5-3  ラストダンジョン

「愛加里さん……、怖い?」

「え? えっと……、ちょっとだけ」

 交差点の先に左側から近寄ってくる首都高速が見えたとき、僕は愛加里さんの顔を覗き見上げた。

 高溝先生が運転する車に揺られつつ、やや焦点の合わない瞳で僕に応えた彼女。

 その手は、小さく震えている。

 彼女にとって、父親は幼少から常に眼前に立ち塞がってきた巨壁であるに違いない。

 頭では分かっている。

 その意に背いたとしても、粗暴な仕打ちを受けるはずはなく、命を脅かされることもないはずだ。

 さらに言えば、愛加里さんは成人であり、社会的にその意のままに生きる権利を認められた健全な個人であるのだから、父の意など無視して僕と共に東京を去ることも十分に可能だ。

 ただし、それは彼女が父の呪縛を己の力で断ち切り、そしてそのトラウマを霧消させるほどの強い意思を堅持できたときに限られる。

 ところが……、それは非常に困難だ。

 幼少のころから植え付けられた潜在的な概念は、そう易々とは覆せない。

 しかも、今度は二度目の反旗だ。

 一度目の反旗は、彼女が愛した彼がこの世から去ったことによって、父という壁をいよいよ巨大なものにしてしまった。

 かつて……、不承不承ながらも、娘の幸せを約した彼を認めた父。

 しかし、彼は志半ばにして死し、そしてそれは筆舌に尽くしがたい裏切りの仕打ちとして父に届いた。

 彼女は、その父に再び反旗を翻そうとしている。

 それは、トラウマの克服などという生易しいものではないだろう。

「あっ、おじいちゃま、あそこでしょ? 竹邉書房の本社ビル」

「そうだね。おじいちゃん、車で来るのは久しぶりだよ」

「こら、桃香、運転席に乗り出すんじゃねぇ。危ねぇだろうが」

「キナちゃん! ほら、あっち見てっ! クレープ屋さんがあるっ! 後で行こっ?」

 助手席からフィーリアス船頭の舵に手を伸ばした、魔法使いのソフィア。

 そして、それを直後の中列に座る剣士のジャンパオロが制している。

 剣士の横には、双子の女神。

 その女神たちが、最後列の僕らへと瞳を向けた。

「愛加里さん? 魔王に何を言われても毅然と意思を通すのよ? いいかしら?」

「そうよー? おばちゃんたち応援するからねー?」

「育子? あなたと私を『おばちゃん』でひと括りにするのはやめてもらえないかしら。私は未婚なのだから『お姉さん』と呼ばれるのが正しいわ」

「うわ、奏ちゃん、あまりに厚かましすぎて笑っちゃう。あはは」

 戦いへ向かう船中は、すこぶる賑やかだ。

 みんな、愛加里さんを気遣ってくれている。

 狭い一方通行路が終わり、開けた通りに現れたのは、そびえ立つ魔王の居城。

 竹邉書房本社ビル。

「さて、もうすぐ降りるよ?」

 そう言って高溝先生が建物の奥の細い通路へと車を進入させると、そこには通りから見えない関係者専用の駐車場があった。

 やや薄暗いその中でスライドドアが開き、おもむろに地に足を着けた中列の三人。

 降りた鬼泪山がシートを倒しながら愛加里さんに「どうぞ」と手を向け、直後に僕へ「さっさと降りろ」と顎をしゃくった。

 見回すと、駐車場に車は二台だけ。

 そして、ぞろぞろとエントランス裏の鉄扉を目指してみんなで歩き出した、そのとき。

「あ? 愛加里くん?」

 きょとんとして振り返った愛加里さん。

 なんだと思って背後へ目をやると、そこには狡猾な口元をぐにゃりと歪ませた、ヤツの姿が……。

「え? うわ、相川さん」

「は? なんだ? 塾講師かっ? お前、こんなところで何してるんだっ?」

 突然、怒号を発した編集チーフ。

 僕はスーツの襟を両手でぎゅっと引き、同時に思い切り胸を張った。

「なんだっていいでしょう? あなたに関係ありません」

「はぁ? ああ、アレだろ。お前、大賞作品の書籍化の話合いに来たんだな? ふん、お前みたいなのが大賞だなんて、選んだ審査員たちはどうかしてるぜ」

「どうせあなたは読んでないんでしょう? 読みもしないで決め付けないでもらえますか? 審査員のみなさんからは、特別賞だった愛加里さんの作品と併せて、とても良かったとお褒めの言葉をたくさんいただきました」

