第13話 一人と二人で違うこと




 朝起きてからずっと体がしんどい。

 ここ数日は春から夏へ季節が移り変わっている最中で、あったかくなったり寒くなったりしている。クーラーも付けたりしているので時々寒すぎたりして温度調節が大変だった。

 そんな季節の移り変わりについていけず風邪気味だったのだが、本格的に風邪を引いたようだ。

 できれば仕事を休みたいが、急な休みで周りに迷惑をかけるのが申し訳ない。何より給料が減るのが惜しい。オタクは自分のためでなく推しのためにお仕事をしているのだ。推しのための給料が減ることは何より辛い。

 一応熱を測ってみたら三七度一部といった微妙な結果だった。自分の平常時の体温は平均並みなので、熱があるとはいえ微熱の域だ。

 これで三八度とかなら潔く諦めて休めるのだが、平熱ならばなんだかズル休みしている気になってしまって逆に心が休まらない難儀な性格である。

 このままうだうだしているわけにもいかないので、服を着替えてリビングに向かう。

「なんかしんどそうだな?」

 リビングでニュースを見ながらトーストをかじっていた晴久が首を傾げる。

「多分風邪引いた」

 そう返している間にも鼻水がたり、と垂れてきたのでズビッと鼻をすすった。

 朝はお互い忙しいということもあって別々に用意している。いつもなら晴久と同じようにトーストを食べたりするのだが、体調が悪いこともあって買い置きしておいたゼリー飲料で空腹を誤魔化した。

 ちくわはもう朝分の餌を平らげたようで、窓の近くで丸くなって日光浴をしている。

「大丈夫なのか?」

「まぁ、今日行けば明日休みだし」

 これが週初めとかならもう少しやすみたい気持ちが大きくなっていただろうが、今日頑張れば、と思うと休みにくい。

「無理しないようにしとけよー。もう無理が効かない年なんだからさ」

 いいこと言ってんのに一言多い。まぁ事実なので大人しく聞いておいた。

 確かに最近は風邪が治りかけて薬を飲むのをやめたらぶり返して、を二、三回繰り返してしまう。昔は治っていたのに、多分体力や免疫力が落ちてきているんだろうなぁと思い知らされる。




 出勤したはいいものの、刻一刻としんどさが増してくる。

 しんどい中仕事をしているのだから精神的にも参ってくるというものだ。

「ちょっと、小鳥遊さん大丈夫?」

「多分……」

 朝から職場のいろんな人に声をかけられる。大丈夫ですと言い切れないのが情けないが、もう強がれる力すら残っていない。

「熱はないの?」

「朝測ったらなかったので……」

 先輩と同僚に呆れた表情を向けられた。

「もう一回測ってみよう? 時間経ってるし悪化してるかも」

「いやいや、これで熱なかったら恥ずかし……」

「測りなさい」

「ウス」

 笑顔だが有無を言わせぬ強い口調で言われて頷くしかない。

 受付裏にあるカルテ庫に押し込まれて、大人しく熱を測る。

 体温計が鳴ったので、恐る恐る温度を確認すると、

「うわぁ」

 三八度五分。

 この数字を見ただけで頭がくらりとした。

「どうだった?」

 先輩がひょっこり覗き込んでくるのでそのまま見せると、先輩はさらに笑みを深めた。

「家、帰ろっか」

「はい」

 最早家に帰って寝れることにホッとしてしまった。人間何事も素直さと諦めの良さが大切だ。




 職場からはもったいないけどタクシーを使って帰ってきた。とてもじゃないが自転車を漕いで帰れそうにはなかった。

 なんだか家に近づくごとに気が遠くなる。職場にいた時もまぁまぁしんどかったけれど、気が張っていたのかまだマシだったように思う。

 エントランスから部屋までの、いつもはなんてことない距離が果てしなく遠い。頼むから誰か抱えていってくれないかな……。とすら思った。

 最後の方は壁伝いに歩き、倒れこむように玄関に入った。いつもならまだ誰も帰ってこない時間帯。物音がしたことに異変を察したらしいちくわが、のそりのそりとリビングからやってくる。

