第8話 エマージェンシーコール
昼休憩中スマホで日課のゲームをしていると、晴久からメッセージが届いた。
晩御飯の相談かと思ってアプリを開けば一言、
『歯が痛い』
というメッセージが送られてきていた。
あらま、と思いながら返信を打とうとしたら、続けて晴久からメッセージが送られて来る。
『いつも行ってる歯医者さんが今日休診日で、透子のとこにに行ってもいいでしょうか……』
げっ、と一瞬言葉に詰まった。
晴久がうちの職場に来れば絶対面倒だ。
中身はただの友人で同居人だが、肩書きは「夫」だ。自分の旦那となれば先輩後輩限らず根ほり葉掘り色々聞かれるに決まっている。それを考えるだけで疲れた。
できれば他の歯医者に行って欲しいところだが、病院探しというのは以外と疲れる。しかも痛みを抱えている今なら尚更。
知人が勤めている病院なら幾分か安心できるだろうし、医療従事者として痛がっている人を見過ごすこともできない。
一分ほど悩んだ結果、先輩に相談してみることにした。
これで予約がいっぱいなら他を当たってもらう口実ができる。まぁ最初から嘘をつけないあたりが小心者だと我ながら思うが。
「旦那さんが来るの!?」
こっそりと相談したのだが、めちゃくちゃ大きな声で叫ばれてしまい、一瞬でその場にいた全員に知れ渡ってしまった。
「小鳥遊さんの旦那さん来るんですか!? なんでですか!?」
「歯が痛いんだって。本人曰く親知らずっぽいらしいけど……」
スマホはマナーモードにしてあるが、さっきから画面がひっきりなしに光っている。
『鎮痛剤飲んだけど全く効かないんだが』
『痛すぎて昼飯が食べれない……』
『親知らずって絶対抜かなきゃダメなのか?』
『抜くとしたらやっぱり痛いよな……?』
『俺って親知らず何本あるんだろうか』
『抜かずに置いておくって選択肢はある?』
などなど矢継ぎ早に晴久からメッセージが送られていた。
私とのメッセージをもはやSNSか何かと勘違いしていないかとすら思うほどだ。
不安な気持ちは分かるが、勘弁してくれとついつい思ってしまう。患者さん相手になら寄り添う気持ちを持てるが、身内に対して辛辣になってしまうのは世の常だ。いや、予約が埋まっているのに一応聞いてみる時点でかなり優しいと思うけれど。
先輩は今日のアポイントを印刷した紙を指でなぞりながら確認する。午後は現時点で予約は埋まっているようで、あとはキャンセル待ちになる。
「最後の枠ならなんとか入れられそうよ」
「いや、ほんと予約空いてて暇すぎて死にそうって感じならでいいんです」
「そんな日ないって」
今の心境は授業参観に親がやって来るそれに近い。自分のテリトリーに身内がやって来るときの居心地の悪さのそれだ。
医療従事者として困っている人を助けたいという気持ちと、身内が職場にやって来る恥ずかしさの板挟みになって苦しい。いや、若干恥ずかしさの方が大きい気がする。
「どうしたの、みんなで楽しそうにしちゃってさ」
私と先輩で話し合っていると、私の後ろからのっそりと院長がやってくる。
「あ、院長ちょうどいい所に。小鳥遊さんの旦那さんが親知らずが痛むそうでして。今日の最終の時間なら予約取れそうって話をしてたんです」
「えっ、小鳥遊さんの旦那さん来るの!? そんなの予約取っちゃえ取っちゃえ!」
えいっ、と院長が最終のアポイントの枠に極太の黒マジックで『新患・小鳥遊さんの旦那さん』と書き込んでしまう。
「結婚式も行けなかったし、旦那さんにお会いして見たかったんだよねー」
まさか院長まだ根に持ってたのか。そういえば先輩たちの結婚式には院長を呼んでスピーチをしてもらったと言っていたし、従業員の結婚式でスピーチを述べることを義務と考えていたのかもしれない。無理なものは無理だが。
「確かに小鳥遊さんの旦那さん気になりますよね。旦那さんの話全然しないし」
「だよねだよね! 新婚なんだからのろけ話の一つや二つないの?」
「特にないですね」
「もーまたこの子は照れちゃって!」
バンバンと院長に背中を叩かれる。
残念ながら全くもって照れてない。
結局院長と先輩の力技で予約を空けてしまったので、晴久を診てもらえることになってしまった。
前の診療の後片付けをしていると、異様に周りが静かなことに気付いた。
ぐるりと見渡すと私以外の人が誰もいない。終業時間も近く、診察と片付けを同時進行するのでいつもならみんなバタバタしている時間帯なのだが、今はBGMのオルゴール曲がよく聞こえる程度には静かだ。
