第5話 怖いもの知らずの男




「おー、気合い入ってんなぁ」

 風呂から上がってきた晴久が髪をガシガシと拭きながらリビングに入って来る。

 今日は先に風呂に入らせてもらったので、今はスキンケアを入念にしてトドメのパックをしていた。お義姉さんがいるからか、晴久は私のパック姿を見ても全く動じない。

 明日は楽しみにしていた大好きな漫画、『花恋男子はなこいだんし』の舞台を観に行く。

 ただ舞台を観に行くだけじゃなくて、特別な日にめいいっぱいおしゃれをして行くのも楽しみの一つだ。もちろん服装は推しを連想させるようなコーディネートかつ、一般人に紛れてもおかしくないものを目指すのが楽しい。気分は世を忍んで城下町に出かける殿様のようなものだろうか。

「一般の方に『あんなブサイクしか応援しないんだ。かわいそう』とか思われたくないからね……!」

 珍しく気合の入っている私を見て晴久は不思議そうな表情を浮かべている。

「オタクの行動理念って時々斜め上だよなぁ。そこは推しにかわいいって思われたいとかでいいんじゃないのか?」

「推しに認識されるとか恐ろしすぎて無理」

 リア充の思考回路マジで怖いな。

 推しとはもはや宗教である。

 よく「付き合えないのに好きでいる意味ある?」とか「推しとは結婚できないんだよ」とか言われるけれど、少なくとも私は推しと付き合いたいとか結婚したいとかは一ミリたりとも思ったことはない。そんな事態になったら初日でときめき死してしまう自信がある。私も長生きしたい。

 私が察するに、リア充の「好き」のジャンルは一つしかないらしく、推し=好きな人という公式になってしまうらしい。

 オタクは現実と二次元をごちゃ混ぜにするとかよく言われるが、どっちかというと現実と二次元を混ぜているのはオタク以外の人種のような気がしてならない。まぜるな危険と言いたいのはこっちの方である。

 それに万が一、億が一にでも奇跡が十連発くらい起こって推しと付き合えるということになっても、私みたいな女を推しが選んだ時点で解釈違いである。

 推しにはふさわしい伴侶を見つけてもらい、ぜひ幸せになってもらいたい。

 私がブンブンと頭を振っていると、釈然としない表情の晴久は冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出した。私も飲みたい所だが、明日のために我慢我慢。

 缶ビールの存在を忘れる為に無心になってスマホでSNSを見ていると、明日一緒に舞台を観に行くオタク友達の玲ちゃんからメッセージが入った。

 興奮しすぎて眠れないのか? とニヤニヤしながらメッセージを開いた私は、突然絶望の淵に落とされることとなった。

「ん? どうしたんだ? 推しの新規絵か?」

 スマホを投げて後ろのソファーに倒れこんだところに晴久が声をかけて来る。

「……一緒に行く予定だった友達がインフルエンザに罹ったって連絡が来た」

「うわ」

 メッセージではインフルエンザに罹って明日の舞台に行けないことを激しく詫びていた。自分のチケット代は必ず後日支払うということ、一人にさせてしまって申し訳ないが明日の舞台を楽しんできて欲しいという文面が綴られていた。

「一緒に舞台に行けないことがすごく辛いし、一瞬彼女の体調を心配する前にチケット代どうしようとか思ってしまった自分が汚くて辛い……」

 向こうは体調がすこぶる悪いのに連絡をくれて私の事ばかりを心配していた。私といえば自分の事ばかり。本当人間としてどうかと思う。

 晴久が缶ビールを片手に眉間にシワを寄せて顎に手を当てて思案顔をしている。

「チケット代どうしようかと思ったことはどうにもできないが、」

 グサッと脳天に鋭利なナイフが刺さった心地がした。

「舞台に一緒に行くくらいならできるぞ?」

 ソファーの横にやってきた晴久が私の顔を覗き込んで親指で自分を指していた。




 席を空席にするのはなんとしても避けたかったのだが、残念ながら周りのオタクで今回の舞台の原作漫画を知っている人がいない。SNSで行きたい人を募るというのも考えたが、見ず知らずの人と行くのは緊張するし、それは最終手段としていた。