「ただいま……」

 ちくわも可愛い所あるじゃないか、と思っていたら、私の確認をしたちくわはこちらに来ることなくリビングに踵を返した。クールにもほどがあるだろ。

 大雑把に化粧を落とし、パジャマに着替えてさっさと布団に潜り込む。ようやく張っていた気が抜けたからか、より一層体が重く感じる。

 ようやく休める安心感にホッとして、泥のような眠りに身を任せた。




 物音が耳をかすめて目が覚めた。

 何かと思えば扉をノックする音で、晴久が扉の向こうから「おーい」と呑気に話しかけている。

 寝たおかげでいくらか楽になった気もするけど、まだまだ熱っぽいし体はだるい。

 パジャマの上に高校ジャージの上着を着て、花粉症対策用に買っておいたマスクをつけて扉を開けた。

「なんかあったの」

 扉の向こうではスーツの上着を脱いだ晴久が、私の姿を見て目を丸くさせている。足元にはちくわがでーんと座っていた。

「いや、家に帰ってきたらちくわがお前の部屋の前で座ってるし、どうしたのかと思ってさ。早退してきたのか?」

「もう死にそう」

 私の地を這うような低い声に動じることもなく、晴久はあらま、と呑気に声をもらした。

 しかしあんなに興味なさそうにリビングに戻って行ったと言うのに、私を心配してくれていたちくわに感動してしまった。お前は良い人なのに言動がぶっきらぼうで損する典型的なタイプだな?

「病院は?」

「多分普通の風邪だと思うし、明日熱が下がらなかったら行く」

 薬をもらいに行っても良いが、普通の風邪ならきちんと食べて寝て免疫をあげたら治るものだ。病院に行くのもしんどいので、とりあえず病院に行くのは様子を見てからだ。

「今からなんか作るからそれまで寝とけ。起こして悪かったな」

「恩にきる……」

「気にすんなって。ちゃんとあったかくして寝とけよ」

 一人暮らしの時は体調が悪くても料理を自分で作らないといけなかったり、そもそも食材がなくて熱が下がったタイミングで買い物に行き、帰ってきて疲労でさらに熱を上げるというのを繰り返していたので、こういう時人と一緒に暮らしていてよかったなと思ってしまう。

 晴久を拝んで部屋に戻り、もう一度ベッドに潜り込む。

 一度私の体温であったまっていたので、寝心地のいい場所を確保できれば眠りに落ちるのは秒だった。

「おーい、メシできたぞー」

 再び扉越しに声をかけられて目が覚めた。ジャージとマスクを装備してリビングに向かう。

「ほれ、座れ座れ」

 お茶とコップを持った晴久に急かされて、いつもの自分の席に着く。

「簡単なもので悪いけど、どうぞ」

 そう言ってキッチンから持ってきたのは一人用の小さな土鍋だ。グツグツと鍋の中が煮える音と、ふわりと漂ってくる出汁の香り。

 体が弱ると食べたくなるうどんだ。しかも月見入り。もうそろそろ夏だが、やはり暖かい食べ物はホッとする。

「晴久はお母さんだったか」

「お前を産んだ覚えはないんだがなぁ」

 苦笑しながら晴久は大皿を持ってくる。流石に私と同じうどんでは足りないと感じたのか、大きなお好み焼きを作ったようだ。

 いつもならソースたっぷりのお好み焼きに目を輝かせるところだが、今は体調がよくないせいかうどんの方が魅力的に見える。

「いただきます」

「どうぞめしあがれ」

 手を合わせてうどんに口をつける。ほかほかとあたたかく、つるりと喉越しがいい。普段も美味しいが、病気の時ほど美味しく感じる不思議な食べ物である。

 食欲がなかったものの、結局ペロリと平らげてしまった。

「そんだけ食欲あればあとはよく寝れば治るな」

「うむ」

 腹が満たされホッとした。

 忘れないうちに薬を飲んでおく。

「片付けもやっとくからそのままにしておいて」

「でも作ってもらって片付けもしてもらうとか」

「病人は寝るのが仕事! ほら行った行った」

 しっしと犬をあしらうようにされてしまうが、しんどかったのでありがたく甘えておくことにする。

「もう今日は早く寝ろよ。ベッドでスマホ見るのもほどほどにしておけ」

「へーい」

 もはや同居人というよりお母さんである。

 そしてなぜかちくわも一緒に部屋に入ってきた。私の枕元に丸くなってくわりとあくびをする。ちくわはいつも寝る時はリビングの猫用ベッドで寝ているのに、なんで今日はこっちにくるんだ。この重量級猫を抱えてリビングに行くのも大変だし、特に害も無さそうなので好きにさせておくことにした。