次の患者さんを案内してもいいのかを院長に確認しようにも、院長も見当たらない。まだ仕事が残っているのにどこ行ったんだと思っていたら、何やら受付の方が賑やかだった。
「小鳥遊さん! 旦那さん来たよ!」
受付の方に顔を出すと、先輩が興奮気味に手招きする。待合室側のカウンターでは晴久が問診票を挟んだバインダーを持って苦笑していた。
仕事終わりだというのに、髪型もスーツもヨレた感じがない。だが、やはり親知らずが痛いのか笑う声になんとなく力が入っていない。
ああ、来ちゃったのか、と自分の顔が歪むのがわかった。別に晴久が嫌なのではない。同僚や先輩方によるこの後の対応や詮索を考えるとしんどいのである。来るまでにも散々色々と聞かれた。もはや刑事ドラマの尋問に近かった。
「お土産までいただいてしまってすみません」
「とんでもない。こちらこそ遅い時間に無理を言ってしまって申し訳ありません」
先輩が大きな紙袋を持って晴久に礼を言っている。
紙袋には洋風どら焼きで有名な和菓子店の名前が書かれていた。あれ食べてみたかったんだよなーお菓子余るかなー。いや、余ったとしても一応嫁の私が旦那が差し入れたお菓子にがっつくのは良くないか。
「旦那さんめちゃくちゃイケメンだな……!」
診察を放り出して院長も受付に大集合しており、思わず顔をしかめてしまった。
院長もなぜか頰を赤く染めてきゃあきゃあと黄色い声をあげていた。院長の他にも、患者さんたちが晴久を見て夢見心地のようなほんわーとした表情を浮かべている。同性すらも惑わす晴久の顔面偏差値が怖い。
晴久関連のことで周りにからかわれるのが嫌で、できるだけ気配を消して後片付けの方に回ろうとした。
「そんなこと良いから旦那さんのアシストついて来なよ」
先輩の一人が声をかけてくれたが、今は正直放っておいて欲しかった……!
「いや、なんか気まずいんで先輩アシストついてくださいよ」
「無理無理。イケメンすぎて手元狂いそうで怖いもん」
他のスタッフにお願いしても同じような返事が返ってきて、最終的にはみんなにグイグイ背中を押されて診療室に押し込まれて逃げられなくなってしまった。
問診票も書けたそうなので、心を無にして晴久を呼びに行く。
「永田晴久さん、どうぞ」
晴久は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてこちらを見つめて来る。ようやく状況を理解して、立ち上がって私の方へ歩いてきた。
「今日仕事大丈夫だったの?」
「端的に言うと地獄だった」
げんなりとした表情で晴久がつぶやいた。
「痛いけど薬効かないし、痛そうにしてると声かけられるからいつも以上に気を張らないといけないしでさ……」
「相変わらず大変だな」
体調の悪い時も気が抜けないとはイケメンも楽じゃないな。
一般人にもそれなりに悩みがあるように、イケメンにはイケメンの悩みがある。人生ままならないものだ。
レントゲンを撮ってからチェアーに案内して、できるだけの準備をして院長を待つ。
院長は問診票を挟んだバインダーを持ってやって来た。画面に映ったレントゲンを確認してふんふんと頷きながら、回転椅子に座って晴久の横に滑って行く。
「永田さんはじめまして、院長の鈴木ですー。奥さんにはいつもお世話になっております」
「いえいえ、こちらこそいつも妻がお世話になっております。今日は無理なお願いを聞いてくださって本当助かりました……」
診察の前にお互いに挨拶をはじめてしまって、私はただひたすら無になるしかなかった。気分的にはあれだ、教師と親の挨拶を聞いている時のあれ。
「とりあえずお口の中診ましょうか」
「お願いします」
ようやく挨拶が終わったようで、院長からバインダーを受け取り、ライトを晴久の口内に当たるよう調節する。
院長の邪魔にならないように上から晴久の口の中を覗き込む。レントゲンを見て分かっていたが、口内はかなりきれいだった。今まで大きな治療をしたあともない。問題があるとしたら本人の言う通り上の親知らずだろう。
口内を確認した院長は一度チェアーを起こした。
「やっぱり右上の親知らずですねぇ。ここ以外は綺麗に磨けているんですが奥で磨きにくいから虫歯にもなってしまってます。治療しても良いんですが、手入れがしづらいのでまた虫歯になる可能性も高いです。親知らずですし、僕は抜いてしまった方がいいと思うんですがどうされますか?」
患者さんに選択の余地を与えてはいるが、この説明をするということは抜いた方が良いと判断している時だ。
しかし、初めての抜歯となると迷う人も多い。私も初めての抜歯の時は切腹するのかと思うほどの覚悟を決めて臨んだ。
