第五章
5-1 田原直子との別れ、そして新井愛加里の真実
【田原さん、『特別賞』受賞、おめでとうございます。少しお話ししたいのですが、いま、どこに居られますか?】
自宅へ帰り着くまで、ついに届かなかったそのメッセージへの返信。
僕は、雨に降られた余所行きのスーツを無造作にソファーの上に投げ出すと、小さく溜息を吐いてシャワーのハンドルを捻った。
『愛加里さん、きっとエッセイスト「田原直子」のイメージを壊したくなかったのね。あなただって読者に素の自分は見せたくないでしょう?』
奏さんの、あの言葉。
そう。
物書きは、嘘つきだ。
その気持ちは、正直、理解に難くない。
さらに、その嘘が、彼女の正義を体現した『優しい嘘』であろうことは、しばし立ち止まって
シャワーを終えて、スマートフォンを手にキッチンへと赴いた。
ふとリビングへ目をやると、テーブルの横に、今日あのホールでもらった大賞の盾が入っている紙製の手提げ袋が、なにやらすまし顔でそこに居る。
念願の大賞だ。
かつて、焦がれるほどに渇望した栄誉。
読まれたいが安く消費されたくはないという我欲を、これ以上ないほどに満たす誉の極みだ。
だのに、今の僕はなんの熱も感じず、それを他人事のように見つめている。
もう一度、スマートフォンの画面を見た。
彼女からの返信は来ていない。
本当なら、今日、大賞を獲ったことをSNSで公言して、さらに各方面の方々へ謝意を表すべきだろうが、なぜか、いまはまったくそんな気になれない。
ちょっと腰をかがめて、冷蔵庫の中に一本だけ残っていたビールを手に取った。
少々乱暴に引かれたタブ。
間髪入れずに、目をつむった僕の喉を一気に冷感が流れ落ちる。
同時に、脳裏によぎった数々の彼女の姿。
初めて、電車の中で見つけた、一心に画面を見つめていた彼女。
ICカードを落として、所在なさげに改札の手前で僕を待っていた彼女。
居酒屋で串入れの竹筒を倒して、何度も頭を下げながら目をくるくるさせていた彼女。
どんなダメ出しをされても、ただひたすらに原稿へ向き合っていた彼女。
そして……、熱が下がらない僕の横で、額に優しく手を乗せて囁いてくれた彼女……。
そうだ。
あのとき、僕の耳元で彼女は言った。
『あなたが心の底から書きたいと思って書いた……、あなたが本当に楽しいと感じながら書いた……、そんな物語が読みたいな』
彼女は、最初から知っていたんだ。
僕が……、かつて『いしずえ翔』だった『恒河沙』が……、『心から書きたい物語を書かずに、刹那的な羨望ばかりを求めて、己を安価に値踏みしている』ということを。
そして彼女は、その『いしずえ翔』を救おうと、意を伏せて僕の前に現れたんだ。
しかし……、なぜだ。
なぜ、愛加里さんは僕が『いしずえ翔』だと知っていたんだろう。
かつての僕を知っていて、ずっと探していたのだろうか。
そして、無名の素人作家で賑わう小説投稿サイトの星の数ほどの作品群の中から、なんの特徴も無い『恒河沙』の作品を偶然見つけて、それが『いしずえ翔』が書いたものだと直感的に分かったということだろうか。
いや……、それは不可能だ。
漫画やイラストなど、その作家の特徴を容易に比較選別できる創作ならいざ知らず、単なる文字の羅列である小説の書き手を、文章の特徴のみから特定するのは至難の業だ。
それなら、彼女はどうやって……。
そして、どうして僕を『救いたい』と思ったんだ……。
そう喉の奥でひとりごちて、スマートフォンをソファーの上へ放り投げた。
次いで、顎を上げて缶の底に残ったビールを勢いよく喉に投げ入れたとき、同時にソファーの座面に柔らかな振動が走った。
ふわりとスマートフォンの画面が浮かび上がる。
ハッとした。
思わず無造作に手の缶をテーブルに放り、ソファーの前に膝をついた。
画面には、『新着メッセージ 1件』の文字。
無心でそれを手に取る。
【大賞、おめでとうございます。まだ私を『田原』の名で呼んでくださるのですね】
思わず、笑みが出た。
僕はソファーにじわりと座り、それからずいぶんとかしこまって、そのエッセイストへ想いを投げた。
【はい、もちろん。ところで、愛加里さんの居場所をご存知ないですか? 彼女と少し話したいのですが】