 ちょっと体調が回復したこともあってベッドに寝転がりながら気分転換にSNSでも……と思ってスマホを触っていたら、ちくわがじとーっとこちらを見つめてきているのが分かった。暗闇の中で光る画面が気になるのか、「早く消せよ。お前病人だろうが」というクレームが見えた気がした。

 ちくわの視線も痛いので、スマホを消しておとなしく布団に潜り込んだ。




 次の日の朝は熱で苦しくて起きた。しっかり起きるまでも夜中に何度かしんどくて目が覚めていたので寝た気がしない。

 寝た時は枕元で丸くなっていたちくわはドアの前でおすわりしてドアが開くのを待っている。多分お腹が空いているのだと思われる。

 枕元に置いていた体温計で熱を測ると三八度二部と出て、この時点で私の中で本日の病院行きが確定した。一晩頑張って下がらないのなら、これ以上自力で粘っても体力と時間を消耗するだけだ。こうなったら薬の力に頼りたい。課金して時間を買うのと同じ原理である。

 昨日と同じようにジャージとマスクを装備して部屋を出た。私が扉を開けたと同時にちくわが足元をスルリとすり抜けてリビングへの道を先導する。

「おはよ。調子はどうだ?」

 リビングにはいつも通りスーツ姿の晴久がちくわにごはんをあげていた。

「はよ……。だめ、熱下がんないから病院行くわ……」

「会社行くついでに病院送って行こうか?」

「マジでありがとうございます」

 本当に晴久様様である。ご利益があるかと思って一応拝んでおいた。

 朝ごはんはあまり食べられそうになかったが、何も食べないのは良くないのでとりあえずカップスープでごまかしておく。

 子供なら病院へ行くのにもパジャマでもいいのだろうが、大人はそういうわけにはいかないので、長袖Tシャツにパーカー、ジーパンという休日の大学生みたいな格好で晴久の車の助手席に乗り込んだ。

「あー……気持ち悪い……」

「大丈夫か? 吐くなら窓の外にしろよー」

 寝起きノーメイクのボサボサ髪で助手席でうめく。確かに車内で吐こうものなら地獄以外の何ものでもないが、声かけが少々事務的すぎやしないだろうか。

 車酔いしやすい体質ではないのだが、体調が悪い時の車って本当最悪だ。帰りはタクシーなので、色々我慢できるか不安になってくる。

「帰りは気をつけて帰れよ」

「ウス。仕事前に本当ありがとう」

「いいっていいって。冷蔵庫に食べられそうなもの入れておいたから、食欲ある時はそれ食べとけよ」

 ひらひらと手を振りながら晴久が笑う。本当お前ってやつはできた男だし、優しさでできてるな……! と改めて晴久のハイスペックさを痛感した。

 晴久が病院に行くことになった時は私が必ず送り届けると心に誓った。免許取ってから一度も運転してないペーパードライバーだけど。

 かかりつけ医で診てもらったら、やはり風邪だったので薬をもらって帰りはタクシーで家に帰った。

 家に帰ると、いつもなら出迎えなんてしないちくわが玄関に座って出迎えてくれた。保護しなければならない存在だと思われているのかもしれないが、種族の違うちくわに心配されて心がジーンとする。

 手洗いうがいをして、晴久が用意してくれていた桃缶を昼ごはんに食べ、処方してもらった薬を飲んでぐっすりと眠った。




 薬がよく効いて熱が下がり、ぐっと眠れたおかげか二日目はだいぶんスッキリした。やっぱり課金ってすごいなと思った。

 おかげでなんとか働ける程度にまで回復し、熱が出た余韻かまだ怠い感じは残っているがまぁ許容範囲だろう。

 ちなみにスマホやパソコンをいじろうとしたら相変わらずちくわが何か言いたそうに見つめてきていたたまれなくなったので、久しぶりにスマホやパソコンに触れない二日間となった。