「おめでたいな。だいたい、審査委員長からして門外漢だったじゃないか。古臭いミステリーばっかり書いているヤツに、新進気鋭のヒューマンドラマの良し悪しが分かるわけがない。お前の作品なんて、出版されたら最後、一般読者から辛辣な感想がわんさと届くだろうよ」

 見ると、愛加里さんがぎゅっと肩を上げて体を震わせている。

 僕は、そっとその背中に手を当てた。

「愛加里さん、こんなヤツと言い争っても時間の無駄だ。行こう?」

 そう言って僕が彼女の手を引くと、突然、相川が大股でこちらを目掛けて突進し始めた。

「こら、待て。愛加里くんは話合いに関係ないだろ。愛加里くん、俺、今月末から竹邉に戻るんだ。いまからその辞令を貰いにいくところなんだが、そのあと、ちょっとその辺で一緒にお茶しないか?」

 響く靴音。

 同時に、両側からぬっと影が出た。

 見ると、そこに立ちはだかったのは、剣士鬼泪山と魔法使い桃香。

「おーっと、ちょっと待てぇ。お前、俺の師匠をディスりやがったなぁ?」

「ちょっとぉ、おじいちゃまが古臭いミステリーばっかり書いてるって、どういうことよぉ」

「なんだ? うわ、お前、高溝の孫かっ。ディスってなんかないぞ? 事実を言ったまでだ」

 思わず、ハッと鉄扉のほうを見た。

 奏さんと母さんの向こう。

 一番先頭の大柄の紳士は、ドアノブに手を掛けたままじっとしている。

「ふん。学生時代から竹邉社長を可愛がってたっていうんで、いまでもデカい顔してここに来られるけどなぁ、俺が役員になったら顔パスなんてできなくしてやるからな」

 じわりと、振り返った御大。

 相川はそれに気づく様子もなく、鬼泪山と湊さんに食ってかかっている。

 ニヤリとした奏さんと母さん。

 ふたりがすっと両脇に避けると、高溝先生がゆっくりと僕たちの横を通り過ぎた。

 そして、並んで立つ鬼泪山と湊さんの肩にその手がかかる。

「どうしたんだい? お友達かい?」

 ハッとした相川。

 同時に、ふたりの顔の間からなんとも優しい声音が響いた。

「あー、おやおや、キミは昨日レセプション会場で会った、竹邉くんの側近のひとりだね?」

「え? あっ、ええ? た、高溝先生っ? どうしてここにっ」

「キミ、やっと竹邉に戻れるのか。意外に早かったねぇ。とりあえずおめでとう。いまから辞令を貰いに行くらしいね。そのあと竹邉くんのところへ挨拶に行くんだろう?」

「え? えっと、いえ、来客とお会いになるとかで……時間は無い……と」

 ニヤリとした高溝先生。

 相川がゴクリと喉を鳴らす。

「ああ、そうか。僕らが竹邉くんの時間を少々貰ってしまったからねぇ。しかし、キミも竹邉くんに会いたいだろうし……、そうだ! キミ、よかったら今から我々を社長室へ案内してくれないかい? 古臭いミステリーばかり書いているから、社長室の場所を忘れてしまってねぇ」

