4-3  最後の東京、他人事の文学大賞

「この書類を新しい職場の事務の方にお渡しすればいいんですね? すみません。最後の最後までいろいろお手数をお掛けして」

「いいえー。萩生先生にはたくさんお世話になりましたし。あーあ、でも、ほーんと残念。先生が赴任する高校の女子生徒たちがうらやましいわぁ。こんなイケメン先生に教えてもらえて」

「あはは。からかわないでください」

 ついに、二月も今日で終わり。

 大学時代にアルバイト講師として勤め始めてから、今日まで約三年半。

 とても楽しい職場だったが、実質、今日で退職となる。

 経理上の退職は三月下旬になるのだが、ほとんど消化していない年次休暇をできるだけ減らすようにと塾長から言われたので、他の講師陣には申し訳ないが出勤は今日までということになった。

 でも、まだ引っ越しはしない。

 当初の予定では、年休消化に入ったあとマンションを引き払って一度実家に戻り、教師としての仕事が始まる前にどこか新しい部屋を借りるつもりだった。

 しかし、いまはちょうど進学や就職の時期で、不動産屋はどこもてんてこ舞い。

 選べる物件もひどく少ない。

 そこで母さんには、とりあえずギリギリまでこっちで生活して、新居探しは四月に入って仕事が落ち着いてからにすると連絡した。

 日ごろから『早く帰って来い』と凄んできた母さんのことだ。

 絶対に大反対すると思っていたのに、なんと、『おおー、いいんじゃない? 最後の東京、めいっぱい満喫して帰っておいでっー!』……と、意外な返答。

 僕としては、『えー? すぐ帰って来ないのぉ? それに新しい部屋なんてぇ、母さんと一緒に住めば要らなくないっ?』なんて感じで返ってくると思っていたのだが。

 かなり拍子抜けだったが、まぁ、これはこれで都合がいい。

 でも、本当は新居探しが困難だなんていうのは、単なる口実。

 いまの僕には、この街を簡単に離れられない訳がある。

 僕は、どうしても愛加里さんに会いたい。

 どうしても……、どうしてもだ。

 彼女にもう一度ちゃんと会って、この気持ちを……、この想いを、しっかりと伝えたい。

 彼女は、僕の隣に居る『資格が無い』と言った。

 彼女の亡くなった彼をいまも想う心は、限りなく美しく、尊い。

 そして、その尊い想いこそ、いまの彼女自身を形作っている、僕が誰よりも愛おしく感じている彼女そのものなんだ。

 だから僕は、嘘の無い、ただただ実直な彼女へ、こう伝えたい。

 『すぐに僕のところへ来てくれなくてもいい。キミの心を縛り付けている「資格が無い」という言葉が霧消するまで、僕はずっと待っている』……と。

「では、萩生先生? 完全に退職手続きが終わったら電話しますね。お元気で。いい教師になってください」

「はい。ありがとうございます」

 柔らかに笑みを投げて、通い慣れた塾を後にする。

 今日の重要な要件は、これで終わりだ。

 そして今日は、愛加里さんのことに比べればもうどうでもいいレベルになってしまった用件が、もうひとつ。

『竹邉ノベルズ文学賞 最終選考結果発表レセプション』

 たいていのコンテストでは、最終結果はWEBや専門雑誌の紙上でじんわりと発表されるものだが、この『竹邉』だけは毎年、特別な会場を仕立てて新聞や雑誌の記者の前で発表と授賞式を行っている。

