第2話 つけ場

2、つけ場…調理場のこと。


 

 バイトの一時間前くらいから、むぎ子は緊張を感じ始める。気だるさと緊張が混ざったような、苦しい気持ちになる。けれどもそれも、着ていく服装を選んでいるうちに、淡い期待と心地よい興奮に変わってくる。

 

 大抵が、ジーンズにブラウスという、適度に味気ない服に決まる。化粧は下地を塗って、毛のない眉に数本描き足すくらいのナチュラルメイクと決まっている。

 

 家から寿司屋までは、歩いて10分とかからない。気持ちを盛り上がらせるために、お気に入りの曲を聴く。今一番気に入っているのは、メロディライン強めのパンクロックだ。混み合う昼間の商店街のど真ん中を、堂々とした足取りで、むぎ子はずんずん進んでゆく。欲しいものなど特にないとわかっているのに、行き場なく練り歩く買い物客たちの導線を、むぎ子は素早く避けてやる。自分はこの商店街の持て成し側であるという義務感が、彼女にそんなことをさせるのだ。


               ***


厨房に足を踏み入れると、充満した酢飯のにおいが鼻をつく。この匂いを嗅ぐと、むぎ子はいよいよ高まってくる。


「おはようございます」


 威勢の良い挨拶をすると、寿司屋の男たちはそれぞれの寿司ネタを手に、むぎ子に挨拶や微笑みを投げかける。


 だが、店長だけは笑わない。禿げかかった中年の、半魚人みたいな顔の店長は、ギョロギョロした瞳を解体途中のマグロに向けながら、「っす…」とつぶやくだけである。むぎ子は店長のはち切れそうな背中を冷めた瞳でちらっと見てから、すぐに目をそらした。


 野田先輩は厨房の隅っこに立って、イカを解凍中であった。むぎ子の挨拶に、彼は恐る恐る振り向いた。先輩は顔がへちゃむくれている。目はクリクリしていて、背は小さい。イケメンと呼ばれるのにはあと3歩ほど及ばない。


 野田はむぎ子を見ると、おはよう、とはにかんだような顔を向けた。すぐに視線を戻して、シャリロボが繰り出すシャリをひっつかむと、まだ半分凍っているイカをのせた。むぎ子はそんな彼のことを、やっぱりかわいい、と思う。平静を装いながらイカを乗せ続ける彼の背中が、いじらしい。むぎ子はこぼれそうな笑みを抑え、姿勢を正し、自らのお立ち台であるレジへ向かって、堂々と進んで行く。


 

***


むぎ子がこの寿司屋で働き始めて、もう半年になる。全国展開する大手の寿司チェーンだ。売り上げは地区内でもトップレベルで、土日祝日は、ひっきりなしに客がくる。向かいにはお茶屋、右隣には仏壇屋、左隣には学生服の店が軒を連ねている。

 

 むぎ子の担当はもっぱらレジ打ちであった。というのは、厨房で寿司を作る作業に関しては、いびつな軍艦巻きしか作れないことと、必ず多すぎるか少なすぎるかするわさびしか繰り出せない不器用さを見透かされてから、二度とやらせてもらえなかったのだ。だからむぎ子は、昼の1時から閉店の9時半まで、ほぼ休みなく、ひたすら数字を打ち続けてゆく。


土日祝日の夕方は、パック寿司を求める客で、二軒先まで行列ができる。レジは一台しかない。むぎ子は客たちを無我夢中でさばいてゆく。ショーケースの裏側の熱で汗が溢れ、ボタンを押す指先は引きつれてくる。自分がお酢臭くなってくるのを感じる。

 

 しかしむぎ子はそういう時、心の底で、果てしない幸福を感じている。自分がこの寿司屋という、社会のほんの一片の、真摯で従順なネジとなって、ぐるぐるぐるぐる回転し続けている姿を、あの時の自分に、見せてやりたいと思う。



***


「むぎ子チャン、むぎ子チャン」


 ひと段落つき、客もまばらな夜の9時前。一人の怪しい中国人が近づいてくる。閉店間際、売れ残りの寿司が割引になって安くなり始めるのを、毎日のように待ち構えている女である。尻まで伸ばした髪の毛はチリチリで、肌は黄色く、全身は痩せて骨のようである。いつも派手な色のタンクトップを着て、両腕には大量の買い物袋を下げている。


「むぎ子チャン、今日もカワイイネ」


「はあどうも」むぎ子はいかにも困った風を装いながら、相手をしてやる。自分をほめる人間は、どんな嫌われ者であれ、邪険にはしないと決めている。


「カワイ子チャンに、プレゼント」


 そう言って中国人は、買い物袋を差し出した。中を覗くと、強いニンニクとごま油の香りがした。商店街の入り口にある中華総菜屋の、小龍包のパックが二つ入っている。


「ありがとうございます、すいませんどうも」


「ココノ、ソウザイね、全部、オイシイヨ。ネエ、アンタカレシ、イルノ」


「いいえ、いないんです」


「モッタイナイ!アンタのマワリのオトコ、ミルメナイね。オイ、テンチョウ、テンチョウ」


 中国人はレジ締めの準備をしている店長を捕まえる。店長は面倒臭さが滲み出た薄ら笑いを浮かべて、顔を上げる。


「むぎ子、イイコデショ?ナンデ カレシ イナイネ?」


「いやあ、僕にはなんとも…あはは」


「アンタラ バカダネ!コンナ カワイイコ、モッタイナイヨ」


「いやあ、本当、そう思います」


「コンド オイッコ ショウカイシテヤル。オソウザイヤ ヤッテル。ね、ワカッタネ?」


 中国人は言いたいことを言い終えると、嵐のように去って行った。店長は札束をショーケースの裏で数えながら、不機嫌につぶやいた。


「ああいうの、いちいち、丁寧に相手しなくていいよ」


「はい、すみません」


「もっと先輩の対応を見習いなよ。山形さんなんか、ああ見えて、すっごくドライなんだから。ねえ、山形さん?」


「はい?え?何の話ですか?」ショーケースを拭きに来た山形さんが顔を上げる。


「いや、何でもない、何でもないよ」


 店長はおどけて笑う。その顔は、ショーケースの熱のせいだろうか、少し赤みがかっている。むぎ子は俯向き加減になって唇を噛み締め、早く店が終わることを願う。



 


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