第10話 負けられない戦い




 平日の夜、夕ご飯の後にソファーで仰向けに寝っ転がってスマホをいじっていたらちくわがお腹の上に乗ってきた。好きにさせていたらそのままお腹の上に居座わって寝始めた。超重量級のちくわがお腹に乗ると普通に息苦しい。

 しかしどかせたりするのも面倒なので息苦しさを我慢してそのままスマホをいじっていたら、母さんから電話がかかってきた。

 びっくりして手が滑理、顔面にスマホが落ちて来る。鼻にぶつかってめっちゃ痛い。風呂上がりの晴久が冷蔵庫からビールを持って来ていたところだったので、思いっきりその瞬間を見られて吹き出していた。おのれ。

 ちくわは迷惑そうな顔をしてお腹の上から降りていった。「敷布団が動いてんじゃねーよ」って顔してた。お前は私のことをなんだと思ってるんだ。

「……もしもし」

『あ、透子? 今大丈夫?』

「大丈夫じゃないけど大丈夫」

『どっちよ』

 母の容赦ないツッコミが飛んで来る。

 鼻をさすりながら体を起こしてソファーの上であぐらをかく。

「どうしたの? なんかあった?」

『雅臣が捻挫しちゃって』

「なんで」

 運動をしていた学生時代ならともかく、今は普通の会社員だ。そんな捻挫するイベントはあまりないはずだが。

『昨日職場の飲み会から帰って来る時に駅の階段のてっぺんから落っこちたのよ』

「うわぁ……」

 階段のてっぺんから落ちて捻挫だけで済むってすごい強運の持ち主である。

『人様を巻き込まなくて本当よかったんだけどね、ちょっと困ったことになっちゃって』

 弟の捻挫でわざわざ私に連絡して来るような母親ではない。連絡してきた時点で何かあるんだろうなとは薄々察していた。

『今週の土曜日に町民運動会があるのよ』

「そういえばそんな季節か」

 私の実家の地域では町主催の運動会が春に、学校主催の運動会が秋に行われる。秋の運動会は小学校が主催なので小学生しか参加できないが、春の町民運動会は町が主催で、小学生のみの競技と地区対抗の競技に別れており、地区対抗用の競技は町内の人間なら誰でも参加できる。

 たまに町民の親戚や知り合いが飛び入りで参加したりもするが、それもスカウト力の一つとみなされる。

 そんなわけで町内に住む老若男女が町内の威信をかけてしのぎを削る、年に一度のお祭りである。

 若い世代の人口が減っているのと、地域のイベントにあまり興味を持たないということもあって働き盛りで最も体力がある二十代三十代の選手はどの地域もかなり貴重だ。

 たまに運動会をはじめ地域のイベントに心血を注ぐような人種はいるが、今のご時世圧倒的少数だ。お父さんや近所の人に頼み込まれて実家ぐらしの子供を夕飯で釣る(時には脅す)お母さん方もいるとかいないとか。

 私は運動は可もなく不可もなくといったところなのと、弟の雅臣が実家ぐらしで元野球部ということもあり、そういった行事ごとは弟の役割だった。大人になってから私が町民運動会に参加したことはない。

『今年はお父さんが町内会の役員をしてる関係で雅臣がいくつか競技に出る予定だったんだけど、とても出られそうになくって』

「だろうね。で? 私に出ろって?」

『違うわよ』

 あれ? と肩透かしを食らった気持ちになった。告白してないのにフラれた、みたいな。

『お父さんが晴久くんに頼めないか透子に聞いてくれって』

 実の娘より義理の息子。

 まぁそりゃ男手が欲しいわな。少々さみしい気持ちになるが致し方あるまい。

「聞くだけ聞いてみるけど、確か今週の土曜は出勤って言ってた気がする」

『その時は仕方ないから透子でいいわ』

「へいへい」

 生まれて四半世紀も経てば実の親の雑な扱いにも慣れて来るというものだ。

 スマホを少し耳から離して、ビールをあおりながらテレビのチャンネルを回していた晴久に声をかけ、かいつまんで状況を説明する。

「昼くらいには仕事終わると思うから、それでよければ運動会出るぞ?」

「マジか」

「おう。お義父さんとお義母さん困ってんだろ? 息子として役に立ちたいしな」

「お前マジで光属性だな」

 こういう所は本当すごいと思うが、私は絶対真似できない。

「もしもし母さん? 晴久が昼からなら大丈夫って」

『本当!? まー、晴久くんありがとう! 持つべきものはイケメンの息子ね!』

「イケメン関係なくね?」

 私のツッコミはまるっときれいに無視された。

 聞けば晴久に出て欲しかったのは町内会競技の花形である地区対抗リレーらしい。

 午前中の競技も出場予定だったようで、午前の競技は私が代役をつとめることとなった。パン食い競争とのことなので私でも大丈夫だろうと母さんに言われたのだが、なんともいえない気持ちになったのはいうまでもない。




