5ー2 酒場に集った、歴戦の闘士たち
「愛加里さん……、僕と結婚してください」
僕の胸の中で、ずっと僕を見上げたままの愛加里さん。
その瞳は、この世のものとは思えないほどの美しい揺らめきを纏って、真っ直ぐに僕を見つめている。
向かい合った無言。
そして彼女は一瞬困った顔になって、それからその瞳をゆっくりと伏せた。
何も言わずに、彼女がもう一度僕の胸に顔を埋めると、しばらくして、その呟きが小さく聞こえた。
「たぶん……、彼は、分かってくれると思う……」
亡くなってしまった、『彼』。
きっと『彼』は、最後の瞬間まで愛加里さんを幸せにしたいと願っていたことだろう。
だからこそ、僕はその彼の想いもぜんぶ抱きしめて、愛加里さんを幸せにしたいんだ。
彼女の手が、ゆっくりと僕の背中へ回った。
「でも……、彼が分かってくれても……、やっぱり、お父さんが……」
ぎゅっと力が込められた、愛加里さんの腕。
僕は彼女をさらに抱き寄せて、それからその髪にそっと頬を寄せた。
「ねぇ、愛加里さん? あの作品……、僕のあの作品を読んでくれた?」
彼女の顔がすっと上がる。
「あの作品って……、大賞を獲った『僕が恋した図書館の幽霊』のこと?」
「うん。実はね? あの作品に登場するヒロインは愛加里さんなんだ」
ゆらりとした、彼女の瞳。
僕は小さく笑みを作って続けた。
「どうすることもできないハンディーキャップを持った……、そして実のお父さんから祝福されなかった……、僕が愛するヒロイン」
「ワタルくん……」
「そして、主人公の大学生は、僕……」
少し苦笑いしながら、彼女がゆっくりと体を起こす。
「そう……だったんだ……。あたし、読んだよ? とっても素敵だって思った。『竹邉』の一次選考の発表のあとすぐ、奏さんが航空券と一緒に原稿の写しをくれたの」
「そう? 僕の実家に行ってたんだってね。会場からの帰りに、母さんと奏さんから聞いた」
「お父さんが連れ戻しに来たら大変だからって……、奏さんとワタルくんのお母さんが心配してくれて」
どうも、母さんは僕の教職採用試験の合格発表があった直後から、ずっと愛加里さんにラブコールを送っていたらしい。
僕と一緒に地元へ来て欲しいって。
そして、母さんは愛加里さんの複雑な事情を知り、さらに奏さんとも知り合ったようだ。
まるで、気心知れた古い友人同士と見紛うような、母さんと奏さん。
しかしふたりは、出会ってまだ二か月くらいしか経っていないらしい。
だというのに、意気投合した彼女らはあっという間に『奏・育子共同戦線』を構築し、そして愛加里さんをお父さんの手から護ろうと、その手の届かない僕の実家で彼女を匿うことにしたんだそうだ。
なんたる結束力。
奏さんによれば、『ほんと、育子は
「あのお話……、ワタルくんの実家へ向かう飛行機の中で読んだの。そして……、ちょっと驚いた。あたしのあの『光風の伝言』にあんな続編が書けるなんて、本当にワタルくんはすごいって思った」
上がった、彼女の口角。
そして僕は、もう一度僕の胸に頬を寄せた彼女の小さな背中を、さらにしっかりと抱き寄せた。
「あの主人公の大学生が『すべてを超越する愛』を知ったのは、彼女に……、あのハンディーキャップを持ったヒロインに出会ったからだ。そして……、それは今の僕そのもの」
「うん。嬉しい……」
「だから僕は、あの作品に、キミが『光風の伝言』の中で描いた『共に歩まないことを選ぶ愛』じゃなくて、『共に力強く歩むことを選ぶ愛』を、敢えて描いた」
「ワタルくん、あたしは――」
「――愛加里さんが許してくれるなら、僕は彼のところへ挨拶に行きたい。……いいかな」
揺れる瞳。
彼女の唇が、僕の胸の中で小さく震えた。
「でも……、お父さんが……」
「僕は、愛加里さんのお父さんが、『物書きの嘘』が誰かを幸せにする『優しい嘘』だってちゃんと分かってくれるまで、何億字でも書くよ」
ゆっくり上がった、彼女の瞳。
放心気味に、ゆらゆらと僕を見つめている。