【愛加里ですか? いましがた自宅へ帰り着いたようですが、あなたに嘘をついていたことをずいぶん思い悩んでいたようなので、ちゃんとお話しができるかどうか……】
【大丈夫です。僕はなんとも思っていませんし、それどころか、僕がちゃんと気がついてあげられなかったことを申し訳なく思っているくらいなので】
【そうですか。それでは、どこへ行くよう伝えたらいいですか?】
その返信を受けて、僕はすぐにクローゼットへと立った。
ゆっくりと扉を開け、それを手に取る。
愛加里さんの誕生日プレゼントにと買った、想いの品。
僕は、品のいい雑貨屋のペーパーバッグに入ったそれを小脇に抱え、さらにメッセージをしたためながら玄関へと向かった。
放り出していた安物のコートを拾い上げて、トレーナーの上に羽織りながら扉を開ける。
通路に響いた、扉が閉まる音。
見ると、手摺りの向こうでは、漆黒を背景に浮かび上がる窓灯りたちを包むように、街路灯に照らされた柔らかな雨が舞っていた。
エレベーターの階表示がゆっくりと下がる。
【そうですね。では……、『どこへも行かないで。僕がそこへ行くから』と伝えてもらえますか?】
エントランスが僕を見送ってくれたとき、僕はそうメッセージを送り返して、それから舞い降りる優しい雨が踊る道をふわりと駆け出した。
いつもの、僕の駅。
都心行きのホームへ上って息をつく。
【分かりました。自宅で待っているように愛加里に伝えますね】
その返信がポケットを揺らすと、電車はすぐに来た。
濡れた肩越しに見る、見慣れた風景。
そして、見慣れた席と、見慣れた床。
窓に映った間抜けな顔を見て、毎朝、背を丸めてその景色の一部となっていた自分が、なんだか遠い過去の他人のように思えた。
すぐに見えた、思い出の駅。
その鉛色の風景が、あっという間に温もりを帯びてゆく。
改札は、ことのほか静かだ。
駅前の通りも、まるで真夜中のように静まり返っている。
【いま、愛加里さんの駅で降りました。まもなく着きます】
【本当に、愛加里はあなたとまた会っていいのでしょうか。新たな人生の門出を迎えるあなたの隣に居るのが、愛加里でいいのでしょうか】
【『彼女でいい』のではありません。『彼女でなければだめ』なのです】
【そうですか。それを聞いたら、きっと愛加里は泣いてしまうでしょうね】
再び駆け出す。
足元で柔らかな雨が踊っている。
濡れないように、雑貨屋のペーパーバッグを大切にコートの懐に抱いた。
見覚えのあるエントランス。
立ち止まり、肩の雨をサッと払う。
それから、ゆっくりと階段を上った。
息を整える。
先に誰かが上ったのか、階段の白い照明が、点々と続く濡れた足跡をキラキラとさせている。
そして、辿り着いた、その場所。
僕は、もう一度すーっと息を吸って、その最後のメッセージを彼女へと投げた。
【いま、愛加里さんの部屋の前に着きました。いろいろとありがとうございました。たぶん、これが最後のメッセージになるかと思います。どうぞ、これからも素敵なエッセイを世に送り出してください】
【はい。私も、今後のいしずえ先生のご活躍に期待しています。ずっと応援しますね。本当に……、本当にありがとうございました。愛加里をよろしくお願いします】
最後の、そのメッセージ。
カチャン……。
それを読み終えたのと同時に、ただただ静かに鍵が解かれる音がそこに響いた。
柔らかな雨音が、それを引き継ぐ。
続けて、真っ白な階段の照明に重なって、柔らかな淡黄色の光筋が足元に伸びた。
ゆっくりと開かれた、その扉。
そして、それに隠れるように、その愛らしい顔が覗く。
「ワタルくん……」
「田原先生から聞いたよね? 僕、どうしても愛加里さんじゃなきゃだめなんだ。だから――」
その瞬間、ふわりと開いた扉。
同時に、すっとその両手が僕の背中へと回った。
小さな、丸い肩。
僕の胸に飛び込んだその肩を、思わず思いきり抱き返した。
静かな嗚咽が、僕の腕にかかるひとつ結びを小さく揺らしている。
温もりと共に、僕の頬に触れた彼女の頬。
雨はひどく優しかった。
彼女の頬を静かに伝う美しい雫を、僕を包んでいた雨の名残がただただ優しく隠していた。