 運動会当日、天気は雲ひとつない快晴。

 春先なので天気が不安だったが、綺麗に晴れてよかった。

 運動会は日除けのためのテントを地区ごとに設営するので、町内会役員は開会式の一時間前に集合することになっている。

 つまり朝の八時に小学校集合だ。寝坊すると後が怖いので、前日に実家に帰ってきて泊まり、父さんと一緒に小学校へ向かう。母さんはお弁当係なので、弁当が整い次第の集合となる。

「はー、今日晴久くんと会うなんて緊張するなぁ……」

「…………」

 雲ひとつない空を見上げながら、父さんが感慨深げにつぶやいている。昨日からこの調子で、最初こそはいい歳したおっさんが女子中学生みたいで気持ち悪いな、とか思っていたがもうそろそろ飽きた。

 結婚式以来も両親と晴久はちょこちょこ会ってはいるのだが、両親は未だに晴久に慣れないらしい。まぁ私も晴久の実家は美形ばっかりで慣れない。

 町民運動会が開かれる小学校は私の母校である。私が卒業した後に校舎を新しく建て直したようで全く馴染みのないものだが、体育館やいくつかの遊具は私が小学校に通っていた時のものそのままで少しだけなつかしさを感じることができた。

 小学校のグラウンドの空には万国旗が下げられ、トラックを囲うように各地区の人が集まってテントの設営を始めている。

「おー、透子ちゃん久しぶりだなぁ!」

 うちの地区のテントのところへ向かうと、顔見知りのおじさんとおばさんに声をかけられる。

「透子ちゃん、この間結婚したんだよな? おめでとさん」

「はぁ」

 普通の奥さんならはにかみながら「ありがとうございます」と言う所だろうが、私には到底無理な話なのでぬるっとした返事をするしかできない。

 元々覇気のない(推しに関すること以外)人間なので、昔から私と言う人間を知っているおじさんおばさんは特に気にしていない。

「透子ちゃんのお父さんが『義理の息子がイケメンすぎて腰抜かした』って言ってから、今日噂の旦那さん見れるのが楽しみでなぁ」

 じと、と父さんの方を見ると、父さんはあさっての方向を見ている。

「一体どうやってそんなイケメンの旦那捕まえたんだ?」

「大学時代の同級生だっただけです」

 今の時点では「イケメン」について半信半疑といったところだろうが、晴久がきたらそれどころじゃなくなるだろうな。絶対詐欺を疑われる。

「ご飯は毎日透子ちゃんが作ってるの?」

「いえ、早く帰った方が適当に作ってますけど」

「料理ができる旦那さんなんて羨ましいわぁー。うちの旦那なんて料理も洗濯もお掃除もしないんだから!」

「あははは……」

 当たり前だが私たちは夫婦ではなく同居人なので基本自分のことは自分でするようにしている。状況だけ聞けば家事に協力的なイマドキの夫像として羨ましがられるが、実際は夫婦ではないのだから妙な話である。

「お仕事もまだ続けてるの?」

「家にいるのは性に合わないので」

 ダラダラするのは好きだし、働かずに金が欲しいとは常々思っているけど、相応の対価をもらって推しに貢ぎたい。我ながら難儀な性格だ。

 というか惜しみなく推しに貢ぎたいから働きに出るのである。

「仕事と家事両立するの大変でしょう? 子供ができたらもっと大変よー」

「あはははははは」

 そんな事態は永遠にやってこないので安心していただきたい。

 おじさんおばさんとの世間話と詮索を適当にかわしながらテントの設営を進める。熟練の町内会役員の的確な指示もあって、テントは比較的スムーズに設営できた。私は言われるがまま支柱を支え、テントの天幕の紐を蝶々結びしていただけだが。

 テントの設営が終わる頃には小学生たちも登校して来ていた。休みの日に早起きをしたなんとなくシャキッとできない大人たちのだらりとした雰囲気とは打って変わって、活気のあふれる雰囲気が徐々に満ちて来る。

 にぎやかになり始めて来たところで放送席の機器の準備も整ったようだ。運動会っぽいBGMも流れ始め、ああいよいよ運動会なんだなとなんとなく気分も盛り上がって来たような気もする。

