4-4 その再会は物書きの嘘を連れて
「ご……、ご無沙汰。ワタルくん」
「あ、あ、愛加里さん?」
母さんの後ろからおずおずと顔を覗かせたのは、ずっとずっと会いたいと願っていた、彼女。
あまりの突然のことに、僕は思わずそこに立ち尽くした。
清楚なパンツスーツ姿の愛加里さんも、言葉が繋がらず足元に瞳を落としている。
その意気の無さに気がついて、奏さんが愛加里さんの袖を引っ張り、続けて母さんが肩を怒らせて振り返った。
「愛加里さん? ワタルさんにはちゃんと自分で言うって、あなたが言ったんでしょう?」
「そーよー? 愛加里ちゃん。約束したじゃん? なんのためにひと月もウチで合宿したと思ってるの?」
ウチで合宿?
なんの話だ?
ふたりに顔を覗き見上げられてハッと瞳を上げた愛加里さんは、頬を真っ赤にして一文字に結んだ唇をわなわなと震わせた。
「や……、約束はしましたけど、そのっ……、あたしっ……」
「あー、もどかしいっ! ねぇ、奏ちゃん、アタシたちで言っちゃおうよ」
ぐいっとさらに首を後ろへ向けた母さん。
それに対して眉を吊り上げ、溜息を吐いた奏さん。
「はぁ……、あなたちょっとせっかち過ぎるわ。ちゃんと愛加里さんが言うまで見守るって話したじゃない。もう少し歳相応の落ち着きを持ちなさい」
「うわ、なに? そのすっごい奏サマ発言。もうっ、奏ちゃんだって朝からずっとソワソワしてたじゃん」
「うるさいわね。とにかくあなたは引っ込んでなさい? ほら、愛加里さん? 早く言わないと、この世話やきオバサンがあなたの出番を盗ってしまうわよ?」
「かぁー、ムカつくぅ!」
なんなんだ。
どうして母さんと奏さんがこんなに親しく話をしているんだ?
「ほら、愛加里さん、一歩前」
「わっ、わっ」
奏さんに背中を押されて、前のめりになった愛加里さん。
同時に、後ろ襟を掴まれた母さんが「うげぇ」と声を上げながら奏さんに引き戻される。
「愛加里さん……、これは、どういう……」
「あ、あのね? ワタルくん、あああ、あたしっ、実はワタルくんに話していないことが――」
そう愛加里さんが言いかけた瞬間――。
「おおー、やっと来ましたね? 愛加里さん。お待ちしていましたよ?」
聞こえた、野太い声。
さらに、僕の両肩にぎゅっと大きな手が乗せられ、横からその優しい顔が覗いた。
「おめでとう。いしずえ翔先生」
高溝先生だ。
思わず肩をすくめた。
「こ、この度はありがとうございます。すみません。こちらからお伺いすべきなのに」
「いえいえ。こちらこそ申し訳ありません。しつこい重役連中に掴まってしまってね」
見ると、愛加里さんは再び足元へ瞳を落としている。
母さんと奏さんは満面の笑みだ。
「今回のキミの作品、あれは本当に素晴らしかった。恥ずかしながら、泣いてしまいましたよ。そして、選考を終えた後に、その作者がキミだと知って……、さらに感動しました」
「僕が作者だと知って、感動……、なさったんですか?」
「ええ。あの作品……、あれは愛加里さんの作品の遠い続編ですよね? 読み進めていくうちに分かりました。最初はどうしてあの作品の続編なのかと不思議に思っていたけど、後でキミが作者だと聞いて大いに納得して」
「先生、愛加里さんの作品をお読みになったんですか?」
「ええ、読みましたよ? 竹邉側の『手違い』で応募自体が無かったことにされていましたが、私の優秀なスパイがちゃんと見つけ出して来てくれたので」
ふと、僕越しに壁のほうへ視線を投げたミステリーの大御所。
そこでは、あのパンパカパーンの『
そうか。
あの人がいろいろ調べてくれたんだ。
「あの、彼女の作品がなければ、キミのこの大賞作品は生まれなかった……、そうですよね? だから私はどうしても、彼女へ『特別賞』を贈りたいと思ったんです」
そう言って高溝先生が小さく僕の肩を叩いたとき、突然、背後で拍手が起こった。