 その例に漏れず、二次の発表の直後に、僕のところにもレセプションの招待メールが届いた。

【二次選考通過の皆さま。最終結果発表および大賞授賞式を、下記の日時場所にて行います。また、授賞式のあとに、弊社および関連会社の代表との懇親会も予定しております】

 レセプションには、雑誌記者やメディア関係者が招待されている。

 二次を通過した七作品のうち、大賞となるのは一作品。

 他に優秀賞二作品が選出され、その三作品は自動的に書籍化が約束される。

 しかし、たとえ賞が獲れなくても、授賞式のあとには竹邉や他のメディア関係者と交流できる懇親会が予定されている。

 今後の作品の書籍化オファーへと繋がる、人脈作りのための会だ。

 しかし……、もう僕にとって、その『書籍化』は、どうでもいい。

 僕が求めているのは、そんなものじゃない。

 僕がただただ欲しているのは、彼女を呪縛から解き放つための、その『機会』。

 もしかしたら、『その人』がその場所へやって来るかもしれない。

 僕は、愛加里さんを縛り付けている呪縛の元凶である『その人』に会い、そして、彼女の想いと僕の願いを、真っ直ぐにぶつけたいんだ。

 その『機会』を得るために、僕は今日、その場所へと臨む……。




【田原さん、いま会場へ向かってます。今日でようやく終わりです。いろいろ気を遣っていただいてありがとうございました】 

 塾を出て、地下鉄駅への道の途中。

 歩きながらそのメッセージを書き終わって送信ボタンへ指を動かしたとき、僕はその異状に気がついた。

 昨日の夜に送ったメッセージが、まだ未読。

 田原さんにしては珍しい。

 もちろん、既読のまま返信が返ってこないことはたまにあるが、このひと月、こんなに未読のままだったことは一度も無い。

 なにか、とんでもなく忙しい仕事でもしているのだろうか。

 そんなことを考えながら、ゆっくりと『アルフヘイム』の扉を開ける。

 小さく鳴ったドアベル。

 その落ち着いた色合いがふわりと僕を包むと、カウンターの向こうで品のいいベスト姿のマスターが柔らかな笑みをくれた。

「いらっしゃい。萩生さん。今日も『ぬくもり』の挽豆でいいですか?」

「あ、いえ、このあと麹町で用事があるんで、ちょっとここで時間調整させてもらっていいですか? 久しぶりにマスターの味を堪能させてください」

「そうですか。ありがとうございます。いつもの席が空いていますよ?」

 促された、馴染みの窓際の席。

 幾度となく、愛加里さんと向かい合って、この席から眺めた僕の青春の街の景色。

 今年も春の装いとなったこの街は、程なく、新たな希望に胸を膨らませた若人たちの姿でいっぱいになる。

 かつての僕と同じ、無知で純粋な、つい先日まで高校生だった若人たちだ。

 彼らは、いつか郷愁と共に呼び起こされるであろう情景の欠片たちを、日々、そうとは知らずに軽々とあちらこちらに置き去りにする。

 僕はいま、やっと少しだけそれに気がつけた。

 そして、もうすぐこの街を離れなければならないといういまになって、僕はそれらをできるだけたくさん拾い集めようなどとあがいているんだ。

 歩き慣れた道。

 聞き慣れたさざめき。

 僕もきっと、ずっと年齢を重ねたあとに、この街の至る所に残してきた想いの欠片を懐かしく感じて目を細めるだろう。

 でも、そのとき、僕の隣には愛加里さんが居て欲しい。

 どうしてそう思うのか、どうしてそんなにも彼女を愛おしく感じるのか、それは僕にも分からない。

 人を愛することとは、いったいなんなのだろう。

 愛加里さんは、それを『相手を想うからこそ、共に歩まないことを選ぶ愛』に求めた。

 彼女が書いた、あの物語。

 あの、奏さんの青春をモデルにした物語は、愛加里さんが理想とする愛の形なのかもしれない。

 実に、潔い自己完結。

 ヒロインはその愛し方を貫いたあとに、あの時代に置き去りにしてきた欠片がそんなにもたくさんあったのだと再認識しつつも、それが『いま』の自分を形作っているのだからそれでいいと自己完結する。

 しかし……、僕が書いた、その遠い続編は違う。

 僕の物語では、想いは『いま』に生きている。

 主人公は、その想いの欠片を拾い集められるのは『いま』しか無いと悟り、そして将来、共にその欠片を眺められるようにと、『いま』、彼女へありったけの想いを注ぐのだ。

 そしてこれこそ……、かつて真に書きたいものを書かずに己に嘘をついていた僕が、壮絶な目覚めを得て雄気堂々と標榜することとした、僕の愛し方だ。

「――大丈夫ですか? 萩生さん。なにか、気を揉むことがありましたか?」

 柔らかな香りとともに、背後からかかった柔和な紳士声。

 振り返ると、トレイの上の『ぬくもり』の湯気の向こうで、マスターの笑顔が揺らいでいた。

「あ、すみません。大丈夫です。ああ、やっぱりマスターが淹れたら香りが違いますね」

「もしかして……、愛加里さんとケンカしましたか? 彼女もほんの少しあなたと同じ瞳をしていましたし」

「え?」

 思わず身を乗り出した。

「えっと……、愛加里さん、ここに来たんですか?」

「はい。ずいぶん久しぶりに、今朝、開店してすぐ。同じくらいの歳の女性とふたりで」

 同じくらいの歳の女性?