 九時になるとグラウンドは子供達でワイワイと賑わい、先生方や町内会の役員さんたちが開会式の準備に忙しそうだ。

 うちの父さんも役員の仕事があると言うことで本部の方へ行ってしまった。

「透子ちゃん!」

 テントの中に敷かれたゴザに座ってグラウンドの様子をぼんやりと見つめていたが、スマホを開こうとしていたら後ろから名前を呼ばれた。

「莉乃ちゃん?」

 振り返ると小中の同級生がキラッキラした笑顔でゴザに膝をついてこちらに手を振っていた。

私に向かってハイテンションで振って来る左手の薬指には銀色の指輪が光っており、彼女の後ろには旦那さんと旦那さんに抱っこされたお子さんがいた。旦那さんが軽く頭を下げて挨拶してくれたのでこちらも軽く会釈しておく。

 ちゃんと結婚してお子さんもいて、すげぇなという感想しか出てこない。自分自身まだまだ精神的には小学三年生くらいの気分なので、同級生が結婚して子供がいるという事実に未だ驚いてしまう。

「運動会来るなら言ってくれればいいのにー!」

「あー……うん、はは……」

 私の記憶の中では中学を卒業してから彼女と一度も連絡を取った覚えがない。というか在学中もそんなに親しく話した覚えがそもそもないが、彼女の中で私は親しい友達認定をされていたのだろうか。リア充の友達の感覚よく分からん。

 向こうは久しぶりの再会でテンションが上がっているんだろうが、私はテンションについてもいけないし、懐かしい思い出もさほどない。

 どちらかというと、あまり良くない思い出しかないのだが、大勢の人がいる中でそれを言うのも大人げないので曖昧に笑っておく。

 中学生の時、莉乃ちゃんから好きな人が一緒になってしまった相手の悪口を聞かされた。私は彼女の悪口の相手に特に面識もなく、ぶっちゃけて言うとどうでもよかったので内容を肯定も否定もせず聞いていたら、なぜか同意したとみなされたらしい。

 一週間後、二人が言い争いをした時、莉乃ちゃんが私も彼女の悪口を言っていたと言ったそうだ。

 中学生という多感なお年頃にあまり知らない人間が自分の悪口を言っていたと聞かされたら、そりゃあ頭に血も上るだろう。

 私は彼女と彼女のオトモダチに呼び出され、吊るし上げられたというわけだ。

 重要なのは莉乃ちゃんに悪意があったかどうか。単純に言葉の捉え違いで私も彼女の悪口を言っていると思ったのか、それとも否定しないのをいいことに自分の都合のいいように解釈したのか。