 様々な選択肢を検討した結果、原作漫画を一ミリも知らない晴久を同行者とすることにしたので、最終手段はまぬがれた。まぁなぜか本人が思った以上に楽しみにしているので罪悪感は薄まったし、インフルエンザに罹ったオタク友達に観に行けなかった舞台のチケット代を払わせずにも済んだのでよかった。

 晴久は初めてのものに全く物怖じしない。人が楽しそうにしていることにはなんでも興味を示す。

 だが、人が楽しそうにしているところを見たり聞いたりするのは好きだが、自分で興味の穴を掘り進める熱量はない。多分晴久にオタクの素質があったら大変なことになっていただろう。

 今日のメイクの行程はいつもの三倍。普段なら櫛でとかすだけの髪はヘアアイロンでくるりと内巻きにしている。

 もともとそんなに見目やファッションを気にする性質ではないが、同人即売会や舞台などのイベントごとに行くようになって気にするようになった。むしろこういう時にしか見目を整えようという気にはならない。

 念入りな準備を終えてリビングに出ると、晴久が一足先に準備を終えてソファーで私が貸した舞台の原作漫画を読んで復習していた。

 一見するとアンニュイな表情で純文学の本でも読んでいそうだが、今彼が読んでいるのがキラッキラの学園モノの少女漫画である。

 こちらを見ると、晴久は目をぱちぱと瞬かせる。

「透子ってピンクの服とか持ってたんだな」

 的確なコメントにぐぅの音も出ない。

 今日の私の服装は白のブラウスに淡い桜色のアシンメトリーのロングプリーツスカートを合わせている。ブラウスは元々持っていたものだが、プリーツスカートは今回の舞台のチケットが取れた時に買ったものだ。

 普段の服でピンクなんて絶対に着ない。

「……これだから察しの良い男は嫌いなんだ」

「よせよ照れるだろ」

「褒めてねぇって」

 今日私がなぜピンクの服をわざわざ選んだのかと言うと、推しのイメージカラーだから以外に理由はない。

 見る人が見れば誰推しなのかは一目瞭然。

 推しの色なら今まで苦手だった色でも身に付けることが苦痛でなくなる。推しの存在は実に偉大だ。




 会場へは晴久が車を出してくれた。これまた普段なら履かない少し踵の高いパンプスを履いていたので、車で行けるのは正直嬉しかった。

 車中のBGMは前回の舞台で使用された楽曲集だ。これは晴久が作品についてできるだけ勉強しておきたいから貸してくれと言われて貸したCDである。私としては推しを布教しやすいので嬉しいところだが、もはや勤勉すぎて怖い。

 最寄りのコインパーキングに車を停めて劇場に向かう。

「透子の推しの桜庭くんの好きなものがハンバーグで、柊野くんがアイス、菊田くんが餃子だっけ?」

「そうそう」

「あと藤田くんが生麩で、百合原くんが牛タン」

 なぜ推しの好きな食べ物の話をしているかというと、好きな食べ物のことを歌った曲があるからだ。

 ファンの中でも人気の高い曲で、毎回出演するメンバーが変わっても歌詞をその時の公演メンバーに合わせて変えて披露している。人気の定番曲なので今回の新作でも歌われるはずだ。だからこの曲を優先的に覚えてもらったのである。

 一日もなかったというのに、晴久は持ち前の頭脳で今日の出演メンバーに関する基本的な情報はほぼ完璧に覚えてきた。頭がいい人って本当怖い。

 情報の整理をしながら会場のホールへ向かっていると、だんだんといかにもな女性たちの姿が多くなってきた。

「えっと、あの人が藤田くん推しで、あの人が菊田くん推し、か?」

「そうそう」

 身に付けている服装で人の推しすら把握しつつある。

「そしてあれが噂に聞く痛バ……」

「凝視するのやめなさい。あんた特に目立つんだから」

 同じ種類の缶バッチをカバン一面につけているのを見た晴久は、物珍しさに目の前を過って行く女性のカバンを凝視している。

 私があまりオタクグッズを前面に押し出すタイプではないので、初めて見る様々なタイプのオタクたちに晴久は興味津々だ。

「本当女の園って感じだな」

「ジャンルが女性向けだからね」

 女子校ではないが周りはほぼ女性だ。たまに男性の姿も見えるが、皆女性と一緒。付き添いっぽい人もいれば、興奮したように隣の女性と話している人もいる。果たして晴久はどちらに見えるのだろうか。