僕は再び小さく笑みを作って、それから彼女の頬をぎゅっと抱き寄せた。
「愛加里さん、パソコン、借りるよ?」
「え? ……うん」
僕は物書きだ。
僕が振りかざすことができる武器は、これしか無い。
愛加里さんが僕の胸から身を起こし、リビングテーブルの端に置かれていたノートパソコンをゆっくりと引き寄せた。
おもむろに、そのディスプレイを起こす。
かつて、なんの矜持も無くただ延々と書き綴っていた、『異世界』。
そこで出会った、個性豊かな四人の闘士たち。
フレッド、ソフィア、ジャンパオロ、そして船頭のフィーリアス。
彼らは、その世界の謎を解くべく、すべての艱難辛苦に毅然と立ち向かい、そして魔王の居城へと向かった。
次は、僕の番だ。
なぜ愛加里さんを呪縛するのか……、その謎を解き明かし、彼女に自由を取り戻す。
それこそ、勇者たる僕の使命だ。
「えっと……、どうするの?」
「小説を書くんだ。僕と、愛加里さんの物語。そしてそのたったひとりの読者は、高い塔のてっぺんで待ち構えている」
「まさか、お父さんに?」
「うん。僕たちのことを分かってもらうための魔法の書だ。朝までに仕上げるよ?」
ぽかんとする愛加里さん。
その愛らしい瞳が、ゆらゆらと僕を見つめている。
「でも……、お父さんにそれを読んでもらう機会なんて……」
「大丈夫。勇者の僕には力強い味方がたくさん居るからね」
ちょっと砕けた笑みを投げて、僕は傍らに投げ出していたスマートフォンを手に取った。
画面に触れる。
そして程なく、満面の笑みと分かるその澄んだ声音が僕に届いた。
『ワタルさん? 電話……、待っていたわ』
「奏さん、ありがとうございます。明日の昼、魔王の居城の扉を開けてもらえませんか?」
『ショウ! いつまで寝てやがんだ! さっさと扉を開けろ!』
おぼろげな意識を突然鮮明にした、振動するスマートフォン。
画面にあった鬼泪山の名前に溜息をついて応答すると、いきなりその怒号が飛んだ。
「……はぁ、なんだ? 朝っぱらから……。大きな声を出すな」
『今日、魔王の城に殴り込み掛けようってぇんだろ? 加勢に来てやったんだ。ありがたく思え! いいから早く開けろ!』
目を擦る。
部屋に愛加里さんは居ない。
見ると、ソファーに横になった僕のお腹の上には、柔らかな毛布が掛けられていた。
リビングテーブルには、ディスプレイが開かれたままの愛加里さんのパソコンが鎮座している。
『おい、聞いてんのかっ?』
再び聞こえた鬼泪山の声にハッとしてスマートフォンを耳に当てたとき、ちょうど玄関扉が開かれる音がした。
近づく足音。
「聞こえているよ。しかし、どうしてお前がそんなこと知っているんだ?」
『ふふん、剣豪さまはなんでもお見通しなんだ』
「はぁ……、ついに認めたな? 自分がジャンパオロだって」
そう返したのと同時に、その愛らしい顔がドアから覗く。
「ワタルくん、おはよう。ちょっとコンビニに行ってた。すぐ朝ご飯に……、あ、ごめん。電話中?」
「おはよう。大丈夫。鬼泪山だから」
苦笑いの愛加里さん。
続けて大きなコンビニ袋が僕の前を通り過ぎると、彼女の香りがふわりとした。
『とにかく、早くここを開けろ!』
「え? お前、いまどこに居るんだ?」
『はぁ? この声が聞こえねぇってぇのかっ? お前の部屋の真ん前だ!』
「聞こえないな。残念だが、僕はいま、愛加里さんの部屋だ」
『あー?』
キッチンで愛加里さんが振り返る。
思わずお互いに苦笑いを送り合うと、鬼泪山の声に重なって「きゃぁぁぁ!」という黄色い声が響いた。
これは……、湊さんだ。
鬼泪山にしがみついているのか、ガサゴソという雑音に混じって「いーな! いーな!」という声がしている。
『あああ、うるせぇ。桃香っ、静かにしてろっ! ショウ! とにかく加勢に行くからなっ! ふたりだけで行くなよっ? 「アルフヘイム」で待機してるぜぇっ!』
プツリと切れた通話。
ずいぶん威勢がいい。
鬼泪山からしてみれば、僕は相当に軟弱者なんだろう。