高溝先生の向こう、ビュッフェテーブルのさらに奥。
目をやると、そこに居たのは、すらりとした中年紳士。
一瞥しただけで良品だと分かるブランドスーツに身を包み、華奢であるにもかかわらず、なんとも表現し難い威圧感を纏っている。
高溝先生に気がついたのか、その紳士が軽くこちらへ向けて会釈をすると、先生は僕の肩から離した手を大きく挙げてその声を投げた。
「やぁ、呼び立ててすまないな。竹邉くん」
ハッとした。
雑誌やWEBで何度も確認した、その顔。
竹邉英雄氏。
株式会社竹邉書房の代表取締役社長で、竹邉家の当主。
そして、愛加里さんの実の父親。
見ると、愛加里さんも顔を上げて、茫然とその父の姿へ目をやっていた。
「さぁ、ふたりとも、この爺さんの戯言に付き合ってくれるかい?」
片目をつむって僕らの顔を覗き見上げた高溝先生。
僕と愛加里さんが当惑の瞳を向けると、先生はさっと僕らの手首を掴んで、それからスタスタとビュッフェテーブルの向こうを目掛けて歩み出した。
同時に、壁際を創さんが駆け出す。
「あ、あの……、高溝先生?」
「いしずえ先生、愛加里さん、キミたちはただ黙っていればいい。分かったね?」
引かれる手の先、近づく竹邉社長の姿。
すると、その社長のお付きの中に、あのいまいましい顔が見えた。
「えっ? お前、塾講師っ? もしかして、お前が文芸大賞の作者なのかっ?」
聞きたくもない、その声。
僕の胸のリボンバラを見て目を丸くしたのは、竹邉書房からプラネッツ出版へと出向している、あの相川編集チーフ。
竹邉社長の横にピタリとくっついて、なにやらこそこそと耳うちしている。
直後、高溝先生が立ち止まった。
同時に、その御大にぶつかるようにして僕と愛加里さんも足を止める。
「竹邉くん、よく来てくれたね。キミにどうしても、この彼に会ってもらいたくてね」
「はぁ、高溝先生……、お招きいただいたのは嬉しいのですが、この男に私が会わなければならない意味がいまひとつ分かりかねますが」
「そうかね? 今年の竹邉ノベルズ文学賞の大賞受賞者だよ? いしずえ翔先生だ。名前に聞き覚えがあるだろう?」
「さぁ、覚えませんな」
じろりと、竹邉社長が僕を一瞥した。
そして、その瞳はすっと僕の背後へ流れ、娘である愛加里さんへと向く。
「愛加里、相川から聞いたが、この男性作家と交際しているらしいな。また物書きに騙されようっていうのか?」
ぐっと肩を上げた愛加里さん。
見ると、その愛加里さんの後ろでは、母さんと奏さんがいまにも飛びかからんばかりに眉を吊り上げている。
社長が小さく溜息をついた。
「なんだ、野元も居たのか。もう、いい加減に愛加里を返してもらうぞ?」
「そうね。本人が自分からあなたのところへ帰ると言うのなら、それは止めないわ。でも、それが本当に愛加里さんの幸せのためになるのかしら?」
「この一年、なにも賞は獲れなかったんだ。約束だったはずだぞ? お前の意見を聞いて愛加里をイギリスへ渡らせたときも、私はこれ以上ないほど譲歩したんだ。もういいだろう?」
気がつくと、愛加里さんの手がしっかりと僕の後ろ袖を掴んでいた。
少し後ずさりして、彼女を庇うように立つ。
それに気がついた高溝先生が、おもむろに両手を広げた。
「まぁまぁ、その話はあとでゆっくりすればいいじゃないか。今日は、その賞を獲れなかった愛加里さんに私の個人的な賞をあげようと、無理を言って彼女にここへ来てもらったんだ」
「高溝先生、私は父親として――」
「さぁ、皆さん! すこしお耳を拝借してよろしいですかな?」
竹邉社長を遮り、演台のワイヤレスマイクを取って高らかに声を上げた高溝先生。
振り返った先生に促されて僕と愛加里さんが会場のほうへ向き直ると、同時に場の招待客たちが一斉にこちらを向いた。
鎮まる喧騒。
同じく衆目へとその身を向けた竹邉社長は、ぐっと口を結びつつ作った笑みを目元に湛えている。