 ぶるっと震えた相川の肩。

 それから、その瞳がゆっくりと僕らの顔を見渡すと、いよいよわなわなと震え出した唇からひっくり返った声が漏れた。

「いっ、いえっ、私は一緒には……、しゃっ、社長室の場所はっ、一階の受付で尋ねてくださいっ。私は用件がありますのでっ。ではっ」

 突然、「しっ、失礼しますっ」と前屈みで駆け出した相川。

 その肩が鬼泪山にぶつかり、湊さんが「ちょっと待ちなさいよっ!」と声をあげる。

 高溝先生は満面の笑みだ。

 ひょいと避けた僕を舌打ちと共にジロリと睨むと、相川はさらに奏さんにもぶつかりながら鉄扉へ駆け寄った。

 激しく開け放たれた扉。

 直後、その向こうに駆けてゆく革靴の音が響いた。

 一瞬の静寂。

 そして、小さく鳴った鉄扉が閉まる音。

 振り返ると、高溝先生は鬼泪山と湊さんの肩を抱き寄せて、いまにも吹き出しそうな顔を僕らへ向けていた。

「さあ、みんな。出発だ。社長室は最上階。その扉を右に行くとエレベーターがあるよ?」

 ついに、ラストダンジョンだ。

 魔王は最上階で僕らを待っている。

 鉄扉を越えると、そこは清楚で明るい空間。

 先頭を行く高溝先生は、エントランスの受付女性に軽く手を挙げると、それから僕と愛加里さんに最初にエレベーターに乗るよう促した。

 愛加里さんとふたり、みんなに守られるようにして奥へと進む。

 続けて、剣士と魔法使い、そしてベテラン船頭が乗り込むと、最後に船頭同様に受付女性に小さく手を挙げた黒髪の女神が、もうひとりの小柄な女神の背中を押しながら乗り込んだ。