 莉乃ちゃんは常日頃からニコニコして人当たり良く振る舞うので前者のように思えるが、それからも何回か同じようなことをやらかしていたので完全に黒だと私は思っている。

 面と向かってやり合うのも疲れるので、なるべく関わり合いにならないようにしてそのままフェードアウトしたが、まさかここで再会するとは。

 私が言えたことではないが中身も大人になっていることを願うばかりである。

「弟が怪我して代わりに出る事になったから」

「えっ、大丈夫なの?」

 目をまん丸にして莉乃ちゃんが心配そうな表情を浮かべる。

「大丈夫大丈夫。軽い捻挫だから全然大した事ない」

「そうなんだ。でもお大事にね」

 表情を見るに心から心配してくれているのが分かる。分かるからこそ、悪意のない振る舞いに頭が痛いのだ。

「また後で話そうねー」

 そう言って莉乃ちゃんは手を振って旦那さんとお子さんの元へと小走りで駆けていく。

 幸せを絵にしたらまさにあんな感じなんだろうな、とその光景を眺めながら思う。

 いつもつるんでいるのは職場の人か大学の友人だ。地元の友達に会うのは久しぶりなので、こんなやり取りを今日はあと何回繰り返すのだろうと思うとため息しか出なかった。




 運動会が始まってしばらくは小学生たちの競技だったので大人たちはのんびりと協議の様子を見守っている。

「お待たせー。それにしても暑いわねー!」

「おつかれ」

 重箱を持って現れた母さんは手で扇ぎながらテントの下に入って来る。朝は肌寒かったのだが、日が昇りきった今は結構暑くて日向にいると汗ばむくらいだ。

「朝から揚げ物なんて何年ぶりかしらね。暑くてやってらんないわ」

「冷食じゃなくて揚げたの? なんでまたそんな張り切ったの」

「晴久くんが来るんだから当たり前でしょ。あんたたちだけなら冷食よ」

「…………」

 扱いの差がひどい。まぁそりゃあ婿にいい顔はしたいんだろうなとは理解できるが、せめてオブラート一枚くらいは使って欲しい。

「雅臣は?」

「今昔の担任の先生に捕まって説教されてる」

 どこまでも不憫な奴め。

 公立の小学校で先生の転勤もあるのだが、雅臣の担任だった先生は一度転勤してまたこの小学校に戻ってきたらしい。

 晴久といえば先ほどスマホにメッセージが来ており、少し早めに出社したそうだ。うまくいけば早めに行けるかも、と書かれていた。

 一応晴久のTシャツと短パン、スニーカーを持って来てこっちでも着替えられるようにしているが、果たして間に合うだろうか。

 晴久が間に合わなければもちろん私が代走する事になる。冷静になって考えると大して足も速くないのに大勢の前で走るとか恥ずかしすぎるので、晴久には何の問題もなく無事到着してもらいたい。

「母さん置いていくなよー!」

 松葉杖をついた雅臣がひょこひょこと歩きながらやってくる。とうに成人を迎えているというのに実に情けない台詞である。

「あんた家でおとなしくしてた方がよかったんじゃないの?」

 片足で難儀しながら雅臣があぐらをかいてゴザに座る。

「何言ってんだ。義兄の勇姿を見届けなくちゃだろ」

 キリッとキメ顔で言われた。

 うちの男どもは晴久のこと好きすぎないか? なんかあれだ。中高生の時かっこいい女の先輩に憧れる女子生徒みたいな感じに似ている。

 立派なおっさんとおっさんに片足突っ込みかけた男二人だが大丈夫だろうか。

 いや、人はいついかなる時も、どんな性別であろうとオトメゴコロを持ち合わせる生き物である。例えおっさんであろうと推しを推すのは自由だ。

 そうこうしているうちに私の出番であるパン食い競争の時間が近づいて来て、選手の招集アナウンスが流れている。

「それじゃあ私行ってくるわ」

「一発で仕留めて来いよー」

 私は狩りにでも行くのか。




 あまり走力を必要とするものでもなく、場を盛り上げるレクリエーションの意味合いも強いパン食い競争の選手層はバラエティー豊かな感じだった。

 待機中にくじを引かされて出走する組とレーンを決める。

 私が引いたのは三組目の第四レーンだった。

「あ」

「あ、透子ちゃん!」

 私の前の組の同じレーンを引き当てたのは莉乃ちゃんだったようだ。ニコニコと笑ってこちらに手を振ってくるのでヒラヒラと手を振っておく。

 ここでげ、と顔をゆがめなかった私は偉い。

 組が揃ったら前に詰めて座って行くので、必然的に莉乃ちゃんと距離が近くなる。

「透子ちゃんもパン食い競争出るんだー」

「ははは」

「私は一〇〇〇メートル走出たかったんだけどね、旦那に止められちゃって」

「へーそうなんだー」

 確かに莉乃ちゃんは運動神経が良く、学生の時もよく選抜リレーの選手になっていたのでパン食い競争に出るのは意外だった。

 私はたとえ頼まれても一〇〇〇メートルなんて走りたくないので、本当人種が違うなと感じる。結果不問で五万円くれるなら考えないでもないが。

 ただの報告なのか、それともアンタとは格が違うんだからねとマウントを取りにきているのか判断しかねる。

 それから莉乃ちゃんの近況を一つ二つ聞いて相槌を打っていたら入場の時間となった。十数年ぶりに会ったというのに話題が尽きないのもすごいな。

 ようやく莉乃ちゃんから解放され、やれやれと肩の荷が下がる思いがする。

 トラック内に誘導され、自分の順番が来るまで大人しく待つ。

 待っている間に先の組の様子を観察して作戦を立てることにした。

 竿に吊るされたパンは一種類ではなく、メロンパンやアンパン、クリームパンもあればチョココロネ、クロワッサンと種類豊富だ。

 パンはどれを食べて良いそうなので今からどれを狙うかめちゃくちゃ迷う。

 個人的な第一希望はクリームパンなのだが、競技を有利に進めるなら他より長さがあって食いつきやすいチョココロネやクロワッサンを狙ったほうが良さそうだ。

 しかしほかの参加者もそう考えるだろうし、どうしたものか。単純な競技だが、単純だからこそ高度な心理戦が絡んで来るのだと初めて知った。

 しかも簡単そうに見えてみんな以外と苦戦している。上を向いてジャンプするのは運動不足の社会人にとって結構な苦行のようで、最初の方に取れなければよれよれになりながら重力を感じるジャンプでなんとかパンに食らいつこうと苦戦している。あまりにも取れなければ係の人がだんだんと竿を下げてくれるのがまたほろ苦さを感じた。