「さて……、この度の大賞、いしずえ先生の『僕が恋した図書館の幽霊』ですが、実はこの作品は、面白いことに、とある別の作品の遠い続編になっています」
いよいよしんとした会場。
何が起こったのかという感じで、皆がぽかんとこちらを眺める。
「彼の作品を単体で読んでも、これにビフォアストーリーがあるとは誰も気づかないと思いますが、私はたまたま両方の作品を目にする機会を得てそのことに気がつき、そして、このふたりの作者の深い絆、これら二作品の呼応性と作り込みの素晴らしさに……、至極感嘆いたしました」
高溝先生が、すっと愛加里さんに手を向けた。
ハッとして彼女が顔を上げる。
「彼女が書いた、そのビフォアストーリーが無ければ、彼の大賞作品は生まれませんでした。言わば、彼女は今回の陰の立役者です。そこで私は彼女に、是非、『特別賞』を贈りたいと思い、今日、ここにお越しいただきました。紹介します――」
奏さんから、トンと軽く背中を押された愛加里さん。
ぐっと口を一文字にして、丸い肩を上げて背筋を伸ばしている。
「――紹介します。大賞作品のビフォアストーリー、『光風の伝言』の作者、田原直子先生――」
かしこまって頭を下げた愛加里さん。
同時に拍手が起こった。
一瞬、耳を疑う。
高溝先生は、いま、なんと言った?
田原……直子?
聞き間違いだろうか。
思わず愛加里さんを見た。
彼女はぎゅっと目をつむって、肩をすぼめている。
「――彼女はプロのエッセイストで、これまでに多くのイギリス文化に関するエッセイを手掛けて来られました。そして、今回の竹邉ノベルズ文学賞には、その知識と筆致を活かした小説、『光風の伝言』で臨んだのですが、なぜか――」
田原直子先生は、プロのエッセイストだ。
僕の『異世界遁逃譚』にレビューをくれた。
僕に本をくれると言って『アルフヘイム』で顔を合せ、愛加里さんの隣で笑っていた。
どういうことだ?
あのときの女性は、田原さんではないということか?
それじゃ、あのとき僕が話した彼女は誰だ。
ずっと僕にSNSメッセージを返してくれていたのは……?
「――なぜか……、どういう手違いか、その作品の原稿は一次選考の際に所在不明となり、結果、評価される機会を与えられないままとなっていました。その原因については、現在、大賞事務局が調査しているようです――」
ふと、右後ろから近づいてきた創さんが目に入った。
ニコニコ顔の彼。
「――田原先生の『光風の伝言』は、非常に完成度の高い作品です。正当に選考に掛けられていれば、彼女は必ず、二次選考通過者としてこの場所に招待されていたはずです。おそらく何かの事故だと思われますが、私としては、この作品が評価されないままであるのは至極残念でなりません――」
見ると、創さんを相川さんが鬼の形相で睨みつけている。
それに気がつき、さらにニッコリした創さん。
「――そのような経緯で、私は彼女に『特別賞』を贈ることにしました。さぁ、田原先生、こちらへ」
肩をすぼませて、高溝先生の前へと歩み出た愛加里さん。
同時に、ニコニコ顔の創さんが盾を高溝先生へと手渡す。
御大の手により、ゆっくりと愛加里さんの前に差し出された、シンプルな受賞盾。
小声が彼女へ向けられる。
「おめでとう。これで、今年度中に何かの賞を獲るというキミの約束は果たされたことになるよね?」
ハッとした愛加里さん。
御大の頬がくしゃりとあがった。
「大丈夫。このあと、萩生くんも一緒に、お父さんとこれからのことを話そう。私も同席するから」
「あ……、ありがとうございます」
チラリと僕へと目をやり、それから笑顔とも泣き顔ともとれる顔で、何度も頭を下げて盾を受け取った愛加里さん。
再度、拍手が起こった。
竹邉社長は真顔のまま拍手している。
僕の手も拍手の真似事をしていたが、心はここに在らずだった。
