第11話 お世話するよりお世話されたい、マジで
「えっ」
金曜の夜、自分の部屋で原稿を必死こいて仕上げていたら、自分の部屋で電話をしていた晴久のすっとんきょうな声が聞こえてきた。
「ん?」
『どうしたの?』
通話しながら一緒に作業していた玲ちゃんから質問が飛んでくる。
「いや、なんか晴久の部屋から変な声がして」
『ゴキブリでも出たんじゃない?』
「それはありえる」
退治できないわけではないのだが、晴久は虫が苦手だ。言葉では直接言わないが、遭遇したら「頼むからやってくれ……!」という心の声がヒシヒシと伝わってくる。私は嫌っちゃ嫌だが、やる人がいないならやるタイプなので、今の所虫関係は私の担当になっている。
砕けた喋り方だったので家族の誰かと話していると思われるが、万が一玲ちゃんが言うとおりゴキブリだったら困るので、この間グッズショップでもらった薄い冊子になった広告をひっつかんで丸めておく。
手を止めて耳をすませてみるが、さっきの声以上に聞こえてはこなかった。一体何があったんだ。
しばらくすると扉の開く音がして、私の部屋の扉がノックされた。玲ちゃんに断りを入れ、通話を保留にしてから返事をする。
「はいー?」
回転椅子を回して扉の方に向かって返事をすると、晴久が遠慮がちに扉を開けた。回転椅子に座って丸めた雑誌手に持ってるとか一昔前の映画監督だな。
「すまん、ちょっと相談があるんだが」
「入りたまえ」
大仰に答えると、晴久は部屋の中に入ってきたのだが、
「うっわ汚なっ!?」
部屋の中を見るなり一声叫んだ。
ただいま三週間後のイベントのために原稿修羅場真っ最中なので、床は資料の本が足の踏み場もないくらいとっちらかっている。
お菓子や食べ物類が散乱していないだけまだマシだと自分では思っているのだが、綺麗好きの晴久からしたら由々しき事態らしい。無言で自分の近くの半径一メートル以内をテキパキと片付け始めた。
「で? 何かあったの? ゴキブリ?」
「いや、ゴキブリ出てたらもっと騒いでるって」
面と向かって言うことじゃなくね? と思ったが、話が脱線しそうなのでツッコミをぐっと堪える。
「姉ちゃんから今週の日曜日、義鷹と千鶴の面倒を見てもらえないかって相談されたんだが」
聞けばお義姉さん夫婦は今週末、お義兄さんの親戚の法事があるそうで、当初はお義父さんお義母さんが義鷹くんと千鶴ちゃんの面倒を見ることになっていたそうだが、お義父さんが仕事で休日出勤を頼まれてしまい、お義母さんは妹さんが手術で入院することになってその手伝いに行かなければならなくなったらしい。
おじいちゃんとおばあちゃんでは元気がありあまる子供達の相手は厳しいだろう、ということで白羽の矢が立ったのが晴久らしい。
「さすがに動き回る子供二人を一人で相手にするのは怖いなと思い、助太刀いただきたく……」
普段なら二つ返事で返すところだが、今の私は修羅場ど真ん中の身の上だ。休日一日は金よりも価値がある。
しかしここで断ってしまえば人間として何かが終わる気がする。
「それに千鶴が透子に会いたいって」
「よしどんとこい日曜日」
「…………」
かわいい姪っ子の為なら修羅場ど真ん中の休日すら捧げても惜しくない。
日曜日の朝九時、お義姉さん夫婦に連れられて義鷹くんと千鶴ちゃんが我が家にやって来た。
「おねねしゃーす!」
「……おねがいします」
千鶴ちゃんは相変わらず居酒屋の店員さんみたいになっているが、礼儀正しいことは良いことだ。
「本当にありがとうございます」
「義鷹はともかく千鶴は何をしでかすか分からないので、もしご迷惑をおかけしたらすみません。というか絶対ご迷惑をおかけすると思うので先に謝っておきますすみません」
「…………」
お義姉さん夫婦が二人揃って深々と頭を下げるので、思わず晴久と目を合わせてしまった。