 魔王の居城の門を開け、その玉座へと我々を導く女神。

 エレベーターが上昇し始めると、程なく、僕の腕がぎゅっと引き寄せられた。

 見ると、愛加里さんが僕の腕にしがみついてじわりと見上げている。

「えっと……、でも、本当にいいの? せっかく大賞を獲ったのに、こんなことしたら……」

「大丈夫。愛加里さんは何も心配しなくていい。それに、それは僕のことじゃない。『いしずえ翔』の話だ」

 きょとんとした愛加里さん。

 僕は、そっとその額に笑みを湛えた頬を寄せた。

「いまの僕は……、『いしずえ翔』じゃない。『萩生翔』だ」

 ゆらりとした、彼女の美しい瞳。

 そして、その頬がそっと僕の腕に触れると、その小さく上がった口角から「うん」という囁きが漏れた。

「着いたわ。降りるわよ」

 奏さんの合図。

 同時にエレベーターの扉が開いた。

 落ち着いた色合いのタイルカーペットの向こう、受付の女性がカウンターの中でサッと立ち上がる。

 奏さんが再び小さく手を挙げた。

「秘書さん、ご無沙汰。大変ね。ワンマン社長のご機嫌取りは」

「ご無沙汰してます、野元社長。竹邉社長は中でお待ちです……が……、その、野元社長以外は入れるなとの指示なのですが」

「あら、どうして私が友人らを連れて来たことを知っているのかしら」

 ニヤリと笑って振り返った奏さん。

 同じく母さんがニヤリと返す。

「そーねー。さっき駐車場で尻尾を巻いて逃げ出したザコモンスターが知らせに来たんじゃない? アイツも中に居るかもよ?」

「ほんと、陳腐なシナリオね。これが小説ならまったく売れないわ。秘書さん? 鍵を開けてちょうだい」

「のっ、野元社長以外の方も社長室に入るというのならっ、それはできませんっ」

 カウンターから身を乗り出して、僕らの前に両手を出した秘書さん。

 奏さんの声のトーンが一段下がる。

「セキュリティーを解除しなさい。ちゃんとあなたが叱られないようにするから」

「ダメですっ!」

 しっかりした秘書さんだ。

 出した両手を今度はバッと突き下ろして、竹邉の大先輩である奏さんに一矢報わんばかりの形相。

 なんと、こんな可愛い秘書さんが、ラスボス前の中ボスとは。

「竹邉社長の娘も一緒よ? 彼女の人生を決める大事な話なの。それでもダメかしら」

「では、娘さんを一緒に入れていいかどうか、社長に伺いますっ」

 そう言って秘書さんが内線電話に手を伸ばしたとき、階段のほうから突然、援軍が……。

「おー、みなさん、もうお揃いなんですねぇ」

 みんなで一斉に声のほうへ振り向いた。

 するとそこには、あのニコニコ顔の『はじめさん』。

「高溝先生、加勢に来ましたっ。十四時って言うからちょっと早めにデスクを離れて来たのに、もうお揃いとは。さて、セキュリティーは僕が解除しますから、どうぞみんなで社長室へ入ってください!」

 ギョッとした秘書さんが、たじろいで壁に背を付けた。

 構わずカウンターの中へと押し入った創さんが、秘書さんの首のIDカードを手繰り寄せ、強引にセンサーへとかざす。

「秘書くん、この埋め合わせは必ずするからね?」

「山本くん、済まないね。思ったとおり、やはりここで進めなくなってしまったよ。助かった」

「いーえー。では、扉は僕がお開けしましょう!」

 さらにニコニコ度が増した創さんが、目を丸くしている秘書さんの横をすり抜けて、社長室の扉の前に立った。

 その手がドアノブにかかる。

 いよいよ、魔王の玉座。

「愛加里さん、ワタルさん、しっかりね?」

 高溝先生の隣、扉の直前で母さんと一緒に振り返った奏さんが素敵な笑みをくれた。

 その後ろには、鬼泪山と湊さんが控えている。

 ゆっくりと、静かに開かれた、その扉。

 音もなく、そのずっと向こうの大きな窓から差し込む自然光が秘書カウンター前のタイルカーペットに伸びる。

 驚くほど広くはない、その部屋。

 手前にはダークブラウンの応接セットが客人を迎え、その向こうに品のいい幅広のデスクが鎮座している。

 さらにその背後と右面は、床から天井まで一面のガラス窓。

 右側の窓の奥には、新宿副都心の超高層。

 その悠々と立ち並ぶ姿の右手前には、僕の思い出のキャンパスも見え隠れしている。

 ハイバックチェアの社長席の真後ろは、ビル群に守られた皇居の緑。

 そして、その玉座では、見覚えのあるその顔が怪訝そうに皺を寄せていた。

「はぁ……、一体何人で押しかけて来たんだ。野元、約束はお前だけのはずだぞ?」

 竹邉社長だ。

「あら、私だけとはひと言も言っていないわ。話があると言っただけよ?」

「そうか? お前はいつもそうだな。愛加里と大賞受賞者……、はぁ、高溝先生までご一緒なんですか。愛加里……、これはどういうつもりだ?」

 そう問われて、愛加里さんがぎゅっと肩を強張らせた。

 言葉は出ない。

 まさに、蛇に睨まれた蛙。

 これほどまでに、彼女が我父に対して畏怖を感じているとは。

 見ると、部屋の隅っこに相川が突っ立っている。

 僕は、その姿を一瞥したあと、庇うように愛加里さんの前へ出た。

 すると、僕の前で最前線に陣取っていた奏さんが、ジトリと相川を睨みつける。

「竹邉先輩? あの男は一体何者? もしかしてアレを竹邉の重役にするつもりじゃないでしょうね」

「アレか? アイツは重役に適すかどうか様子を見ている、少々自信過剰な若造だ。実力はあるが人間性が乏しいので修行に出していたが……、トラブル続きでな。返品確定でやらせることがないので、とりあえず愛加里の所在調査を命じていたんだ」