 私は体力に全く自信がないので、一番体力があって高さの期待できる一発目のジャンプに全てを賭けるのが得策だろう。

 とりあえずチョコが食べたいのでチョココロネにするか。

「じゃあ行ってくるね」

 莉乃ちゃんに声をかけられてハッと意識が戻った。

 一組目がゴールしたので二組目がレーンに入る。

 二組目は一組目の様子を見ていたお陰か、意外と早く決着がついた。莉乃ちゃんは二位の旗を持っており、クロワッサンを愛らしくかじっている。いつでもどこでも本当に隙がない。

「じゃあ次の人達レーンに入ってくださーい」

 係員の声かけによっこらせ、と重い腰を上げる。

 三組目は私と、親と同じくらいの歳のおじさんおばさん、そしておばあちゃんと中学生男子だ。

 一位の本命はもちろん中学生男子だろう。新一年生なのか着ている中学校のジャージは真新しく、まだ着られている感があった。まだ体は華奢で身長はかろうじて私の方がまだ高い。そして面構えが完全にインテリだ。つまり運動は苦手そう。

 これが中学校三年生とかなら勝敗は明らかだが、もしかしたら良い勝負ができるのではなかろうか。

 私は三レーンに入り、中学生男子は隣の二レーンだ。

「位置について、よーい……」

 スターターの乾いた破裂音が響き、全員が一斉に走り出す。

 目指すはチョココロネ。最初の一発が勝負だ。チョココロネめがけて、必死に走る。目測で多分あと三歩。ありったけの力を三歩に込めて、思いっきり踏み切った。

 その瞬間、

「うぐっ!!??」

 どんっ、と体に衝撃が走る。びっくりして踏ん張ることもできずその場にひっくり返った。

「!?!?!?」

 尻餅をついた状態で周りを見ると、私と同じように中学生男子がひっくり返っている。

 多分、二人揃ってチョココロネに向かって突進してぶつかった。

「ご、ごめん! 大丈夫!?」

「すすすすすみません!! すみません!!!!」

 頭と腰をさすりながら互いに頭を下げ合う。

 一緒に走っていたほかの大人たちもびっくりしたようで、競技を中断して私たちを助け起こしてくれる。

 中学生男子とペコペコと頭を下げ合い、そして全員で仲良くパンの下に行って順番にゆずりあってパンを取った。チョココロネは最年少の中学生男子に譲り、逆にゴールはおばあちゃんから年功序列にした。ちなみに私は二番目にパンを選ばせてもらえたので、ありがたくクリームパンをいただいた。

 爆笑と拍手の中、私のパン食い競争は幕を閉じたのである。

「透子ちゃんすごかったよー! 他の人と打ち合わせてやったのかと思っちゃったくらい!」

 トラック内で待機していた莉乃ちゃんが走り寄ってくる。もう自分としては恥ずかしいやら情けないやらで乾いた笑いしか出てこない。

 地区のテントに戻ったら顔見知りの近所の人には爆笑され、家族からは「周りを見て走りなさい」と説教された。

 競技は特に大きなアクシデントもなく、無事お昼を迎えた。それぞれの家族で車座を組んで弁当を広げている。

 我が家も母の力作と言うだけあって唐揚げに卵焼き、ポテトサラダにミートボール、あとは大人しかいないため煮しめや焼き魚なんかも入っている。

 たまに実家に帰って母の料理を食べることはあるが、母お手製のお弁当なんて高校生の時以来だ。いつもの食事と手順や味付けはあまり変わらないはずだが、お弁当になった途端また違った特別感を感じる。