こんなに可愛い顔してどんだけ問題児なんだ千鶴ちゃん。
大人たちの心配をよそに、千鶴ちゃんはキュルンとした目でこちらを見上げている。
幼い兄妹とお義姉さん夫婦を見送り、私たちの子守任務が幕を開けた。
まず、私が立てた作戦は円盤再生作戦、とどのつまりがお気に入りのアニメをかけて集中させちゃおう! というやつである。
この日のためにメイキュートや子供に人気のあるアニメが見れる動画配信サービスに登録しておいた。
母さんから聞いた話では、私が幼い頃はどんなに泣き叫んでいてもパン頭のヒーローが出てくるアニメを流せば、今までのことをすっかり忘れてアニメに夢中になっていたらしい。その頃からオタクの片鱗が垣間見えている。
なので最初の三時間くらいはこれで保つだろうと思っていたのだが……。
「にゃんにゃー!!」
「…………」
千鶴ちゃんはちくわにフォーリンラブしてしまったらしく、テレビになんて見向きもしない。
我が家でちくわを一目見てからずっと後を付いて回っている。ちくわはちくわで子供の相手をする気はサラサラないようで、千鶴ちゃんの手が届かない高い所から見下ろしている。ちくわはしかめっ面がデフォルトだが、いつも以上に表情が険しい気がする。
「ねぇね、にゃんにゃ」
「そうだね、猫ちゃんだねー。ちくわって言うんだよ」
「にゃんにゃ」
「にゃ、にゃんにゃだねぇ」
「にゃんにゃ」
冷蔵庫の上に避難したちくわを見上げる千鶴ちゃんは横にしゃがんだ私のセーターの袖をつかんで何やら訴えている。
おそらくちくわにさわりたいのだと思われるが、ちくわの背後には「断固拒否」の文字が背景に浮かんで見える。
千鶴ちゃんとちくわの間に挟まれてどうにもできず、ひたすら千鶴ちゃんを説得するだけ。
「義鷹は何してるんだ?」
「ゲーム」
「…………」
晴久と義鷹くんの方も先行きが不安そうだ。新入社員とのジェネレーションギャップで踏み込めない上司のようになっている。
私はずっと千鶴ちゃんの横で相槌を打ち、晴久は義鷹くんの隣でよそよそしく素人丸出しの質問を投げかけてはクールに打ち返されている。
こちらとしてはちくわにちょっとでも千鶴ちゃんのお相手していただけないかとも思ったのだが、嫌そうなちくわに我慢してもらうのも違う気がする。かといってこのまま千鶴ちゃんをなだめ続けるのにも限界がある。
しかしこちらの心配をよそに、千鶴ちゃんの興味はちくわから我が家の探検に傾いていった。ちくわは安寧が訪れたことを察したようで、はーやれやれと安心したように冷蔵庫の上で丸くなっている。 千鶴ちゃんとちくわの我慢比べの初戦はちくわの粘りがちで終わった。
さてさて、次の千鶴ちゃんの標的はと言うと、
「ち、ちーちゃん?」
私の部屋の本棚の上に飾っている模造刀だった。
同人誌や資料のための高価な本類はあらかじめクローゼットの中に避難させているが、模造刀は私の身長くらいの高さの本棚の上に刀掛けを設置して安置している。子供の手には到底届かないと思ってそのままにしていたのだが、まさかそこに目をつけるとは思ってもいなかった。
ひいおじいちゃんの血を引いているからだろうか、齢二歳で興味を持つとは渋すぎる。メイキュートの時と良い、相変わらず趣味が大人びていらっしゃる。
「ねぇね」
「う、うん。あれはねぇねの大切なものなの」
「…………」
ちくわの時と同じで目的のものから一切目を離さない
千鶴ちゃんがもう少し大きかったら持たせてあげる所だが、いくら真剣でないとはいえ二歳児に模造刀を持たせるのはあまりにも怖い。
しかし、私と一緒に持てば大丈夫だろうか? 重いので振り回すのは無理だろうし、ルールをちゃんと守ることを教えるのも教育の一環だろうし。あれこれダメの一点張りで遠ざけてばかりでは子供は成長しない。何事も経験が人を育てるのだから。ルールを守って楽しむことが大事なのだ。