 数少ない男性陣は目立つが、やはり晴久は群を抜いている。

 しかし周りの女性たちは一度こちらを見るものの、すぐに興味をなくしたように自分たちの話に没頭して行く。いくら晴久といえども、推しを前にしたファンにとってはただの男だ。

 今まで女性の集団の中で無事でいた試しがあまりない晴久は、不思議そうな表情で周りを見渡している。晴久にとってこれほど無害な女性の集団はないだろう。

 女性たちの流れに乗ってホールに入場すると、入口の近くに設けられていた物販のスペースが人でごった返していた。

「私物販買ってくるけど、どうする? 向こうに自販とベンチあるからそこで待ってる?」

「いや、俺もなんか買いたいし物販並ぶ」

 この男の適応力本当怖い。

「何買うの」

「パンフレットととペンライトとランダムブロマイド? っていうの買おうかと思ってるんだけど。ブロマイドって何が出るか分からないんだろ? 楽しそうだよな」

 パンフレットとペンライトまでは分かるが、昨日まで初心者だった男がランブロに手をだすとはものすごい成長率である。

 それにオタク達の間でランダムブロマイドは自分の生活費とのせめぎあいの戦だというのに、それを楽しそうと言ってのけるとは恐れ入る。

 買いたいと言っているのを止めるのもなんだし、一緒に物販の列に並んだ。

「透子はやっぱり王太くん狙いか?」

「うむ」

 今は右手に神経を集中させてここ最近の善行を並べ立て、神様に祈っている最中である。車が来てなくても赤信号は渡らなかったし、いっぱいになったゴミ袋は粘らず率先して新しいものに替えた。

 それぞれ空いたレジに誘導され、目当てのものを買ったあとに落ち合った。私の手元を見た晴久はギョッとした。

「お前それ何枚買ったんだ!?」

「二十枚だけどそれが何か?」

 私はパンフレットペンライト、ランダムブロマイド二十枚にランダムアクスタ三つ、そしてトートバックを購入した。

 信じられないものを見るような目でこちらを見てくるが、近くのレジに並んでいたお姉さんの「ランダムブロマイド五十枚お願いします」という言葉を聞いて何も言わなくなった。上を見てしまえば私の購入枚数など些細なものだ。

 買ったものを落としたり曲げたりしないよう注意を払いながら自分たちの席に座る。舞台からは少し遠いが、一番大きな花道のド真ん前のド真ん中という良席である。

「はー……ドキドキする……」

 拝みながらランダムブロマイドの開封の儀式を始める。そんな私を晴久は大変そうだなぁと呑気にながめていた。

 震える指先で、銀色の袋からそろりそろりとブロマイドを引っ張り出す。

「うっ……!」

 五センチほど引き出した所で中身を察してしまった。私の求めている桜庭王太ではなく、柊野秀一だった。ハズレではない。決してハズレではないのだが、お察しいただけるだろうかこの複雑なオタク心を。