 田原さんだろうか。

「いつもとても仲良しだったあなたたちが、最近はまったくふたりで来ないので少し心配していたんです。本当は、こんなふうに別のお客さまのことを話してしまっては喫茶屋失格なのですが……」

 そう言いつつ、『ぬくもり』をそっとテーブルに置いて、その憂いいっぱいの瞳で僕を覗き見上げたマスター。

 僕は小さく笑みを作って、じわりとその瞳を覗き返した。

「ありがとうございます。僕らは大丈夫です。ケンカはしていません。ただ、いまはちょっとだけ想いがすれ違っていますけど……。えっと……、愛加里さん、元気でしたか?」

「はい。以前と変わらない、素敵な笑顔でした。ぜひ、次はふたりでいっしょに笑顔を見せに来てくださいね」

 そう言って、、眉をハの字にしておもむろに背を向けたマスター。

 その背中に、僕は小さく「ありがとうございます」と言葉を投げた。

 愛加里さんはまだ、籠の鳥とはなっていない。

 ちゃんと元気に、あの素敵な笑顔のまま暮らしてくれている。

 僕は、なぜかとりとめもなく笑みが湧いて来て、思わず下を向いた。

 『ぬくもり』に映った、何とも言えないだらしない笑み。

 僕はそれから、マスターが淹れてくれた『ぬくもり』がくゆらす豊かな香りにゆっくりと口を付けて、もう一度、頬に漏れた笑みを噛みしめたんだ。




「今日はようこそお越しくださいました。先生方の席はこちらになります」

 案内されたのは、ちょっとしたアンサンブルにちょうどいい感じの、思ったほど大きくないコンサートホール。

 見ると、どうやら七人の中で僕が最年少のようだ。

 男性が四人、女性が三人。

 皆、それなりにいい身なりで、僕のような大学生崩れの安いスーツ姿は居ない。

 最長老は、この人が竹邉の社長だと言っても皆が信じてしまうほどの風格がある大先輩。

 さすがに年の甲と言うべきか、僕らの緊張を解こうとしてくれているらしく、スタッフや他の先生相手にユーモアを振りまいて場を和ませている。

「おめでとう。ワタルさん?」

 ふと名を呼ばれて大先輩の横顔から視線を戻すと、そこには今回のエントリーに関して最も感謝しなければならない、彼女の姿。

「奏さん! いらしてたんですか」

「ええ。オフィス光風も竹邉とはずいぶん長い付き合いなので。それに、今日はウチの専属ライターも呼ばれているから」

「ああ、そうなのですね。それはおめでとうございます。どなたですか?」

 そう尋ねて、サッと僕以外の二次選考通過者のほうへ目をやる。

 一瞬の間。

 すぐ返って来ると思ったレスポンスが無いことに当惑して、僕はゆっくりと奏さんへと首を戻した。

「えっと……、どうしました?」

「ワタルさん……」

 ぎゅっと寄った、奏さんの眉根。

 思わず息を飲む。

「奏さん?」

「ワタルさん……、何があっても、どんなことが起きても、あなたがずっと大事にして来たその信じる心を忘れてはダメよ? いいかしら」

「え? どういう……ことですか?」

 その吸い込まれそうな美しい瞳は真剣だ。

 思わず言葉を失う。

 信じる心?

