちの結婚は認めるつもりなんでしょ? どうせなら、彼が物書きで居ることも、愛加里さんがこれからも物書きの世界に身を置くことも、諦めて認めてあげたら?」

「野元……、お前、裏切るのか?」

「裏切るだなんて、人聞きが悪いわね。先輩がずいぶん無理してそうだから、助け船を出してあげているのよ?」

 奏さんが……、裏切る?

 いったい、なんのことだろう。

 ゆっくりとハイバックチェアが横を向き、竹邉社長がその大きな背中をぎゅっと背もたれに預けた。

 小さく聞こえた、社長の溜息。

「どうせ、先輩が一番の嘘つきなんだから、もう正直に白状なさい? ぜんぶ、亡くなった彼との約束だって」

「これだから、お前だけ最初にひとりで入室させようと思ったのに。だいたい、一番の嘘つきはお前だろう。愛加里を騙していたのと変らんじゃないか」

「そう? 私はただ、先輩がふたりの結婚を認めるように手助けして来ただけよ? 彼女の再婚相手が物書きだろうがそうでなかろうが、彼女が幸せになってくれれば私にはどうでもいい事だもの」

 彼との約束? 

 思わず、奏さんを見た。

 愛加里さんも、大きくしたその愛らしい瞳を奏さんへ向けている。

 やや震えている、愛加里さんの唇。

「えっと……、奏さん、彼との約束って……」

「そうね。どう話したら一番あなたが傷つかないかしら……。あなたを物書きの世界から遠ざけて欲しいっていうのは、亡くなった彼の遺志……。彼が、あなたのお父さんに頼んだの」

「……え?」

「実はね? あなたのお父さんは、彼が亡くなる寸前まで何度も何度も病院を訪れて、『頑張れ、頑張れ』って、ずっと励ましていたのよ」

 ハッとした。

 ハイバックチェアは、いよいよその背をこちらへ向けている。

「彼……、あなたが物書きの世界と決別すること……、つまり、自分のことを忘れて新たな人生を歩んでくれることを……、望んでいたらしいわ」

 さらにぎゅっと力がこもった、愛加里さんの手。

 その瞳は、ゆらりと足元へ泳いでいる。

「彼は最後の最後で、自分に向けられているあなたの想いが、自分が亡くなった後にずっとあなたを縛り付けてしまうかもしれないって、そう思ったのね。だから――」

 すっと、愛加里さんの頬を美しい雫が伝う。

「――だから、彼は何度も何度もお父さんに謝って、そして、『愛加里さんには、自分のことを忘れて、幸せになって欲しい。二度と、夢を追う物書きなんて好きにならないようにして欲しい』って……、そう願ったの」

 やや遠くを見つめるように、奏さんの瞳が社長席の背中へと向く。

「あなたのお父さん……、その彼の遺志を尊重して、あなたに物書きをやめるようにって、ずっと言い続けてたのよ」

 ハッとした愛加里さん。

「でも……、それじゃ……、お父さんがワタルくんの『ぬくもりは珈琲色』を酷評したのは……、あれも……、あれも彼の想いを受けてやったことだっていうの……?」

 じわりと上がった、愛加里さんの瞳。

 その瞳に湛えられた雫はそのままに、怒りとも悲しみともつかない震えが彼女の小さな丸い肩を揺らした。

「もしそうだとしたら……、あたし……、あたし……」

 するりと僕から離れた彼女の手。

 まっすぐに落ちた両腕の先で、その拳が震えている。

 そのとき、ハイバックチェアがゆっくりとこちらを向いた。

「酷評? この前、野元も同じようなことを言ったな。どういうことだ? 私が竹邉のレーベルから出した書籍を酷評などするものか」

 ふと見ると、秘書室の扉から相川がすごい顔をしてこちらを見ている。

 そうか、やはりアイツが……。

 そのとき、社長の手がゆっくりとデスクの引出しを開けた。

 小さな溜息を伴いながら、その手が一冊の本をそっとデスクの上に置く。


『ぬくもりは珈琲色  いしずえ翔』


 ハッとした。

 おもわず背筋が伸びた。

 同時に、背後で一斉に漏れた驚嘆の息。

 愛加里さんも「えっ?」と顔を上げた。

「お父さん……?」

「お前たちは、この本のことを言っているのだろう? この作者の『いしずえ翔』は、私の大学の後輩だ。文芸サークル、『夏目坂文芸会』の後輩で、私と同じく『アルフヘイム』の常連でもある。私も……、小説を書いていたから分かる。こいつはずいぶんと才能のある作家だ」

「お父さん……も、小説を……書いていた……?」

「愛加里、お前が愛した男はこの物語に勇気づけられ……、そして、この主人公のようにいつか嘘偽りの無い『本当の自分』になってお前を幸せにしたい……と、そう言っていた」

 なにかを言いたげに、小さく震えた彼女の唇。

 それが再び苦悶の面相の中に吸い込まれると、それから、音もなくその頬からひと粒の雫がカーペットへ落ちた。

 もう一度、ゆっくりと横を向いたハイバックチェア。

「一生懸命で、いいヤツだった。本当にお前のことを大切に思ってくれていた。しかし……、彼は思ったんだ。自分が……、夢を追っていた『物書き』の自分が、これからもずっとお前の中に生き続けたら……、おそらく、お前は幸せになれないだろう……と。だから……」

「あ……、ああ……」

 小さな嗚咽とともに、突然、崩れ落ちた愛加里さん。

 僕は思わず片膝をついて、その肩を抱いた。

 続いて、社長室いっぱいに響いた、彼女の号泣。

 僕は、そっとその背に手を当てて、それからもう一度、社長席へ瞳を向けた。

 すぐに、重鎮の瞳がじわりと僕を捉える。

「このことは、一生、話すつもりはなかったんだがな。まさか、この物語を紡いだ本人が愛加里を助けに来るとは思わなかった」

 すっくと立ちあがり、そしてきりりと佇まいを正した。

「僕は……、愛加里さんと結婚します」

 デスクの向こうで、小さく漏れた嘆息。

「勝手にしろ」

 溜息とともに顔をそむけた社長。

 しかし、その口角はやや上がっているように見えた。

 窓の外は、柔らかな春陽に温められた大都会。

 いつもなら無味に見えるその立ち並ぶビル群が、なぜかこぞって僕らに声援を送ってくれているように感じた。

 春は、もうすぐそこ。

 僕は、そっと愛加里さんを抱き起こし、それからその濡れた瞳を覗き見上げて、微塵の嘘も無い微笑みをめいっぱい彼女へと投げたんだ。

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