第7話 おあいそ

おあいそ…お勘定のこと。


 むぎ子がレジに立ったのは、入店二日目のことだった。


 レジを教える、と店長に宣言された時、むぎ子の耳には、それがこの世の終わりの死刑宣告か何かのように響いた。逃げ出したいのを必死にこらえながらレジ台に立った。


 どうしよう、どうしよう。頭の中は混乱していた。手が小刻みに震え、全身から冷たい汗が噴き出した。



  むぎ子は必死に、昨日の晩、みかんを食べるおばあちゃんと向き合って、その嗄れて見慣れた目をじっと見つめ、必死に会話をしたことを思い出す。それはむぎ子にとって、ささやかな訓練のようなものであった。おばあちゃんと緊張せずに向き合って話せるのなら、他の人間だっておばあちゃんと同じ人類なのだから、なんということはない、大丈夫だ。だがそれが何であろうか。本当にレジをやらされることになった今となっては、そんな訓練はかけらの自信にも繋がらなかった。


                ***


 平日の4時ごろ、一番客の少ない時間帯であった。店長はむぎ子をレジ台に立たせて、一つ一つ、ボタンの説明をし始めた。むぎ子はメモを取りながら、そのペン先が震えるのを決して悟られないようにした。店長の説明は、全然頭に入ってこなかった。


「それで、これが一万円札を入れる場所。一万円札を入れる時は、厨房に向かって、大きな声で、一万円入りまあすって言ってください」


「大きな声で、ですね、はい」


「それから、お客さんには愛想よくね。」


「あの、私、実は、すごく緊張するたちでしてー」



「はあい、らっしゃいませえ!」


 突然、店長が腹の底から搾り出した声にビクッとする。お客が現れたのだ。中年のおじちゃんが、むぎ子の倒れそうな大緊張と恐怖をよそに、パーティでもするのであろうか、大きなパック寿司をずんずんレジ台の上に積み重ねてゆく。


「はい、じゃあ助六ね、ここ、巻物のボタン、押してください」



 店長に指示を受けながら、むぎ子は必死にボタンを押してゆく。客の手からお金を受け取り、数字を押して、お釣りを渡す…むぎ子は突然、お客さんが、一度も自分の方を見ていないことに気づく。


「ありがとうございましたァ!」店長の馬鹿でかい、オペラ歌手並みの発声に続けて、むぎ子も「ありがとうございました」とボソボソ言った。


「もっと大きく、愛想よくね」


「はい」


「だけど、なあんだ、余裕じゃん」


「いえ、全然…」


「次は、一人でできるね」


「いや、それはちょっと」


「っらっしゃいませえええ!」


 すぐに次の客が現れて、何を言う暇もないまま、むぎ子は怯えながらレジをする。やはり、お客さんはむぎ子を一度も見ない。次の人も、その次の人も。いつの間にか、店長は厨房へ引っ込んでいる。一人のお客が、むぎ子に予約用の寿司桶の種類と値段を尋ねる。もちろん客の目には、寿司の姿しか映っていない。次の人も、次の人も。むぎ子は段々、余裕が出てくる。なあんだ、本当に、余裕じゃん。


 段々、周りが見えるようになっていく。むぎ子はその時、ずっと蓋をしていた自分の秘密の感情が、溢れ始めたのを感じた。




それは、「自分をもう少し見て欲しい」という、思いがけない感情だった。



 むぎ子は、ぎこちないながらも、笑顔を作り始めた。しかし、相変わらず誰もむぎ子の方などには、大して見向きもしなかった。だがそれでよかった。むぎ子が笑いかけている相手は、お客ではなくて、むぎ子自身だった。むぎ子はやがて、ひたすらレジ台で愛想よく笑っている自分に、感動を覚え始めた。それで今度は、自然と笑顔が溢れてきた。


 一人のおじいちゃんが、むぎ子の笑顔を見て、お釣りを返す手をぎゅっと握り、少しいやらしい笑いを浮かべ、「ありがとう」と言った。むぎ子は嬉しかった。自分がセクハラの対象になるなんて、今までは、考えられないことだった。セクハラの対象というのは、男がセクハラしたい、と思う相手にするものだ。つまり、魅力のある女にするものだ。むぎ子は痴漢もあまりされたことがなかった。されたとしても、太ももを気づかない程度に触られるくらいの、軽い程度の、意気地のない痴漢だった。それはむぎ子に、自分の女としての魅力のなさを痛感させた。


 ひと段落つくと、むぎ子はレジ台からの景色を見つめた。いつも通り過ぎる場所なのに、まるですべてが違って見えた。行き過ぎるサラリーマン。アイスを食べながら歩く高校生の二人連れ。手押車を押して歩く老人。さっきまで、私もあの中にいた。あの中で、一人、この世には自分の理解者など誰もいないのだという絶望を抱きかかえながら、幽霊のような青白い顔をして、歩いていた。それなのに今は、気狂いみたいにニコニコしながら、ひたすらに寿司を売っている。



 そう、本当は、ずっと、目立ちたかったのだ。目立って目立って目立ちまくって、みんなに愛される人気者になりたくて、仕方がなかったのだ。その欲望のあまりの強さに、人前で臆病に震える自分を、受け入れることができなかったのだ。



 奥の厨房でマグロをさばきながら、こちらの様子を心配そうに見やる店長と、ガラスの仕切り越しに目があった。むぎ子が慌てて目をそらそうとする前に、店長はでかい声で、「順調?」と叫んだ。遠くまでよく通る、堂々とした声だった。むぎ子はびっくりして、「はいっ」と叫んだ。




「うんその調子、その調子」包丁を持ちながら店長は言った。「元気よくね、頼んだよ」



 むぎ子はその瞬間、胸が激しく高鳴り始めたのを感じた。しかしそれは先ほどまでとは違う、希望と興奮に満ち溢れた、魅惑的なものだった。






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