そのせいか、同じ歳だというのに、大学一年生のときに出会ってからずっと、ヤツはまるで僕を弟のように心配してくれている。
「あはは。鬼泪山くん、あたしと一緒に居るって聞いてびっくりしてた?」
「うん。まぁ、鬼泪山より湊さんのほうが……ね。ああ、パンを買って来てくれたんだ。ありがとう」
「この食パン、すごく美味しいの。コーヒー淹れるね」
程なく、ベーコンを焼く音と共に、リビングを包んだ落ち着いたコーヒーの香り。
いつもの、『ぬくもり』。
体を起こして、リビングテーブルのノートパソコンを端によけると、その向こうに夜明け前まで一心に綴っていた、新たな短編小説の印刷原稿が見えた。
見ると、字面に混じって朱書きがある。
「え? 愛加里さん、これ、校正してくれたの?」
「うん? ワタルくんが寝入ってからね。特に大きく修正するところは無かったよ? ちょっとしたユレくらい」
「ありがとう。起きたら自分でもう一度見直そうと思っていたんだ」
「でも……、それ、そのタイトルでいいの?」
A4横使いの、小説原稿。
一枚目の中央に、やや大きめのフォントで書いた、そのタイトル。
『ぬくもりは珈琲色 ‐物書きは嘘つきのはじまり‐』
それは、かつてたった一作だけ世に出た、僕の作品のタイトルだ。
そのタイトルをそのまま使い、新たな副題を付け加えた。
亡くなってしまった彼と、愛加里さんと僕の三人の絆……。
そしてその絆を通して、僕がどんなに愛加里さんのことを大切に想っているかを、一点の曇りも無い心で物語にした。
たった二万字程度の、他愛ない物語。
しかしこれが、唯一の伝家の宝刀だ。
「うん。たぶん、愛加里さんのお父さんは『いしずえ翔』の名前も、その作品名も覚えていないと思う。だから、思い出してもらうんだ。そして、僕が亡くなった彼に代わって愛加里さんを幸せにするって、そう訴える」
キッチンで小さく上がった、彼女の丸い肩。
すると、すぐにそれがゆっくりとこちらを向いて、トレイに乗ったふたつの銀のカップから香り立つ湯気がゆらりとした。
無言のまま、リビングテーブルへと運ばれる、ふたつのカップ。
膝をついて僕の前にそれを差し出した愛加里さんの瞳からは、美しい雫がいまにも溢れ出そうとしていた。
コトリと音を立てて、僕の前にカップが置かれる。
「ワタルくん……、あの『ぬくもりは珈琲色』のラストに登場するふたつ並んだ銀のカップ……、あれって『別れと成長の象徴』だったよね?」
「え? ……うん。同じサーバーから注ぎ分けられたあのコーヒーは、分かち合ったぬくもりを湛えたまま、それぞれの道へと歩み出す若いふたりの象徴だった」
「えっと……、じゃあ、今日のこのふたつのカップはあのシーンと同じだけど……、これは、あの物語とはまったく違うね」
「うん?」
「これは……、これは同じサーバーからもらった同じぬくもりを、これからずっとふたりで大切にしていくっていう……、その象徴」
じっと僕を見つめる、そのゆらめく瞳。
僕は、その瞳を柔らかに覗き見上げて、それから小さな笑みを作った。
「それが、愛加里さんのこれからの願い……ってこと?」
「ううん。これは単なる願いじゃない。これは――」
ふわりと、彼女の笑みが僕を包む。
「――これは、あたしの……、ワタルくんへの答え……」
「ワタルくん、メッセージが来たよ? 奏さんも鬼泪山くんたちと一緒に『アルフヘイム』に居るって。お母さんも」
「え? 母さんも一緒なの?」
地下鉄を降りて歩きながら見上げた、見慣れたキャンパスのビル。
来月の今ごろは、もうこの風景が思い出になっているはずだ。
そして、その僕の隣には、いまと変らず彼女に居て欲しい。
隣を歩く、愛加里さん。
僕の腕にかかる彼女の手は、足の遅い春よりもずっと温かい。
そっと開けた、いつもの扉。
「あ……、いらっしゃい。萩生さん、愛加里さん」
変わらない、カウンターの向こうのマスターの笑顔。
見ると、中央のボックス席にも、同じく変わらない面々の笑顔。
「よぉ、待ってたぜ? ショウ!」
「萩生先生っ! ご無沙汰してますっ!」