「抜いた方が良いのなら、抜いていただけますか?」
「分かりました。小鳥遊さん、麻酔のロングお願いします」
「はい」
以外とあっさり治療方針が決まって拍子抜けする。
治療内容が確定し、必要なものを準備しに行く。ちらりと見えた晴久の横顔は、笑顔を保っているもののうっすら緊張感を漂わせていた。
麻酔の機械を院長に渡すと、もう一度チェアーを倒して麻酔を打つ。
「鼻でゆっくり息してくださいねー」
院長が声をかけながら麻酔を打ち込んで行く。何度かに分けて打ち、麻酔が効くまで一旦時間を置く。
麻酔が効くのを待つ間に院長はカルテを書き、私たちアシストはこの時間に患者さんに抜歯をするにあたっての注意事項を説明するのが一連の流れだ。
身内とはいえ今は一応患者さんなので前に回って説明をしようとしたのだが、晴久はほんのり笑顔で真正面を見つめたまま固まっている。
「……ちょっと、大丈夫?」
「だいじょばないかもしれない」
妙な表情のまま返事をする晴久。
治療方針をあっさり決めてたのであまり怖くないのだろうと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
大抵のことは爽やかな笑顔のまま難なくスマートにこなし、弱点らしい弱点といえば顔が良すぎることくらいかと思っていたが、人間らしく怖いものもあったようだ。
「まぁ、痛くないって言ったら嘘だけど、院長抜歯上手だから安心しなって。私も院長に抜いてもらったし」
患者さん相手なら怖い気持ちに優しく寄り添うような言葉をかけるが、晴久相手にそんなことできるわけがない。
自分が思っていることをオブラートに包まずそのまんま伝える。他の患者さんもいないことだし別に良いだろう。
「ずっと痛いままっていうのも嫌じゃない? 今日抜いてスッキリして帰ったらいいじゃん」
「そうだとは分かるんだけどさぁー! いや、分かってるから抜いてもらうって決めたんだけどさぁー! 怖いもんは怖いだろ!? 時代が変われば拷問だぞ!?」
怖さがピークに達したのか、眉を下げて情けない声を上げる晴久。一応声は潜めているものの、院長には聞こえているようで小さく肩を震わせている。
「私も痛かったけどさ、私らの母親はこれ以上の痛みに耐えたんだよ」
抜いているときは麻酔が効いているので、抜いている感触はするものの痛さは感じない。だが、抜いたあとがズキズキと痛んだ。
下の抜歯の時なんか歯が大きくて切開して歯を割って抜いたので、術後当分痛かったしめちゃくちゃ腫れた。国民的菓子パンのヒーローになるかもしれないと思ったほどに腫れた。残念ながら国民的菓子パンヒーローにはなれず、今も人間をやっているが。
しかし、うちの母さんや晴久のお義母さん、お義姉さんは抜歯以上に痛い「出産」という人類史上ナンバーワンと言っても過言でないことをやってのけている。
比べるものではないかもしれないが、時には帝王切開でお腹を切る場合もあり、その傷に比べたら親知らずの切開の傷なんて小さなものだ。
私は親知らずの抜歯で、世の母親のすごさを思い知った。
私の言葉に晴久はグゥ、と眉根を寄せて押し黙ってしまう。
晴久を言いくるめるなんて、出会って十数年で片手で足りるほどだ。それほどまでに切羽詰まっているのだろう。普段の奴なら私に突っ込ませるような下手をそもそも打たない。
まぁ極限状態になったらどうにもならないと分かっていても駄々をこねたくなる気持ちも分からないでもない。
「痛み止め飲めば大丈夫だから。薬でどうにかなる範囲ならまだマシだって。ただ薬切れた時はヤバイけど」
普段の患者さんへの応対からは考えられない雑な受け答えで無理矢理話を終わらせる。そろそろ院長が笑い声を押し殺しすぎて酸欠になりそうだ。
「……仕方ない。私が親知らずを抜いた時に乗り越えたとっておきの方法を教えてやろう」
「えっ」
不服そうな表情をしていた晴久の表情が一気に華やいだ。鉄壁の営業スマイルも今や形無しである。
「ハンカチ持ってる?」
晴久は上着のポケットから綺麗に折りたたまれたハンカチを取り出した。差し出されたハンカチを晴久の手ごと力強く握りしめ、言い聞かせるように彼の目をじっと見つめる。
「これを推しの手だと思え」
「は?」
「推しが君を応援している。これで百人力だろう」
晴久は絶望の色を瞳に浮かべてじっと私を見つめてきた。
「いや、そこは小鳥遊さんが手を握ってあげたらよくない?」
耐えきれなくなったらしい院長がニヤニヤした顔でツッコミを入れてくる。
「推しの手だと思った方が力が出ると思います」