ゆっくりとつま先が視界に入る。
それと同時に、ぬっと僕の前を横切った竹邉社長の手。
思わず退いた。
そして、その手が高溝先生からマイクを奪うと、竹邉社長は一瞬だけ僕に冷淡な瞳を向けて、それから満面の笑みを会場へと投げた。
「皆さん、今日はお忙しい中にお集りいただき、ありがとうございました。どうぞ、時間いっぱいまでゆっくりお楽しみください」
改めて起こった、大きな拍手。
竹邉社長はその拍手に小さく手を挙げて、それからゆっくりと背を向けた。
ミステリーの大御所もそれを追って踵を返す。
「竹邉くん、このあと、約束どおりにいいんだよね?」
「構いませんが、その大賞受賞者も一緒にというのならお断りします」
「そうかね? 彼を交えて、愛加里さんの将来について屈託ないブレインストーミングをしたいと思っていたんだが」
「作家らしい感傷ですな。私は彼と話すことはひとつもありません。部屋は十八時に、以前ご一緒した神楽坂のあの店の一室を取っております。愛加里……、お前はいまから私と一緒に来なさい」
一瞬、固まった愛加里さん。
僕は、泳いだ目をハッと前へ戻したが、どうしても言葉が出なかった。
愛加里さんがじわりと肩を落とし、それからゆっくりと踏み出す。
同時に、僕の横を通り過ぎた、聞こえるか聞こえないかの囁き。
「ワタルくん、ごめんなさい……」
背後へと遠ざかる、父親と娘の気配。
会場の歓談はまだ続いていた。
そして、どうしようもなくなって僕がぎゅっと両拳を握りしめると、そっとミステリーの大御所が僕の肩を叩き、母さんと奏さんが寄せた眉根の下でその瞳をゆらりとさせた。
「ワタルー? なにしてんのー? こっちよー?。ねぇ、奏ちゃん、なんか天気が怪しくない?」
「そうね。もう少ししたら降り出すみたいだわ。ところであなた、今夜はどこに泊まるつもりなのかしら」
「そりゃー、えーっと、奏ちゃんのとこ」
「は? 高くつくわよ?」
雲が多くなった夕暮れ空を見上げると、堀を囲む梢の向こうで懇親会が催されたビルがくすんでいた。
もう、窓灯りがずいぶん灯っている。
高溝先生は、竹邉社長と愛加里さんを追う車上の人となった。
僕の前を並んで歩く、母さんと奏さん。
親しく話すふたりの姿の違和感は、もうとっくに消えていた。
「ねぇ、愛加里ちゃんたちが行ったお店、知ってるんでしょ? 押しかけようよ」
「ダメよ? ワタルさんの印象が余計に悪くなってしまうわ。大人しくしてなさい? それに、まずはワタルさんの誤解を解いておかないと」
「あー」
立ち止まるふたり。
それに気がついて瞳を上げると、母さんがボート乗り場を見下ろす見晴らし台の階段をトントンと駆け上がって、僕に「こっちこっち」と手招きした。
僕もそこへと上る。
奏さんは、飲み物を買いに行ってくると言って、すぐ脇の公園のほうへ歩いて行った。
母さんが堀を背にして手摺りにもたれながら、僕を覗き見上げる。
「ねぇ、ワタル。あんた、もしかして愛加里ちゃんがあんたを騙してたんじゃないかって思ってるでしょ」
「え? えっと……、もしかしたらそうなのかなって……、ちょっと思ってる」
「そんなわけないでしょー? でも……、愛加里ちゃんがエッセイストの『田原直子』だっていうのは……、ホントの話」
「僕はずっと田原先生に……、愛加里さんへの気持ちを打ち明けて相談にのってもらっていた。彼女はずっと僕の気持ちを知っていて、知らないふりをしていたってことだろう?」
「まぁ、成り行きって言えば成り行きなんだろうけど。最初からそんなことをするつもりじゃなかったみたいよ? 最初から分かっていたのは、あんたが『いしずえ翔』だってこと」
「え?」
どういうことだろう。
彼女は、僕が『いしずえ翔』だと……、『恒河沙』が『ぬくもりは珈琲色』を書いた『いしずえ翔』だと知っていて、『異世界遁逃譚』にレビューをくれたのか?