「頑張れ! まだ十九枚あるだろ!」

「具体的な数字を言うな!」

 今の自分の財政状況で買えるだけの枚数を買ったつもりだが、それでも心もとない。

 晴久に励まされながらブロマイドを開封していくが一向に推しは出て来ず。

 そしてついに未開封のものが最後の一枚になってしまった。

「……げ、元気出せよ!」

「まだ一枚残ってるでしょ!?」

 なぜかさっきと立場が逆になっている。

 諦めたらそこで試合終了なんだよ! と心の中で折れそうな自分の心を鼓舞する。

 最早最初の頃のためらいなど消え、一刻も早くトドメを刺して欲しくてさっさと最後の一枚を袋から引っ張り出した。

「…………」

「…………」

 最後に出てきたのはどこからどう見ても私の推しじゃなかった。

「えっと、なんだ、まぁ、次に運を貯金してると思ってさ……」

「安い慰めなんていらねー!!」

 いや、他の子も来てくれて嬉しい。嬉しいけれどもだ。なぜ推しだけ来ない。みんな来てくれてみんなハッピーでいいじゃん。

 一通り落ち込んで気を紛らわせるために購入したパンフレットを開く。

 その時思い出した。

「そういえば晴久もランブロ買ってたよな」

 ギクリと晴久の方が跳ねた。

「お、俺は家でゆっくり開けようかなぁ……」

「ランブロの洗礼を受けて絶望してほしい」

「えええええ……」

 私のしつこさに負けて晴久もランブロを開封し始めた。

 と言っても三枚しか買ってないので開封式はすぐ終わるのだが。

「…………」

「…………」

 一枚目で晴久は私の推しの桜庭王太のソロショットを出しやがった。

「や、やるよ」

 おそるおそる晴久がこちらにランブロを差し出してくる。

 情けを受け取るべきかどうかこの数秒でものすごく迷った。しかし、私が欲しいのはこれじゃない。

「そうじゃねぇ! 自分で引きたかったの! 自分で引いた王太くんが欲しかったの!」

「えええええ」

 めんどくさい駄々をこね始めた私に晴久はドン引きしている。私でも自分に引くわ。

 手段が目的となっているが、推しを自分の手で引き当てたという運命性が欲しくてランブロを引いている節もある。だから、たとえ人から譲ってもらったとしても、私の目的は半分しか達成されないのだ。

 しかし晴久はさすが大人だった。

「……俺は柊野くん欲しかったからお前の柊野くんと交換してくれ」

 そう言われてむしゃくしゃしていた気持ちがいくらか治り、大人しく晴久とランブロをトレードした。

 残りの二枚のうち一枚は私と交換したものとは違う種類の柊野くんを引き、もう一枚はシークレットの全員集合写真を引き当てた。

「というかよく三枚も買ったよね。買っても一枚だと思ってた」

 ランブロに興味はあったようだが、どちらかというと記念に買っておこうという感じが大きいのかと思っていた。

「いやー、俺も一枚にしようと思ったんだけど、隣で買ってたお姉さんが十枚とか買っててさ。急に一枚じゃダメじゃね? って感じて三枚買った」

 見事物販マジックにかかっている。物販マジックに翻弄されるのはオタクだけでないということが証明されて、ちょっとホッとしてしまった。

「ていうかなんでそんな姿勢悪いの」

 晴久は腰を少しだけ座面につけ、長い足を器用に折りたたんで座っている。いつもなら姿勢良く座っているので余計に不自然に見えた。

「いや、俺が普通に座ると後ろの人が見えにくいだろ」

 確かに上背のある晴久が普通に座ると後ろの人は見えにくい。標準身長の私では思い至らないことだ。

「……あんた本当いい人だよねぇ」

 初めての場所でも人に気遣えるところが単純にすごい。

「そんなことないって。こんだけ図体でかいと色々言われるからな。友達のガタイのいいやつとかも映画観に行って後ろの席の人に見にくいってクレーム入れられたらしいし」

 最近建てられた映画館なら少し大きめの椅子を入れているところもあるが、ここの劇場はちょっと古めの劇場なので椅子も少し小さい。私でも少し小さいなと感じるくらいなので、晴久にとってはかなり小さく感じるだろう。

「でも腰痛めないように気をつけなよ。もう若くないんだからさ」

「うっ……」

 純粋に心配から出た言葉だったが、後半部分の言葉が深く刺さってしまったようだ。ごめんて。




 一部の公演が終わり、二十分間の休憩に入った。

「はぁ……」

 公演が良すぎて最早ため息しか出なかった。推しが尊い以外の感想が出て来ない。あとみんな顔が良すぎる。天国はここにあった。

「推しが可愛すぎる……苦しい……」

「AED持ってくるか」

「場所の確認だけお願いします……」

 ときめきすぎてこのままでは本気で必要になりそうである。

「キラキラしたアイドルものだと思ってたけど、結構シリアスな描写もあるんだな。他者を羨む自分の心と葛藤したりするところが人間臭くて俺は好きだったなー」

「お兄さんお目が高い……! 大衆が求める自分という偶像を表現するため、他人を羨んだり、羨む自分を嫌悪して、それでも昨日より今日、今日より明日輝くために前を向いて努力する彼等のなんと美しいことか……!」