「ワタルさん、ふたりの気持ちがちゃんとひとつになってよかったわ。愛加里さん、お疲れさま」
「ワっタルー? 愛加里ちゃんと、ちゃんと仲直りしたぁ?」
振り返った四畳半フォークスタイルの鬼泪山の横で、きゅんと肩を上げた湊さん。
その向こうでは、まるで姉妹のように寄り添う、奏さんと母さん。
一瞬、呆気にとられたが、すぐに気を取り直して笑顔を投げた。
「鬼泪山、さっきはわざわざ部屋へ来てくれたのに悪かったな。湊さんも。あ、奏さん……、ふたりに連絡してくれたんですね。ありがとうございます。母さんもありがと。とても心強い応援――」
カウンターの前を通り過ぎつつボックス席へ近づくと、最後のひとりがゆっくりとこちらへ顔を向けた。
見知った、その顔。
「え? 高溝先生っ?」
「やぁ、いしずえ先生。僕も参戦させてもらうよ?」
言わずと知れた、ミステリーの大御所。
「わざわざ来てくださったんですか?」
「いやぁ、私が審査委員長を務めたコンテストの大賞と特別賞のビッグカップルだよ? 参戦しないわけにはいかないじゃないか。それに、あの頭の固い竹邉坊やのことは、ずいぶん昔から知っているしね」
ニヤリと口角を上げた高溝御大。
そのすぐ横で、元気のいいその孫娘が声を上げる。
「そうっ! わたしが誘ったのっ! おじいちゃまはフィーリアス船頭の役っ! 鬼泪山ちゃんがジャンパオロでっ、わたしがソフィアの役ねっ!」
「おや、私はフィーリアスなのか。あんな知的な名船頭の役が私に務まるかねぇ」
「大丈夫っ! おじいちゃまが船頭なら、絶対に航路を間違わないわっ!」
苦笑いの御大。
それを聞いて、絶対に歳相応に見えない真っ赤なフレアスカートの母さんが半身を乗り出す。
「えー? モモちゃんがソフィアなのぉ? アタシかと思ってたのに!」
「だーめ。メインキャラは譲れないわっ! 萩生ママと奏ちゃんは双子の天空の女神よっ! 魔王の居城の門を開けられる、唯一無二の神聖な双子女神っ!」
「えっ? アタシたち、女神なのっ?」
嬉々としてさらに身を乗り出した母さんの隣で、奏さんが大きな溜息をつく。
「育子? あなたのどこを押せば女神だなんて言葉が出てくるのかしら。ちょっと厚かましすぎるわ。私が女神というのは納得がいくけれど……」
「はぁ? どうして奏ちゃんだけなのよ。アタシたち双子よっ? アタシがダメなら奏ちゃんだってダメじゃない!」
「うるさいわね。ほら、いいかげんに大人しくなさいっ? 作戦会議を始めるわよっ?」
見ると、カウンターの向こうでは、品のいいベストを纏ったマスターが、これ以上ないくらいの優しい笑みを見せていた。
そうか。
みんな、僕の『異世界遁逃譚』を読んでくれていたんだ。
ジャンパオロ、ソフィア、フィーリアス、そして双子の天空の女神……。
その愛すべきキャラクターたちが、僕と共に魔王の呪縛から愛加里姫を救うために、ここへ集まってくれた。
「愛加里さん、座ろうか」
「うん」
ふわりとした、ボックス席の座面。
何十年ぶんもの珈琲の香りが染み込んでいるその席では、きっと今までたくさんの人生物語が語られて来たことだろう。
湊さんがちょっと横へよけて、僕と愛加里さんを座らせてくれた。
愛加里さんが僕の手に重ねた、その温かい手。
同時に、奏さんが壁の時計に目をやった。
「もうすぐ正午ね。魔王も社長室でくつろいでいるころだと思うわ」
彼女のハンドバッグから取り出されたスマートフォン。
その画面にしなやかな指が滑る。
「あ、もしもし? 竹邉先輩? 私よ? ちょっと相談があるの。お昼から会えない?」
幾つかの言葉のやりとりのあと、じわりと口角を上げて片目をつむった奏さん。
窓の外は、ずいぶんのんびりとした春の装い。
僕のバッグの中では、魔王へと挑む魔法の書がその出番を窺っている。
程なく、奏さんが伏せた目を上げてみんなを見た。
「決まったわ。午後二時に、社長室よ」
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