「晴久くんは?」

「電車が遅延してるって」

 仕事は無事終わったらしいが、こちらに向かう電車が車両トラブルで大幅に遅延しているらしい。午後の競技までには間に合うと思うとメッセージが来ていた。

「お昼間に合うかしら。晴久くんの分よけとかないと」

 そう言って母さんは空いたタッパーにおかずを詰め始める。マジで至れり尽くせりだな。

 昼休憩が終わり、午後の競技が開始される。

 晴久が出場予定の地区対抗リレーは午後の部の中盤に予定されており、そろそろ出場者の招集がアナウンスされる頃合いだ。

 晴久が来なければ私が走るしかないのだが、土壇場になって嫌だなぁと言う気持ちがムクムクと盛り上がってきた。

 だって、花形とも言われる競技で私が上位に食い込めるはずがない。周回遅れで冷ややかな視線を送られるしか想像がつかなかった。

 リレーに出る他のメンバー四人もそろそろ準備を整えて、ストレッチを始めている。

 さすがに焦って来て晴久から連絡がこないかスマホを片手に周囲を伺っていると、

「透子!!」

 スーツ姿の晴久が鞄を抱えて走って来た。

「晴久くん!!」

「晴久くん!!」

「義兄さん!!」

 走り寄ってくる晴久に対して、うちの家族は待ち合わせに遅れてやって来た片思いの相手が来た時のような感動っぷりだ。

 声をあげて走ってくるので、なんだなんだと周りの注目を集めてしまう。

「間に合った!?」

「ギリギリセーフ」

 どこから走ってきたのか知らないが、額にうっすら汗をにじませて息を切らしている様子では今からもう一度全力疾走できる感じには見えない。

「お義父さん、お義母さん、雅臣くん、ご無沙汰してます」

「晴久くんお仕事お疲れ様。ごめんなさいね、こんなこと頼んじゃって」

「いえいえお安い御用ですよー。雅臣くんは足大丈夫か?」

「お義兄さん本当ありがとうございます……! 足はもうツバつけとけば治るんでご心配なく!」

 晴久はゴザに膝をついてうちの家族に挨拶をする。怪我をしている雅臣は胡座をかいているが、うちの父さん母さんはゴザの上で正座してペコペコと頭を下げるのでなんだか絵面が時代劇の殿様と農民みたいだ。

「ていうか晴久どっから走ってきたの。汗の量すごくない?」

「いやー、走ってきたのは駅からなんだが、道迷ってさ。かれこれ三十分くらい走り回ってた」

 三十分も走り回れる体力があるのがすごい。というか三十分も迷う前に電話かけなよとも思ったが。

「今から走るの大丈夫なの」

「一本だけだしいけるいける。そういえばお前こそ大丈夫か? 結構派手に転んでただろ」

 不意に聞かれてとっさになんのことを言われているのか分からなかったが、数秒遅れてあのパン食い競争のことだと思い至った。

「貴様がなぜそれを知っている!?」

「雅臣くんが動画送ってくれたんだよ。電車の中で危うく吹き出すところだった」

 スーツの胸ポケットに入れていたスマホを取り出して操作する晴久。ほい、と渡されたスマホを見ると、パン食い競争の様子が流れていた。

 改めて見るとやらかした当人ですら事前に打ち合わせたのか? という完璧なタイミングで男子中学生とぶつかっていた。

「年末のホームビデオ大賞にでも送るか?」

「誰が送るか」

 そう言いながら晴久は私に鞄を預け、上着も脱いでその上に乗せていく。

「着替える時間ある?」

「もう招集始まってるから無理かも」

「分かった。靴だけ変えるわ」

「あいよ」

 持ってきていたスニーカーを晴久の足元に出す。ネクタイをほどいた晴久は、隣にいる私の肩を掴んで革靴からスニーカーに履き替えた。トントンとつま先で地面を軽く叩き、シャツの袖口のボタンも外して二、三回まくり、よし、と頷く。ほどいたネクタイを折りたたんで渡してくるので、大人しく受け取り、無くさないよう上着のポケットに突っ込んでおく。