「あたし……、なにから話せばいいのかな……」
初めて入った、愛加里さんの部屋。
リビングテーブルを前にしてポツンと座る彼女の向こうの壁には、あのレセプション会場で見た、エッセイスト『田原直子』の身を包んでいた清楚なパンツスーツが掛けられていた。
それが、あの会場とこの彼女の部屋がちゃんと繋がった世界であることを知らしめている。
見ると、脇の小さな本棚には『田原直子・著』のイギリス文化のエッセイが数冊並んでいた。
すでに知っていたことなのに、なんだかとても不思議な感覚に陥る。
それを掻き消すように、小さく声を出した。
「愛加里さん、無理にいろいろ話さなくていいよ? 僕はただ、キミが胸につかえさせている『僕の隣に居る資格が無い』という思いを取り除きに来ただけだから」
「あたし……、本当にあの人が好きだった」
丸い肩に落ちる、淡いルームライト。
その下で彼女は俯いて、そして噛みしめるようにそれを語りだした。
愛らしい唇がゆっくりと動く。
「十八歳のとき、大学の文芸サークルで初めて同じ歳の彼に会った。飾らない、優しい人。本気で物書きを目指していたの。だから、あたしの父が出版社の社長であることは彼には内緒にしていた」
「内緒? どうして」
「だって、彼が父に接近したいからあたしと付き合ったんじゃないかなんて誰かに言われたらイヤだったし……」
「本当に彼を大切に思っていたんだ」
「それにあたしは、彼が……、彼との出会いが、あたしを父の呪縛から解放してくれるかもって……、そんなふうに感じていた。だから――」
伏せられた瞳。
小さな肩がきゅっと上がる。
「――だから、あたし、彼とずっと一緒に居ようって、そう決めたの」
「……そう」
「でも、お父さんはまったく理解してくれなくて……、それどころか、『物書きを目指すような男はやめろ』って、すぐに別れるように言われて……。それで、まだ学生だったけど、勢いに任せて籍を入れて」
「幾つのとき?」
「大学二年生の冬……、二十歳になってすぐ。お父さん、カンカンに怒って、彼の実家に怒鳴り込んで」
「彼のご両親はなんて言ってたの?」
「応援してくれていた。もう、大学も彼の実家から通えばいいって、そんなことまで言ってくれていたくらい」
苦笑いしながら、愛加里さんが「コーヒー淹れるね」と言って立ち上がる。
ハッとして、僕はすぐにその背中を呼び止めた。
手には、脇に置いていたその箱。
「愛加里さん、コーヒー淹れてくれるの? それなら、これを使って?」
「え? えっと……」
「誕生日プレゼント。開けてみて」
包み紙を開ける彼女。
そして、すぐにその瞳がじわりと細められた。
「これ、お揃いのシルバーカップ?」
「うん。『ぬくもりは珈琲色』のラストをイメージして……」
そのふたつのカップを手に、彼女は放心している。
数秒の無言。
僕は彼女の顔を覗き見上げて、それから小さく笑みを作った。
「えっと……、話の腰を折ってごめん。続けて?」
「え? あ……、うん」
そう言って、彼女は再び背を向けた。
程なく、キッチンでは小さなコーヒードリッパーが据えられ、英国風の品のいいケトルが火に掛けられた。
「亡くなった旦那さんの実家にお父さんが怒鳴り込んで……、それから?」
「うん。でも……、彼、実家にまで押しかけられたのにまったく怒ったりしないで、それから何度もお父さんにアポを申し込んで、ちゃんと話しに行ってくれたの。『絶対に幸せにします』って、そうお父さんに伝えるために」
愛加里さんの背後で、ふわりと湯気が立った。
その手には、『アルフヘイム』特製の『ぬくもり』の缶。
「お父さんね? 結局、その彼に根負けして、『絶対に約束だぞ! 裏切ったらただではおかないからな』って言いながら、なんとか納得してくれた」
「それって、愛加里さんが竹邉の後継者にならないことを許してくれたってこと?」
「たぶん、本当はあたしでなくてもいいんだと思う。あんなに大きな会社だもの。社長を任せられる優秀な人はたくさん居るはず。お父さんはただ、あたしを従わせたいだけ」
コーヒードリッパーに注がれた熱。
すぐにその豊かな香りがリビングまで届く。