「ちーちゃん、ねぇねとのお約束が守れる?」
「まもる!」
「じゃあ特別にあの和泉守兼定を持たせてしんぜよう」
「いじゅじゅのかねしゃ!!」
舌ったらずながらも懸命に和泉守兼定と言おうとしているところに思わずキュンとしてしまう。千鶴ちゃんにかかれば私の和泉守兼定も途端に可愛くなってしまう。
というか本当にこの子歴オタになりそうだ。おじいちゃん(千鶴ちゃんにとってはひいおじいちゃん)が時代劇が好きで〜とかなら微笑ましい話だが、叔母の私がこの道を教えたとなれば色々と問題にならないだろうか。よくも娘をオタクにしてくれたな! とか言いながらお義姉さんお義兄さんが怒鳴り込んでこないだろうかとも思ったが、まぁ、子供の興味は移ろいやすいのでいまは深く考えるのはやめておこう。
膝をついて千鶴ちゃんと目を合わせて、これからの注意事項を確認していく。
「まず、ねぇねと一緒に持つこと」
「あい」
「ぶんぶんしない」
「あい」
「人に向けない」
「あい」
「静かにする」
「あい」
理解できているのかどうかはわからないが、私の言葉に神妙に頷く千鶴ちゃん。
約束事も確認できたことだし、立ち上がって本棚の上に飾ってある模造刀に手を伸ばす。千鶴ちゃんの後ろに回り、彼女の眼前に模造刀を持ってくるとものすごく目をキラキラさせ始めた。
小さな手で柄を握らせてやり、鯉口を切ってスラリと模造刀を抜く。
「!!」
鋭利な光を反射させながら、鞘から美しい姿を見せた刀に千鶴ちゃんの興奮度は最高値まで跳ね上がる。それでも騒いだり飛び跳ねたりせず、静かにその姿を目に焼き付けようとする姿はまさしくオタクのそれだ。
お義姉さん、お義兄さん、娘さんにこのような世界を教えてしまった罪深い私めをどうかお許しください……。おじいちゃんはめちゃくちゃ喜びそうだけど。
模造刀を堪能した千鶴ちゃんはご満悦でリビングに戻った。
リビングの扉を開けると、冷蔵庫から降りてきていたらしいちくわと目が合った。どうやら水を飲みに行くところだったらしい。
「にゃんにゃ!」
ちくわの姿を見た千鶴ちゃんはものすごい機動力でちくわに飛びついた。
びっくりして避けられたなかったのか、はたまた自分が避ければ千鶴ちゃんが怪我をすることを懸念したのか、ちくわは千鶴ちゃんにおとなしく捕まった。
元々おとなしい猫なのであとはもうなされるがままだ。
「ちーちゃん、やさしく、やさしーく、ね?」
私が注意を促すと、目をまん丸にしてパチパチと瞬きをした千鶴ちゃんは、彼女なりの配慮を込めた手つきでちくわを恭しくなで始めた。
すまん、今日の晩御飯は奮発するから、とちくわに心の中で謝った。
「えっ、なんか変なの出てきた! どうすればいいんだ!?」
「それ避けちゃだめだって! 取って取って!」
「マジか!」
一方、晴久と義鷹くんはソファーで大盛り上がりをみせていた。今は晴久が義鷹くんのゲームを借りてプレイしており、義鷹くんが晴久にアドバイスしている。
初心者特有の、ゲームをする時に体が傾く現象を久しぶりに見た。
ゲームに対しては門外漢だが、そこは晴久と言うべきか。この短時間であの義鷹くんが心を開きまくっている。さっきまでジェネレーションギャップに悩まされていたとは到底思えない。違う環境に放り込まれてもものの数分で適応してしまう。
さすがオタク女子に交じってサイリウムを振り、ランダムブロマイドを買う男である。
この適応力なら将来社長も夢じゃない。
お昼も近くなってきたので、昼食を用意しなければならない。あらかじめ何を作るかは晴久と相談して決めていた。
「ちくわには申し訳ないけど本当ありがたいな」