「他のメンバーの人が連れて行ってくれるから、みんなに付いてって。遅くなってすみません、この人が雅臣の代理でリレー走ります」

 リレーメンバーの一人である近所の顔見知りのおじさんに頼めば、おじさんはぽかんとした表情を浮かべてこちらを見つめていた。まるで魂を抜かれたようにぼんやりしている。

「お、おう。兄ちゃんこっちだ」

「よろしくお願いします」

 晴久がお得意の営業スマイルでおじさんに微笑むと、周りが息を呑んだ。うちの父さんと母さん、雅臣もだ。

 他の参加者の方々はタジタジになりながらみんなを引き連れて入退場の門へと向かう。

 晴久たちの背中を見送ってホッと息をつく。なんとか間に合って本当よかった。

「いやぁ、すっげぇべっぴんな旦那さんだなぁー……」

 朝話していたおじさんが魂を抜かれたようにぼんやりしながらつぶやいた。

「モデルか俳優さんでもやってんのか?」

「いや、普通の会社員ですよ」

 普通の会社員ではあるが、色々と普通でないのは私も重々承知している。

「あんな美人と生活してたら、不意に目があった時心臓止まりそうになるだろ」

「もう慣れましたよ。顔がいいこと以外は普通の人と対して変わりませんし」

「いやいやいや、顔がいい時点で普通とは違うからな。あそこだけ後光がすごいぞ」

 おじさんが晴久の方を指差す。確かに人に紛れていてもよく分かるが、背が高いのと一人だけスーツ姿だからじゃなかろうか。

「でも、透子ちゃんもちゃんと若奥さんしてるのねぇ。旦那さんと息ぴったりでびっくりしちゃった」

「あはははははは」

 感心したようなおばさんの言葉にはただただ笑うしかない。

 あれは学生時代のマネージャー業の名残だ。若奥様の成分などこれっぽっちも入っていない。否定したいところだが立場上できないので笑ってごまかすしかないのが辛すぎる。

 いくら自分たちで偽っているとはいえ、人が感じる印象と本質ってこんなにも違うんだなと改めて感じた。

 今まであまり考えたことなかったけど、第三者から見れば私と晴久ってめっちゃナチュラルにいちゃついているように見えてないか? 違いは仲のいい友達という認識しかないので同性の友達にすることとあまり変わりがないが、『夫婦』という肩書きがつけば見え方が変わってくるように思われる。

 今までの行いを省みて背筋が薄ら寒くなった。これからの行いは十分気をつけようと心に固く誓った。

 地区対抗リレーのメンバーはほぼ男性だ。たまに女性もいるが見るからに足が速そうで、本当に晴久が来てくれて良かったと胸をなでおろす。

 おじさんたちで話し合った結果、晴久がアンカーになったようだ。リレーメンバーの中では晴久が最年少なのでそりゃそうなるわな。

 いい年をした大人たちが「自分は本気じゃないんで」みたいな風を装って目だけがギラギラしているのがなんとも面白い。

 インドア派の私にとってはやはり競技はやるより見て人間観察をしている方が性に合っている。

 リレーは全部で三組あり、うちの地区は二組目に走るようだ。

 早速一組目が出走したのだが、子供達の競技とは違うおもしろさがある。

 小学生より体力は劣るものの、大人が本気で走るとやはり迫力があるので会場も盛り上がるが、大人の大半が運動不足だ。走り方がどこかぎこちないし、ちょっとした段差でつまづいて派手に転倒する人もいる。

 大人になって転ぶというのもなかなかないのでめちゃくちゃ痛い。子供達は大人が転ぶのを見てきゃーっと盛り上がっているが、大人としては翌週の仕事に響きそうで見ていて怖い。

 結果一組目は三人が転倒し、大混戦を極めた。やはり子供に比べて転倒する確率が高いように思う。

「昔は大人のリレー見て転けてたら面白がってたけどさ、大人になって同じ立場として見たら怖すぎる……」

 現在進行形で捻挫をして困っている雅臣は、怪我で他の人に迷惑を身にしみているらしく、しみじみとつぶやいた。あんたの場合は自業自得だよとつっこむのはさすがにかわいそうかと思って言葉を飲み込んだ。

 確かに私たちが小学生の頃は転ぶ大人を見てめちゃくちゃ笑っていた記憶があるが、今は恐怖しか感じない。

 子供って無邪気だけど時に残酷だよな。(ただ単に私と雅臣が残酷だったという可能性もあるが)