「でもね……、そうやってせっかくお父さんが納得してくれたのに……、彼は……」
愛加里さんが目を伏せた。
おそらく、最も思い出したくない、最も彼女を消沈させる話。
「愛加里さん、辛いなら話さなくていいよ? いつか、もっと気持ちが落ち着いたときにでも――」
「ううん、大丈夫。これはちゃんとワタルくんに聞いてもらいたいの。あたしがどうして『資格が無い』って思ったのか……、これがその理由だから」
振り返った、真っ直ぐな瞳。
僕は小さく頷いて、柔らかな笑みを作った。
彼女が続ける。
「彼……、突然、病気が発症してしまったの。ちゃんと血液が作られなくなる病気で……、骨髄移植が必要で、ずいぶん探してもらったんだけど、どうしても型が合うドナーが見つからなくて……」
言葉が出ない。
僕は目を伏せて、それからキッチンで語る彼女の横顔へ再びゆっくりと瞳を向けた。
「お父さん、彼が不治の病だって知って、『約束したくせに』って、彼を嘘つきだって言い出して」
物書きは嘘つきだ。
しかし、これは物書きがついた嘘じゃない。
彼女が、すっとこちらを見た。
その愛らしい瞳が真っ直ぐに僕を捉える。
「そんなとき……、あたしたちは、『ぬくもりは珈琲色』に出会ったの」
ハッとした。
彼女が、ふたつの銀のカップを乗せたトレイを抱えてリビングへと戻る。
僕の前に置かれた、豊かな香りの『ぬくもり』。
放心している僕に一瞬だけ目を向けて、彼女はそれからおもむろにローボードから一冊の文庫本を取り出した。
懐かしい、見覚えのある、その本。
かつて一冊だけ世に出た、僕の書籍化作品。
『ぬくもりは珈琲色』
ずいぶん読み返してくれたのか、カバーの端は少し擦り切れてずいぶんとくたびれている。
「愛加里さん、それって……」
「あたしの……、ううん、あたしたちの宝物。あたしが見つけて彼に教えたんだけど、彼はあたし以上にこの作品を好きになって……」
僕の左前にそっと腰を下ろし、愛加里さんがその古い本の表紙をじわりと撫でた。
「病床に伏した彼はこの本をずっと枕元に置いて、こんな作品が書きたい、こんな作品が書ける、『いしずえ翔』先生のようになりたいって、ずっとそう言ってた」
思わず目が泳いだ。
僕は、そんなふうに思ってもらえるような作家じゃない。
あの物語を読んで、僕の人間性もあの物語のように柔和で神秘的だと読者が思ってくれたのだとしたら、それは『作家』としては成功だが……、『個人』としてはただただ後ろめたい。
「そして……、彼はいつか、この『ぬくもりは珈琲色』の主人公のように、新たな自分になってあたしを幸せにする……、病気に打ち勝って、ずっとあたしの傍に居る……って、そう言ってくれた」
途切れた言葉。
ふと彼女に目をやると、下唇を噛んだその顔が苦痛に歪んでいる。
思わず、覗き見上げた彼女の横顔。
すると、その僕の瞳を追うように、彼女がゆっくりとその顔を上げた。
「そのせいで……、そのせいでお父さんが……、『いしずえ翔』先生の批判を始めたの」
一瞬、その言葉の意味が分からなかった。
僕の人生で、最も思い出したくない、あの出来事。
出版社の編集部からもらった、あの電話。
『いしずえ先生、なんかやらかしました? 先生の作品、出版界の大御所が猛烈に批判してますよ?』
その大御所が誰だったのか、結局、聞かず終いだった。
『そうですか。僕は何もした覚えはありませんけど』
そのあと、『もう聞きたくありません』と、こちらから電話を切った。
出版社も迷惑だったんだろう。
それから、編集部からの連絡はまったくなくなった。
「本当に……、ごめんなさい。あたし……、彼を嘘つき呼ばわりするお父さんと口論になって、この小説のことを持ち出したの。いま、この物語に勇気をもらって、彼は一生懸命に頑張っているって……この物語の主人公のように、あたしを幸せにするために頑張ってくれている……って」
僕は放心した瞳をゆっくりと伏せて小さく息を吸うと、それから柔らかな香りを纏う『ぬくもり』を口に運んだ。
ほんの少し、手が震える。
「そういう……ことだったんだね」