淀みなくきっぱり言い切る私に院長は面食らっている。
実際私はそうである。晴久に手を握ってもらうよりハンカチを推しの手だと思った握りしめた方が断然力が出ると思う。
これ以上ツッコミを入れても藪蛇だと思ったのか。院長はああ、うん、そっか……とちょっと遠くを見つめて頷いた。
「永田さん、痛くないか確認しながらやりますし、麻酔も途中で追加できるので痛かったら我慢しないで左手を挙げて教えてくださいね」
「ありがとうございます……よろしくお願いします」
身内がいるからいざという時に甘えが出るのか、院長相手だと素直だ。不安そうに眉を下げて微笑んでいるのを見た院長はぽっと頬を赤く染めている。
結局、晴久の親知らずはものの数分で抜けた。
あまりの呆気なさに晴久はガーゼを噛みながらまだ呆然としている。
「どうだった?」
「麻酔ってすごいな」
ガーゼを噛んでいるせいで少しくぐもった声だが、とても感心したようにつぶやいた。
「あと、思い込みもすごいな! 誰かに手を握ってもらってるって思うだけで怖さが薄れた」
まさか本当に実践するとは思っていなかった。相変わらず素直だな。
「ちなみに推しは誰を想像したの」
「王太くん。いやー、彼の包容力やばいな!? お前が推すのも分かるわ」
腕組みしながら神妙にウンウンと頷く晴久。
私の推しが役に立ち、なおかつ晴久の役に立てたのなら僥倖である。
しかし奴はまだ自分の親知らずが三本残っていることに気づいていない。
そこを今ここで指摘すべきなのか、落ち着いてから話すべきなのか、自分から気付くのを待つか。
しかも下の親知らず抜歯の方が大変なことが多い。
結局院長が今後の治療方針を話す為に残りの親知らずについて話したので、晴久の浮かれ気分は五分ほどで終わってしまった。ドンマイ。
晴久が本日最後の患者だったので、診療後の片付けをしていると片付けそっちのけで先輩や後輩がワラワラと寄ってきた。
「小鳥遊さんの旦那さんお仕事何してるの!? もしかして芸能人!?」
「んなわけないじゃないですか。普通の会社の営業ですよ」
「なんでそんなに冷静なの!?」
「毎日見てるツラなんで」
「うっわめっちゃ惚気たよこの子! 聞きました!? お姉様!」
「聞きましたよ、聞きましたとも。男に興味ないって顔してあんな上玉を隠し持ってたなんて、お姉さん聞いてませんよ」
小芝居が始まってしまい、このとっちらかった空間をどう片付けるかを考えると頭が痛くなった。つっこむのも面倒なので軽く笑ってとりあえず流しておく。
「あの顔を毎日拝めるとか前世でどんだけ徳積んだのよ」
「現世でも一応徳積んでるつもりなんですけど」
私の一言でその場の全員がどっと笑う。
「まぁ顔がいいっていうのも大事だけどさ、旦那さん本当優しそうだよねー」
前半部分本音がダダ漏れているが他のみんなはその部分をスルーして、神妙な表情でうんうんと深く頷いている。
言われてみれば晴久とは結婚する前も含めて、今まで喧嘩らしい喧嘩をしたことはない。
「お互い流される方が楽なタイプなので、どちらかが主張すれば大体引くからですかね」
私の分析にああー、分かるかもー。と大合唱された。晴久のことはともかく、自分で言っておいて全力で頷かれると釈然としない。人間って難しいな。
私たちの生活は住んでいるところと名字が一緒というだけ。互いが何かあった時の保険であり、それ以上でもそれ以下でもない関係。
戸籍は他人よりも深い中だが、実際は他人と言う名の友人である。これでいいのかと思いはするがこれが快適なのだから仕方ない。
友人や夫婦とはいえ、適度な距離というのが衝突を生まない理由なのだろう。物理的にも心理的にも距離があればぶつかりようがない。
「旦那さんは小鳥遊さんのこのドライな感じが好きなのかもね」
「そうですかねー」
私と晴久の間の「好き」と、彼女たちの「好き」は意味が違うが、肯定しても否定しても微妙な感じになるので適当に相槌を打つしかできない。
男女の友情は成立しないと昔からよく言うけれど、それなら私と晴久の間にあるものは一体なんなのだろうか。
イマドキ同性間の恋愛も認められている世の中なのに、なんで異性間の友情は認められないのだろうか。
世の中に認めてもらわなくてもいいじゃないか、と言われるかもしれないけれど、自分を否定する意見をずっと聞かされるのは正直つらい。
いつか偽ることなく永田晴久が唯一無二の友達だと言える日が来たらいいのに。
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