「ずいぶん立派な人間性のようよ? 詳しくは高溝先生に聞いたらいいわ」

「それで? お前の用事というのはなんだ? こんな大挙して押しかけて」

 クスリと鼻を鳴らして、奏さんがゆっくりと腕を組む。

 正対した社長は、じわりと背もたれに体を預けた。

「愛加里さんのことよ? 彼の話……、聞いてあげてくれないかしら」

「どうして私が興味も無い話を聞かなければならないんだ? 特に物書きの話は嘘ばかりで聞くに耐えんというのに」

「そう? 残念だけど、今ここに居るのは全員が物書きよ? ミステリーの大御所、文学賞大賞受賞者、そして、エッセイストにホラー書きにラノベ書き……、あ……、高校の先生と編集者が混じっていたわね」

 てへっ、という顔をする母さん。

 さらにその後ろで創さんも、てへっ、としている。

 こんな場面でもまったく緊張する素振りが無いふたり。

 竹邉社長は呆れ顔だ。

「はぁ……、それで? その物書き集団が私に何を迫るんだ。そこの大賞受賞者の受賞作品を読めとでもいうのか?」

「そうね。あの大賞作品ではないけど、彼の話を聞いて、そして彼があなたのために書いた作品を読んで欲しいわ」

「ふん……、茶番だな」

 奏さんがゆっくりと振り返った。

「ワタルさん、原稿を」

「はい」

 促されて、僕は応接セット越しにその玉座へと臨む。

 ジトリと僕を捉えた、竹邉社長の瞳。

「昨日はありがとうございました。大変、心に残るレセプションでした」

「能書きはいい。本題を言え」

「はい。愛加里さんを幸せにするお許しをいただきに参りました」

「そうか。今の言葉とまったく同じことを言った嘘つきを、私は知っている」

「彼は、嘘つきではありません。その証拠に、その遺志が僕をここへ連れて来たんです。彼が居なければ、僕は愛加里さんと出会えませんでした」

「すでに愛加里には物書きとはまったく関係のない世界で生きるよう命じた。物書きである以上、お前も死んだあの男と同じだ。愛加里と同じ時を過ごすことは許さない」

「そう……言われるだろうと思っていました」

 僕は、小さく笑みを浮かべて、携えて来たカバンへおもむろに手を差し入れた。

「僕は、物書きとしては一度死んでいます。なので、物書きの僕がどうなろうと、もうどうでもいいんです」

「どういうことだ」

「大賞は……、返上します」

 真っ直ぐに上げた瞳。

 竹邉社長は、ゆっくりと眉根を寄せた。

「ワ……、ワタルくん、それはダメ」

 愛加里さんが、背後からぎゅっと僕の袖口を掴んだ。

 構わず続ける。

「ご存知かもしれませんが、僕は一度、この竹邉書房の『クラリス文庫』から作品を送り出していただきました。とある方の酷評を受けてその後は活動をやめてしまいましたが……、それでも、僕の夢は一度叶いました」

 カバンから取り出した原稿を、そっと応接テーブルの上に置く。

 そして、すぐ横で僕の腕にしがみついている愛加里さんに小さく微笑んで、それから僕はじわりと一歩下がった。

 社長はまだ眉根を寄せたままだ。

「でも、愛加里さんの夢は、まだ叶っていません。彼の夢を継いで……、彼が願った、素敵な物語で人々に希望を与えられる物書きになること……、それは、まだ叶っていないんです」

「ワタルくん……」

「僕は、愛加里さんの夢を叶えてあげたい。そして、誰よりも彼女を幸せにしてあげたい」

 ゆっくりと伏せられた、竹邉社長の瞳。

 僕はそっと振り返って、みんなの顔を見た。

「僕には、物書きとしての将来は必要ありません。必要なのは……、愛加里さんの笑顔だけです」

 見ると、愛加里さんが瞳いっぱいに美しい雫を湛えて、ゆらゆらと僕を見上げている。

「この短編には、どれほどに僕が彼女の夢を叶えてあげたいのか……、どれほどに彼女の中に今も生きている彼を彼女と一緒に大切にしていきたいと思っているのか……、それをすべて書き記しました」

 再び、真っ直ぐに捉えた社長席。

 僕は深々と頭を垂れて、それから毅然とその言葉を彼へ投げた。

「お願いします。読んでください。これは……、僕の最後の作品です」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る