 なんのことだろう。

 そういえば、愛加里さんの作品にもその言葉があった。

 奏さんがずっと心の支えにして来たという、その言葉。

『信じる心と夢見る気持ちは忘れないで』

 ふと、深いカーペットを踏む足元に視線を落とす。

 同時にアナウンスが響いた。

「お待たせしました。定時となりましたので、レセプションを始めさせていただきます。皆さま、席にお着きください」

 奏さんが小さく首を傾けて、僕の前から離れる。

 なんとも腑に落ちないまま、僕もゆっくりと踵を返して自席へと臨んだ。

 最前列に並ぶ、二次選考通過者七名。

 名簿の順番どおり右から着座し、末番の僕は最左翼だ。

 この順番がどういう基準で並んでいるのかは分からないが、タイトルやペンネームの五十音順ではなさそう。

 応募締切ギリギリに送った僕が最後なので、おそらくこれは応募順だろう。

 主催者挨拶は、竹邉書房副社長。

 どうやら、この会場に社長の姿は無いらしい。

 挨拶はなんとも形式的。

 その間に二度、カメラのストロボが閃光を放った。

 挨拶している副社長の右後ろ、ステージ上座には並んで座る三人の審査員。 

「では、審査員の三先生方の紹介をさせていただきます。審査委員長を務めてくださったのは、ミステリー作家の高溝和馬先生」

 立ち上がって会釈をしたミステリーの大御所。

 相変わらずの貫禄。

 以前会ったときのような優しいお爺さんの格好ではなく、高級なスーツに身を包み、物書き界の重鎮らしく厳としてそこに居る。

 そしてなぜか、じわりと重鎮が着座した瞬間、その瞳がまっすぐに僕を捉えた。

 小さく、僕にだけ投げられた、その笑み。

 思わず、肩をすくめて会釈をした。

 高溝先生は、僕の顔を覚えていてくれたのだろうか。

 以前、『異世界遁逃譚』の『恒河沙』として一度だけ顔を合せたが、それ以降は会ったことはない。

 御大の弟子となった鬼泪山を通じて、『ちょっとしたスパイ活動』のお願いはしたが、この席に居る『いしずえ翔』が僕だとは、高溝先生は知らないはずだ。

 さっきの奏さんの言もそうだが、どうもにわかに解せない。 

 審査員紹介のあとに続いて、二次選考通過の七作品のタイトルと作者名が、なんとも仰々しくひとつひとつ紹介された。

 改めて聞いたが、やはりどれもそのまま書店に並んでいたとしても遜色無い響き。

 それぞれの作者の想いがいっぱいに詰まっているとすぐに分かる、印象的で豊かな感性に満ちたタイトルばかりだ。

 見ると、隣に座っている六番目の女性作者の手が、膝の上で小さく震えていた。

 なぜか、僕はまったく緊張していない。

 それどころか、授賞式などさっさと終わらせて、早々に懇親会へ進んでくれとまで思っていた。

「それでは、各賞の発表へと移らせていただきます。優秀賞二作品の後、大賞の発表となります」

 しんとした会場。

 隣の手の震えがさらに増す。

 呼ばれた、優秀賞二作品とその作者の名前。

 僕の名は呼ばれない。

 拍手が響き、さっきの大先輩と隣の女性が立ち上がった。

 大先輩はガッツポーズ、隣の女性は「うわぁ」と小さな驚嘆を漏らしている。

 ゆっくりと歩き出すふたり。

 ステージ上では、先ほど挨拶をした竹邉書房の副社長が記念の盾を手にふたりを待っていた。

 その手から盾を受け取ると、優秀賞のふたりは客席のほうへ向き直って僕らへと笑顔を投げた。

 さらに拍手をする。

 ふと気がつくと、僕はまるで他人事のような、なんとも淡々とした気分。

 さらに、盾を授与する役は社長じゃないんだなぁなどと、どうでもいいことを考えていた。

 なんとも滑稽だ。

 ふたりが自席へ戻ったのを確かめて、進行役のマイクが再び響く。

「それでは、大賞の発表です」

 変わらず僕は他人事だったが、一応、そのアナウンスに背筋を伸ばした。

 会場はいよいよしんとする。

「第三十一回竹邉ノベルズ文学賞、大賞は――」

 キインとかすかに鳴ったハウリング。

「――大賞は、『僕が恋した図書館の幽霊』、いしずえ翔先生!」




 寒風蒼々。

 その青空の下、群立するビルを背景にゆらめく水面は、まるでオアシスのよう。

 よく見ると、水面を囲む緑に混じって、ずいぶん可愛らしい花をつけた梅の木が梢を並べていた。

 春を感じる。

 レセプションが終わり、懇親会だと言って案内されたのは、皇居のお堀を西から望むシティーホテル。