 熱が出ている間はあれだけごはんを食べる時膝に乗ってきていたのに、一回も乗りにこなかった。

 飼い主の晴久に似て気遣いのできる猫だな。

 着替えを整えてリビングに行くと、いつも通り晴久がトーストをかじってニュースを見ている。

「はよ」

「おー、おはよ。体調は?」

「熱も下がったし大丈夫」

 自分の分のパンをトースターに突っ込んで電気ケトルに水を入れてセットする。

 昨日も朝は食欲がなかったのでプリンを食べていたが、今日は大丈夫そうだ。むしろお腹すいた。

 トーストとお湯ができる前に、やらなければならないことがある。

 いつもの定位置である晴久の前の椅子に姿勢を正して座り、深々と頭を下げた。

「今回は本当に助かりました。ありがとうございました」

「どうしたんだ改まって」

 顔を上げると晴久は目を丸くして鳩が豆鉄砲をくらったような表情を浮かべていた。

「今までたくさん晴久には助けてもらってきてたんだなぁって身にしみて実感しました」

 私の言葉に晴久はぷっと吹き出した。

「一緒に住んでるんだからそれくらいはするって。俺が体調悪かったらお前だって多分世話焼くよ。困ってる時はお互い様だろ」

 そりゃあそうだけど、やってもらった立場の人間としては申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「この間晴久親知らず抜いた時、もっと優しく声かけすればよかったと後悔したくらいに優しさがしみた」

 懺悔の言葉に晴久は爆笑した。朝から元気だな。

 現金な話だが自分が弱っているときに優しくされると、元気だった時に働いてきた悪行を思い出してしまう。

 元気になったら晴久や世の中の役に立てるように頑張ります、と心の中で何度も誓った。

「いや、あの時もご飯は透子が当分作ってくれてただろ。親知らず抜いてる最中はマジでコイツ血も涙もないなとか思ったけど」

「大変申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げて当時の非礼を詫びる。

「お互いに助け合って補い合うのが友達で夫婦だろ。俺らに恋や愛はないけど、困ってたら助けたいって気持ちは当然だと思うけど?」

 そう、私たちの間に恋や愛はない。

 唯一無二の友人と、夫。私自身と周りが捉える晴久の立場は違う。でも、名前が違うだけだ。互いに助け合うことは普通の夫婦となんら変わらない。

 男が女に優しくしたら、女が男に優しくしたら下心があると周りに思われる。そこに愛や恋がないと人に優しくできないのは違うし、人の数だけ形があっていいと昔から私は思っていた。

 自分が理解できないものを自分が知っている形にはめたくなる気持ちも分かる。私も自由でいたいがためにその形にはまった。

 理解できない人がいるのは当たり前だ。だって自分は自分でしかなく、どこまで行っても他人にはなれない。

 私が異性に対しての恋愛感情が理解できないように、異性の友情が成立することが理解できない人もいるだろう。

 でも、どちらも間違いじゃないし、否定し合うべきでもない。どちらが尊いか決めるべきでもない。どっちも大切なことに変わりはないのだから。

 晴久のなんてことない言葉で、結婚する前からモヤモヤとしていたものが一気に晴れた。

「どうした?」

 一時停止している私を晴久が不思議そうに見つめて来る。

「晴久って本当いいやつだなぁって思っただけ」

 私の言葉に晴久は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。そしてぷっと吹き出した。

「なんだ、今更分かったのか?」

 晴久は頬杖をついてにっこりと笑う。

 その絵面の完璧さに思わずため息がこぼれた。

「次はどうしたんだよ」

「あんただけならここで月9のテーマソングが流れそうなんだけどねー。相手が私じゃ間抜けなシーンにしかならないから大変申し訳ないなって思ったの」

「お前はどこのディレクターだよ」

 晴久のツッコミで次は私が吹き出した。

 私たちの間に恋や愛はない。

 でも、笑いならいつも二人の間にあふれている。

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【角川文庫・魔法のiらんどCOMICS原作】結婚独身貴族 朝比奈夕菜 @asahinayuuna

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