晴久は野菜をみじん切りにしながら晴久がリビングの子供達とちくわを見つめる。今はソファーに座り、二人で一緒にちくわをなでながら用意していたアニメに夢中になっていた。
ちくわは相変わらず不機嫌そうな表情をしているが、千鶴ちゃんの膝の上に餅のように伸びてリラックスはしていた。ちくわが大猫すぎるので、もはやひざ掛けの勢いだ。
昼食のメニューは子供なら誰でも大好きなオムライス。ケチャップで絵もかけるし、アクティビティも楽しめるご飯なんてほかになかなかない。
私達の目論見通り、千鶴ちゃんは目の前に現れた一筋のシワもないツヤツヤのオムライスに目を輝かせた。ちなみにオムライスの卵を巻いたのは晴久だ。私がやると絶対にぐしゃぐしゃになるので、私はチキンライス担当である。
お腹が空いていたのか、ちくわをソファーにおいてテーブルにやってくる。子供達に解放された千載一遇のチャンスを逃さないよう、ちくわは忍び足で安全地帯の冷蔵庫の上に避難した。本当にありがとう。
「にゃんにゃー!」
「お、ちーはにゃんにゃ描くのか?」
千鶴ちゃんは椅子の上に立って意気揚々とケチャップを構えている。まるで年始の特番で巨大書き初め正直嫌な予感しかしないが好きなようにやらせてやるのも教育の一つだろうと、静かに見守ることにした。
結果、千鶴ちゃんの作品は皿どころか机にもはみ出した超大作となった。私には頑張っても猫には見えなかったが、千鶴ちゃん自身は大変満足そうなので良かった。
千鶴ちゃんにも楽しんでもらえたが、以外にもケチャップにこだわったのは義鷹くんの方だった。
「…………」
「…………」
「…………」
まばたき一つせず、息を止めて真剣にケチャップを構えてオムライスと向き合っている姿は、まるでアーティストのドキュメンタリー番組を見ているかのようだ。
大人二人はその様子を固唾を呑んで見守っていたのだが(単にケチャップの順番待ちとも言う)千鶴ちゃんは待ちきれなかったようで口まわりをケチャップだらけにしながらすでにオムライスを堪能していた。
出来上がった作品は見事なひまわりだった。ゴッホのひまわりもかくやと言う素晴らしい出来栄えである。
「すごい……! 写真撮ってもいい!?」
「どーぞ」
相変わらずクールな対応だが、ほんの少し照れ臭そうにしている。
「義鷹にこんな才能があったなんて知らなかったな」
「別に。やるのが好きなだけだよ」
得意なことを「好きなだけ」と言い切るあたりがやはり大人だなぁと感じる。私なんか小さい頃は絵を褒められて「デザイナーに俺はなる!!」って意気込むくらい単純だった。
「好きって気持ちがすでに才能なんだって」
しかしそんなクールな少年に対して遺憾無く天然タラシの才能を発揮する晴久。
営業職には必須の話術なのだが、晴久の場合は天然タラシのため計算や打算がないありのままの褒め言葉だ。これにはクールな義鷹くんも嬉しそうに口をムズムズさせている。
義鷹くんの意外な才能を知った後は、天気もいいので近所の公園に行くことにした。ここで体力を消費させ、一気に昼寝へともつれ込む算段なのである。
安全な冷蔵庫の上から一歩たりとも降りてこなくなったちくわが、「はー、やれやれ」と言いたげな表情で私たちを見送る。外に出ている間、ちくわがゆっくりくつろげたらいいのだが。
「あっっっっっっっつ……」
誤算だったのは暑さだった。
まだ春の半ばくらいなのでむしろ肌寒いかと思っていたら、ところがどっこい。今日は雲ひとつない快晴で、サンサンと輝く太陽に皮膚をジリジリと焼かれ、気分はまるでローストチキンである。真夏日、とまではいかないが、普段空調管理のされた快適な職場で働く大人にとってはキツイ。
子供たち、主に千鶴ちゃんは元気いっぱいに遊具で遊んでいるが、すでに大人組が暑さにやられてぐったりとしている。