「本当に……、本当にごめんなさい。あたしのせい。あなたが『いしずえ翔』で居られなくなってしまったのは……、あたしのせい」
「そんな……ことない。愛加里さんのせいじゃない」
「でも、あたしは逃げてしまった。まったく関係のない『いしずえ翔』先生の名誉を挽回することもなく、イギリスへ……」
「奏さんが勧めてくれたんだよね」
「……うん。そして、ずいぶん傷が癒えて、彼の死をちゃんと受け入れられるようになって、あたし、決心したの。あたしも物書きを目指そうって。彼の思いを継いで……」
彼女が、戸惑うように自分のカップを手に取った。
彼女が抱えていた、『資格が無い』の本当の理由……。
それは、思いもよらない自己嫌悪。
彼女は、彼女が僕の物書きとしての人生を変えてしまったと思っていた。
そんな自分が、僕に愛される資格は無いって、そう自己完結してしまっていた。
他愛ない。
そんなことは、僕にとって他愛ないことだ。
まったくもって、愛加里さんが嫌悪するようなことじゃない。
「イギリスに居る間も、『ぬくもりは珈琲色』は大好きで何度も何度も読み返した。でも、日本に帰って来て、『いしずえ翔』先生が活動していないって知って……、愕然とした。そして、それがお父さんのせい……、いえ、あたしのせいなんだって……、すぐに分かった」
彼女が、もう一度その本を手に取った。
さらに伏せられた、その瞳。
「本当にショックだった。そして、その日から、あたしはずっとあなたを探していた。どうしてもあなたに謝りたくて、どうしてもこの気持ちを伝えたくて……」
「……ありがとう。嬉しいよ」
「出版関係のいろんな人に尋ねて、やっとあなたがまったく別のペンネームで活動しているらしいということが分かったの」
あのとき、『たばなお』というユーザーが書き込んでくれた『異世界遁逃譚』のレビュー。
その裏で、彼女がこんなにも僕のことを想ってくれていたなんて、僕はまったく想像すらしなかった。
嬉しい。
本当に嬉しい。
「あなたが、あの『いしずえ翔』先生だって確かめられたときは、天にも昇る気持ちだった。でもやっぱり、その『いしずえ翔』先生が、あたしのせいで今は書きたいものを書かずに……、いえ、書けずにいることが……、とても悲しくて仕方なかった」
「愛加里さん、僕は――」
「――だから、せめてあなたがまた想いのままに物語を書けるようになって欲しいって……、もう一度あなたに人の心を揺さぶる小説を書いて欲しいって思って――」
「――ごめん、もう言わなくていい」
僕は、そう彼女の言葉を切って、ゆっくりと彼女へと両手を広げた。
「もう、言わなくていいから」
ハッとした彼女。
そして、ゆらゆらと瞳を泳がせた彼女は小さく頷いて、それからゆっくりと僕の胸に顔を埋めた。
彼女の背中に手を回すと、その愛らしいひとつ結びが柔らかく腕にかかった。
「ありがとう。僕はもう大丈夫だよ? そして、キミが愛した人が、そんなにも僕の物語を気に入ってくれていたなんて、こんなに光栄なことはない」
抱き寄せた彼女の額。
そこに僕の頬が触れて、彼女の温もりがじんわりと伝わった。
「でも……、でもね? キミの愛した人が敬愛してくれた『いしずえ翔』は、僕じゃない」
ゆっくりと、彼女の顔が上がる。
まっすぐなその瞳。
「キミの愛した人が敬愛してくれた『いしずえ翔』は、僕が作り出した実在しないキャラクターだ。キミだってそうだ。『田原直子』は、キミが僕を救うために作り出したキャラクター」
愛加里さんはきょとんとしている。
僕は、柔らかな笑みを作って、彼女をさらに抱き寄せた。
「物書きはみんな架空のキャラクターだ。そしてそのキャラクターたちは、『小説』という『優しい嘘』を魔法のように使って、人に夢と幸せを与えることができる。でも……」
一瞬だけ強張った、その小さな肩。
「今度は……、そんな架空のキャラクターじゃない、本当の僕がキミを救う番だ」
愛加里さんの瞳がじわりと大きくなった。
僕はゆっくりと息を吸って、それからまっすぐに彼女を見つめてその言葉を届けた。
「愛加里さん……、僕と結婚してください」
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