その母さんの言葉を継いで、背後から奏さんの澄んだ声がかかる。
「そうね。愛加里さんは、ただただ、ワタルさんを救いたかっただけね。書きたい物語を書かずに、ただ近視眼的な評価にばかり囚われている、『ぬくもりは珈琲色』の作者を」
「奏さん……」
「彼女……、最初に『アルフヘイム』であなたと会ったときは、まさか自分が『愛加里』としてあなたと親しくなるなんて思っていなかったのよ。以後は会うことなく、エッセイスト『田原直子』として、あなたが堂々巡りの廻廊から出られるように助言していくつもりだったんじゃないかしら」
そう言いながら、奏さんがそっと缶コーヒーを手渡してくれた。
母さんも受け取りながら、「さんきゅー」なんて言っている。
「どうして彼女が僕を救おうと……? そして、なぜ嘘をついて……」
「あの代役、やったのはウチの愛加里の担当らしいわ。愛加里さん、きっとエッセイスト『田原直子』のイメージを壊したくなかったのね。あなただって読者に素の自分は見せたくないでしょう? それに、プロの物書きの言うことなら、あなたも聞く耳を持ってくれるだろうから」
聞こえた、シャクリという母さんがプルタブを引く音。
背後の遊歩道を、ジョギングする男性の息音が通り過ぎていく。
「奏さんは……、最初から全部知っていたんですか?」
「そんなことないわ。愛加里さんが自分の想いに気づいて、そして自分が本当はエッセイスト『田原直子』であることを言い出せずに、その罪悪感と焦燥感で身動きが取れなくなっているのを見かねて……、私のほうから尋ねたの」
思わず閉口した。
両手に伝わる、缶コーヒーの温もり。
なぜか、その熱がじわりと背中に広がったような気がした。
母さんが飲み口にふぅーっと息を吹きかけながら、ゆっくりと僕へ瞳を向ける。
「ワタル? ちゃんと愛加里ちゃんを掴まえてよね。きっと待ってるよ?」
「でも……、彼女は僕の隣に居る資格は無いと思ってしまっているんだ。亡くなった旦那さんのことを、いまも大切に想っているからって……」
「そう? そのことは、ちゃんと愛加里ちゃんから聞いて? たぶん、違うと思うよ?」
「違う?」
「資格が無いっていうのは、そのことじゃなくてぇ――」
「育子? ダメよ。それだけは、愛加里さんに言わせなくちゃ」
ちょっと難しい顔で母さんの言葉を遮った奏さん。
母さんが「ふーんだ」と愛加里さんの真似をしながら、ぐびっと残りのコーヒーを煽った。
急に、黙ったふたり。
そのとき、そのふたりの向こうでしっとりとしている堀の水面が、ポツポツとかすかに揺れた。
雨だ。
同時に、奏さんが母さんの腕を掴んだ。
「あら、もう降り出したわね。さぁ、私たちはもう行きましょう。あとはワタルさんが自分で頑張らないと」
「そうねー。あー、お腹減っちゃった。ねえ、奏ちゃん、何食べる?」
「今夜泊まるのなら、宿泊代としてあなたが奢ってくれるのでしょう? 思い切り贅沢しようかしら」
「えー? あんまりお金ないよぅ」
そう言いながら、奏さんに腕を引っ張られて遊歩道へと下りた母さん。
そして、「安いとこにしてぇ」なんて言っているその母さんの背中をポンと押して、立ち止まった奏さんがゆっくりと僕へ振り返った。
「ワタルさん?」
ふわりと舞い降りる、優しい雨。
僕は、その雨越しの彼女の澄んだ瞳に真っ直ぐに向き直った。
「……はい」
「愛加里さんのこと……、ちゃんと掴まえないと彼女は本当にどこかへ行ってしまうわ。お願いね?」
奏さんの満面の笑み。
同時に、その長い黒髪がふわりと後ろへ払われる。
すっと踵を返す彼女。
そして、再び母さんの背中へ手をやって、彼女はゆっくりと歩き出した。
遠ざかる、女子高生のようにきゃっきゃと言い合うふたりの後ろ姿。
その背中に、僕は小さく「……はい」と返した。
それから、滲みながら並木の向こうへ吸い込まれたふたりを見届けて、僕はさっき母さんがしていたように、堀を背にして見晴らし台の手摺りに背を預けた。
見上げると、そこには僕を見下ろすビル群の無数の窓灯り。
霧雨がその灯りを受けて、僕の上でふわりとしていた。
おもむろに、スマートフォンを取り出す。
そして、彼女の最後のメッセージを眺めながら何度も大きく息を吸って、それから僕はその言葉を彼女へと送った。
【田原さん、『特別賞』受賞、おめでとうございます。少しお話ししたいのですが、いま、どこに居られますか?】
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