義鷹くんはゲームをしているイメージしかなかったので、公園楽しめるかなと心配だったのだが、小学生男子らしく外で遊ぶのも好きなようだ。今はブランコを真剣にこいでいる。
「暑い中外出るだけでこんな体力奪われるものなのか……」
「あんたも私も屋内プレイヤーだもんな……」
「いや、お前は屋内プレイヤーじゃなくてただの休日自宅警備員だろ」
「舞台やイベントには行くからオタクは屋内プレイヤーですぅ」
晴久が珍しく生ぬるい目線を向けてくるが、お互いにそれ以上言い合う元気もないのでそのまま黙った。
今は晴久と二人で頭からタオルを被って日除けにしている。元々は子供たちの汗拭き用に持ってきていたのだが、情けないことに大人組が先にお借りしている。
それにしても晴久がするとスポーツマンの休憩中にしか見えないのに、私がすると農作業の休憩中にしか見えないのがイマイチ解せない。
「義鷹はゲームにしか興味ないと思ってたけど、なんでも卒なくこなすよな」
「永田家の遺伝子を感じるねー。クール系美少年だし小学校ではさぞかしモテてそう」
「幼稚園の時もバレンタイン凄かったみたいだしな」
「マジか」
「本命義理合わせてすでに紙袋一袋分はもらってくるらしい」
永田家の遺伝子本当に怖い。うちの弟なんて高校生の時に部活のマネージャーさん達と母さんからもらった義理チョコがせいぜいだったのに。いや、女子への接し方とか義鷹くん本人の頑張りとかもあるんだろうけど。
「ちーちゃんはあのちっちゃな体にどれだけのパワーを秘めているんだろうねー」
「だなー。あの怖いもの無しでどこでも誰でも突っ込んで行く心臓の太さは見習いたいもんだ」
「晴久でも怖いものってあるんだ」
「そりゃあるさ。初めて行く取引先とかはどうやっても緊張するよ。俺から見れば透子の方が怖いもの無しに見えるけどな」
「ええー? どこが」
「推しの為なら大体のことはどうにかするところとか」
「……否定はできませんな」
子供たちの様子を眺めながらジリジリと太陽に灼かれる。ローストチキンというより直火焼きに切り替わってきているように感じる。
一応帽子を被らせているが、この暑い中よく動き回れるものだ。私も昔は遊んでも疲れ知らずだったし、寝れば翌日には疲れが取れていた。今はイベントの翌日などグロッキー過ぎて目も当てられない。体力が有り余っているうちにたくさん遊んでおけよ……と未来の大人たちに心の中でエールを送っておいた。
「……って、あのジャングルジムはやばくないか!?」
晴久の声で一気に現実に引き戻される。
千鶴ちゃんはいつの間にか結構大きなジャングルジムに挑戦しており、今はジャングルジムの中腹に差し掛かっている。心配した義鷹くんが横について何やら説得しているようだが、頑として聞かずうんしょうんしょとジャングルジムをよじ登っている。二歳で挑むにははちょっと大物すぎると思うのだが、彼女にとってはそんなこと問題ではないらしい。
落ちたら一大事だ。
晴久と二人で血相を変えて義鷹くんと千鶴ちゃんの元へと走った。多分、私は人生で一番速い瞬間だったと思う。
公園から帰ってきておやつのアイスを食べると、当初のもくろみ通り二人はウトウトして昼寝をし始めた。
私たちが帰ってきた時から警戒して冷蔵庫の上から降りてこなかったちくわは、二人が寝入ったのを見計らって忍び足で静かに床に降りてきた。
大人二人もようやくここで一息つけた。ダイニングテーブルのいつもの席に座り、二人揃ってテーブルに突っ伏す。子供たちのおやつのついでにアイスコーヒーを入れたが、疲れのあまり一気に飲み過ぎてグラスはすでに空だ。お代わりを注ぎに行く元気すらない。
「子供の世話って本当大変だな」
氷の残ったグラスをカラカラと揺らしながらつぶやいた。