 会場の最上階のラウンジバーは、レセプションが行われた隣のビルを見下ろしている。

 弱いアルコールを片手に、入れ替わり立ち替わりに来る社交辞令に笑顔を返しながら窺うように見回すが、お目当ての重要人物の姿は無い。

 色とりどりの料理が置かれたビュッフェテーブルのずっと向こうで、審査委員長の高溝先生を囲む錚々たる竹邉の重役たちの中にも、その姿は無いようだ。

「おめでとうございます。いしずえ先生」

 やや狡猾に周囲を観察していたところに、不意に背後から投げられた柔和な声音。

 ハッとして、笑顔を作って振り返った。

「あ、ありがとうございます」

「初めまして……じゃないですね。僕のこと、分かります? 事務局の山本です。先日は楽しいお話しをありがとうございました」

「ああー、こちらこそ、この前はありがとうございました。……『ソウ』さん」

「あはは、いえいえ、『ハジメ』です」

 端正なビジネススーツから覗く、柔らかな笑顔。 

 厳格な竹邉らしからぬ、なんとも穏やかな雰囲気の、『はじめ』さんだ。

 僕がひとりになるのを待っていたらしい。

「いやー、めでたいです。やっぱり主人公の名前が僕と同じだったのが良かったんでしょう。あはは。もうですね、選考係からいしずえ先生が大賞だって聞いたときは飛び上がって喜んじゃいました」

「ありがとうございます。でも、なんだかまったく実感がなくて」

「いやいや、自信持っていいですよ? 事務局や編集部でも満場一致でいしずえ先生の作品が一番でしたし、高溝先生もイチ押しだったようです。はい、これ僕の名刺」

「そうだったんですね。ところで……、今日は社長さんは来てないんですか?」

「ウチの社長ですか? 秘書室との打ち合わせでは、社長は来ないことになってましたね。ほら、だから会場が平和でしょう?」

 ニヤリと口角を上げたハジメさん。

 思わず笑みが出た。

「どうりで重役さんたちが和やかだと思いました。僕、高溝先生に挨拶したいんですけど、あそこ、行っていいんですかね」

「いいんじゃないですか? だって、大賞受賞の先生ですよ? ドドーンと割り込まなきゃ! あはは。じゃ、あと少しですので、しっかり楽しんでくださいね。ではっ」

 そう言って、ハジメさんはケラケラと笑って背を向けた。

 清々しいほど陽気な人だ。

 見ると、受け取った彼の名刺には、『竹邉書房マーケティング部企画宣伝課 文学賞事務局 局長補佐』とあった。

 見た感じ、三十代前半。

 僕より一〇歳くらい年上だろうか。

 あの年齢で大手竹邉のそれなりのポジションに居るということは、彼はかなり優秀で、おそらく名の通ったエリート大学の出身に違いない。

 しかし、そんなことはまったく感じさせない、あの雰囲気。

 なんだか、僕の母さんにちょっと似ている。

 きっとあの人は、普段はさらに母さんのようなパンパカパーンという感じで――。

「おおーう、ワっタルー!」 

 そんなふうに、ちょっとだけ母さんを思い出していたときに突然響いた、パンパカパーンという、あの声。

 ハッとして振り返る。

 すると、そこには……。

「か……、母さん」

「おっめでとーう! 大賞獲るなんて、やるじゃーん」

 相変わらす、絶対に歳相応には見えないシャープで小柄なシルエット。

 明るいベージュのセットアップが、さらにその姿を若々しく見せている。

「えっと……、どうしてここに居るの?」

「どうしてってぇ、ワタルの運命の人を連れて来たのよー?」

「運命の……、人?」

 ニヤリとした母さん。

 なんだと思って、そのさらに背後へと目をやる。

 するとそこには、長い黒髪の奏さん。

 そして、その隣に……。

「ご……、ご無沙汰。ワタルくん」

「あ、あ、愛加里さん?」

 母さんの後ろからおずおずと顔を覗かせたのは、ずっとずっと会いたいと願っていた、彼女。

 小さな、丸い肩。

 その肩にかかる、柔らかなひとつ結び。

 つぶらな瞳と愛らしい唇はまったく変わっていない。

 僕は、その愛おしい姿に思わず息を飲んだ。

 喧騒の中の、永遠にも思える静寂。

 どうして、彼女がいまここに居るのか。

 どうして、彼女を母さんと奏さんが連れて来たのか。

 それはまったく分からない。

 しかし、僕はすぐにその思考を放棄して、その愛らしい彼女の姿に目を細め、そしてただただ、そこに立ち尽くしたんだ。

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