 そして二組目、いよいようちの地区が出走する。

 第一走者は特に速さに差もなく、団子状態で第二走者へバトンが渡る。少々差がついてきて、うちの地区は七人中五位になった。だが、まだまだどうなるか分からない。

 そして第三走者にバトンが渡った時に事態は動いた。

 一人の走者が先頭に躍り出る。

 誰だろうと目を凝らせば、莉乃ちゃんの旦那さんだ。確かに体つきもしっかりしていてスポーツマンっぽいなとは思っていたが、やはり選手要員だったか。

 莉乃ちゃんの旦那さんは他を大きく突き放し、アンカーへとバトンを渡す。こうなるともう追い上げは不可能かと思ったが、晴久はやはりできる男であった。

 第三走者からバトンを受け取った晴久は、あっという間に後方集団を飛び出す。そして先頭を走っていた選手の背中をアッサリと捕らえた。

「うおおおおお!!!!??」

「いっけえええ!!!!」

 うちの地区のテントは大盛り上がりだ。思わず私も固唾を飲んで勝負の行方を見守った。

 ここから見る限りではゴールはほぼ二人同時で、どっちが先にゴールしたかやきもきしていたら、審判の先生が一位の旗を晴久に渡した。

 その瞬間、みんな近くにいる人と手を取り合ったり抱き合ったりして喜びを爆発させる。

 晴久やリレーの選手たちが帰ってくると、主に盛り上がりすぎて感極まったおじさん達がリレー選手をハグしにいく。

「晴久くんありがとうありがとう……!」

 うちの父さんは涙ぐんで拝み出す始末だ。横で母さんと雅臣も拝んでいる。

「いえいえ、お役に立ててよかったです」

 苦笑しながら晴久がやんわりと三人を止めるが、他の人も拝み出すのでもはや宗教の教祖みたいになって近くの人たちが遠巻きに見ている。

「あ! さっきの!」

 晴久が新しい宗教を開いていた時、莉乃ちゃんの旦那さんが通りかかって晴久に声をかける。近くで見ると二の腕の筋肉もやばい。信徒をひょいひょいと軽い身のこなしで避けて、晴久のところにやってきた。

「すごい速かったですねー! 来年は是非直接対決してみたいです!」

「いやいや、一緒に走ったら絶対俺負けますよ」

 初対面のはずなのに陽キャ同士ガッチリと握手を交わしている。

 ニコニコ握手をしていたら、隣で気配を消していた私に気づいたようで目を丸く見開いた。

「あれっ、莉乃の同級生の」

「あー、はい。小鳥遊……いえ、永田です」

 私が自己紹介をしているのを見て次は晴久が目を丸くさせた。

「え、透子の知り合いなのか?」

「同級生の旦那さん。朝にお会いしてて」

 知り合いのような知り合いじゃないような微妙な関係が一番困る。向こうは向こうで朝に会った奥さんの同級生が晴久の嫁という事実についていけていないようでぽかんとしていた。

「テツくん!」

 そんな三者三様の戸惑いを知ってかしらずか、子供を抱えた莉乃ちゃんがやってきた。

「お疲れさまー! 勝てなかったのは残念だけど、テツくんすっごい速かった! えっ、さっきのアンカーの人ですよね!?」

 あんたは相変わらず清々しいまでに空気を読まないな。今はそのおかげで強引に話が進むのでありがたいが。

「えっと……」

 晴久が戸惑いながら私の方を見てくる。やめろ、と言いたいところだが、口に出せるわけがない。

 晴久の仕草で莉乃ちゃんはようやく私の存在に気付いたらしく、え、と口が半笑いの形になっている。

「透子ちゃん? え、この人とお知り合いなの?」

「知り合いというかしゅ、主人です……」

 昔の大して仲良くもない知り合いに身内を紹介するのは控えめに言って地獄だ。もう早く帰りたい。

「初めまして、透子がいつもお世話になっております」

 私がタジタジになりながら紹介すると、晴久がお得意の営業スマイルで挨拶をする。

 今度は莉乃ちゃんの方がタジタジになりながら、さりげなく私の左手と晴久の左手に視線を向けたのが分かった。

 いや、言いたいことはわかりますよ。わかりますけど、確認行為はもう少しわかりにくくやっていただきたいものである。

「いえ、こちらこそ透子ちゃんにはいつもお世話になってます」

 しかし莉乃ちゃんもさすがと行ったところか、にっこりと笑って挨拶を返す。いや、いつもお世話した覚えないんだけどという言葉は出さない。

「もー、結婚したなら早く言ってよー! 水臭いなー!」

「ごめんごめんあはははは」

 早くこの時間をどうにかしたくて愛想笑いが止まらなかった。





 結局うちの地区は総合三位という結果で今年の町民運動会は幕を下ろした。

「いやー、女の戦いって感じで超怖かったなー」

「あんたは面白がってただけでしょ」

 呑気に言う晴久をじとりと睨みつける。

 今日は奮発してお寿司の出前を取ろうと母が言うので、おとなしくご相伴に預かることにした。

 やっぱりあの微妙な空気を分かっていたらしく、一人で慌てていた私がなんだかアホらしく思えてきた。

「女の人特有だよな、ああいうマウントの取り方は」

「あれさえなかったらいい子なんだけどねー。しかも無自覚でやってるところがまた救えない」

「御愁傷様」

 面倒ごとを避けるためにも来年の出場は見合わせて欲しいものだが、父さんや地区の人から出場要請が出るだろうからそれは難しい。

 来年こそ運動会の日は丸一日仕事か出張に行って欲しいと心の底から願った。

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