「でも義鷹くんが大人っぽかったからまだ楽な方だったと思うよー。医院にくる子供たちはもっとアグレッシブな子が多いし」
いつもと違う場所ということでテンションが上がる子は多い。この間なんか走り回ってこけて棚に頭をぶつけて大泣きしていた子もいた。お母さんの治療が終わるまで泣き止まない子もいて、そういう時は手の空いているスタッフがあやしたり抱っこしたりするのだが、それで泣き止む子は三割くらいだ。見ず知らずの奴にだっこされて「誠に遺憾である!!」と言わんばかりに更にギャン泣きする場合もあるし、どうにか逃れようとイキのいい魚のように暴れる子もいる。
それを考えると今日の我々の子守ミッションはまだ優しいレベルだっただろうが、それでも何をやらかすか分からないハラハラ感がずっとあって気が全く休まらない。
私たちは今日1日だけなので、家事は明日以降に回せばいいが、お母さんの多くは子守と家事を並行してこなさなければならない。
今日一日、子守に加えて家事をするような余裕は到底なかった。強いていうなら今のこの時間なのだろうが、ライフポイントの回復が間に合わないのでそれどころじゃない。
「子育てって本当大変なんだなって今日痛いほど分かった。私には絶対無理だわ」
自分のことすらチャランポランなのに、人を育てるなんて無理ゲーにもほどがある。
「俺も子供は好きだけど、自分が育てるとなるとなぁ。正直俺は怖いかな」
「一生サポート役でいたい。いや、ズルいのは分かってるんだけどさ、人間向き不向きあるじゃん? 私は働いて子供やお母さんが生きやすい環境を作り出すことと経済を回して景気回復に専念したいね」
後者はほぼ自分の為だが、ここぞとばかりに正当化しておく。
「というか晴久の方は『子供まだなの?』系の話とか振られないの。私たまに言われて殴りたくなる衝動抑えるのに必死なんだけど」
「俺の方もたまに言われるぞ。結婚よりもデリケートな話だからあんまりあからさまには言われないけど、酒の席とかでは言われるな」
「相変わらずみんな人の生き方に興味津々だな」
結婚もデリケートな話なのだからもっと遠慮して欲しいものだ。もういっそ人と話すときは推しの話以外しちゃいけません法案とか可決して欲しい。
「人の数だけ生き方に答えがあるんだからほっといてくれって思うよね。私の推しが尊いように、他の誰かの推しも変わらず尊いんだよ」
「……いいこと言ってるのにたとえがオタク過ぎて素直に感動できないんだが」
「すんませんね」
オタク相手なら泣きながら頷くところなのに惜しい奴め。
夕方になって子供達が起き出したころ、偉大なるお義姉さんとお義兄さんが迎えにやってきた。
「本当に助かったわー! 大丈夫だった?」
「なんとか」
「…………」
まさか幼児に模造刀握らせましたとも言えず、私は愛想笑いしかできなかった。
義鷹くんと千鶴ちゃんはまだ眠いのか、まぶたをこすりながら玄関にやってきた。
「よしくん、ちー、家に帰るよ。ハルと透子ちゃんにありがとう言おっか」
お義姉さんの言葉に二人が頷き、義鷹くんが先に眠そうな声で「ありがとうございました」と言いながら頭を下げる。この子の中身は本当は大人なんですと言われても納得できる。
お義姉さんはまだぼんやりとしている千鶴ちゃんの背中をぽん、と押すと、よたよたとこちらに向かって歩いてくる。
どうするのかと目線を合わせてしゃがむと、千鶴ちゃんが両手を広げて首根っこに抱きついてきた。私の後には晴久にも同じように抱きついて、お義姉さんのところに戻っていく。
「……天使がいた」
呆然とした晴久のつぶやきは、思わず自分がポロリと言ってしまったのかと思ったほど私も同じことを考えていた。
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