「お前推しのこと話す時だけ語彙力すごいよな」

 晴久が心底感心した表情でつぶやいた。

「この後二部だよな? 透子生で見て大丈夫なのか?」

「……今まで何回か見てなんとか生還できたから大丈夫だと信じたい」

 過去公演のブルーレイを何度も見て来たが、やはり実際に生身の人間のパフォーマンス力は段違いに強い。

 そして今日の舞台は二部構成で、今から二部が始まる。

 一部は原作沿いのミュージカルで、二部はライブパートを忠実に再現したものだ。一部もいいのだが、やはり気兼ねなくきゃあきゃあ言える二部が楽しみなのである。しかも客席に役者さんがやってくる演出もあり、推しが来た日にはたやすく死ねる。しかも今日の席は通路ど真ん前なので多分死ぬ。

「二部はペンライトとうちわがいるんだよな?」

 心停止寸前の私をなだめるのに飽きた晴久は二部に備えて、グッズを入れたカバンを漁り始めた。

 右手にペンライト、左手に「投げキッスして!」と貼られた大きなうちわを持つ晴久という世にも奇妙な構図。これをブロマイドにしたら売り出せないだろうかと、一瞬よこしまな考えが脳裏をよぎる。

「そう。色は分かる?」

「任せろ。予習復習は得意だ」

 カチカチとペンライトのスイッチを押しながら色を切り替え復習をする晴久。

 秀才の一夜漬けおそるべし。いつもテストは赤点スレスレの私の一夜漬けとは訳が違う。

 ただ、間違ったことに才能を使っている感は否めないが。

 こちらの心の整理もつかないうちに二部の幕が上がる。一部で着ていたステージ衣装を着て、キラキラの笑顔を振りまきながら推したちが歌って踊る。多分私は今天国に来ているんだ。

 晴久は最初の方こそ呆気にとられていたが、さすがの適応力。一生懸命予習した好物のコーレスも完璧だった。

 そして舞台で歌って踊っていた役者さんたちが、キラッキラの笑顔を振りまきながら客席に降りてくる。みんなお待ちかねの客降り曲だ。

 役者さんが近付くと悲鳴が上がる。音声だけ聞くと通り魔に遭ったみたいに聞こえるが、あながち間違っていないかもしれない。前の方でファンにトドメを刺している役者さんを見ていると、二階席からも悲鳴が上がった。どうやら二階席にも役者さんが来たらしい。

 私の推しの王太君と晴久の推しの柊野君はこちらに来てくれるのか。そわそわしながら推しの姿を探していると、左手の扉から王太君が元気いっぱいに入って来た。

「!!!???」

 推しが目の前にいる事で軽率に息が止まりそうになった。

 しかしそれだけでは終わらない。

 右手の扉から晴久の推しである柊野君が入って来た。隣の晴久がひゅっと息を飲んだのが分かった。

 王太君は太陽のように眩しい笑顔で客席に手を振ったり、ファンサに応えて多くのファンの息の根を止めて回っている。対して柊野君はもともとクールなキャラということもあり、冷静な様子でひらひらと軽く手を振っている程度だが、それでも致死量には十分達している。

 そしていよいよ劇場の中心である私たちの前で、推し達が合流した。

 王太君が柊野君の肩を組んで楽しそうに笑っていて、柊野君は涼しい顔をしてそっぽを向いているがまんざらでもなさそうである。

 間近でその様子を見られて感無量だが、今日はそれで終わらなかった。

 二人が晴久に目を留め、晴久が持っていたうちわに気づく。そして二人同時にこちらに向かって投げキッスをしてくれた。

 私を含め周りのオタクたちは衝撃のあまり叫んでしまった。みんなハッと気づいて反射で口を抑えると王太君がニカッと笑ってサムズアップしてくれたので、容赦ない追撃を受けて無事臨終した。

 実にいい人生であった。




「いや、マジでびっくりした。息止まるかと……って透子大丈夫か?」

「ありがとう、これで明日からも生きていけます。晴久、今日は一緒に来てくれてありがとう。君のおかげで私の寿命が伸びました」

 感極まって思わず舞台と晴久に向かって手を合わせてしまう。多分今日の記憶はずっと私の幸せな記憶の引き出しに大切に大切にしまわれる。そして、何か辛いことがあれば今日のことを思い出して元気になるだろう。

 推しとのいい思い出をいつまでもいつまでも、それこそスルメのように味わって生きる糧とする。

 オタクってそういう生き物だ。

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