第8話 光りもの


光りもの…鯖や鯵など皮が光っている寿司。



むぎ子は部活にもサークルに入らなかったので(自己紹介を乗り切る自信がなかったため)、とにかく時間だけは有り余っていた。その全ての時間を、むぎ子は寿司屋につぎ込んだ。


 しかしむぎ子は満足していた。何よりも、バイトをしている時が、一番楽しかったのである。むぎ子の顔は常連客に少しずつ認知されていき、「君は社員なのか」と問われることもしばしばだった。レジ打ちは誰よりも早くなっていた。もちろん、失敗も多々あった。


 レジ締めのお金が合わないと、胃が締め付けられる思いを味わった。しかし、必ず最後には、店長が自分の財布から金を出して、なかったことにした。

むぎ子はお客の途切れた瞬間に、レジ台からガラス越しの厨房を見遣って、店長の姿を探した。店長が休みの日には、ひどく気分が落ち込んだ。


             ***

店長が結婚していることはもちろん初めからわかっていた。しかし、それが尚更、むぎ子の心を燃え上がらせた。むぎ子は寿司にしか関心のない客に対して、「こんなに笑顔の自分を見ろ」と思うのと同じように、店長に対しても、「こんなに楽しそうにお前の下で生き生きと立ち働く私を見ろ」と思っているのだった。


 店長はそんなむぎ子に対して、硬派な態度をとり続けた。しかしその態度とは裏腹に、店長と自分のシフトが徐々にダダ被りになっていくのを、むぎ子はしっかり気がつき始めていた。「むぎ子さん」といつの間にか下の名前で呼ばれ始めたことにも。


 ある時から、むぎ子のその不順な動機の元に繰り広げられる、至極真面目で素直な勤務態度は、ある予期せぬ現象を招いた。それは店長以外の男の社員たちが、むぎ子に好意を抱き始めたことだった。彼らは、活きのいい笑顔でレジを打ちまくるむぎ子に、ひどく惹きつけられるらしかった。


 むぎ子は彼らに対し、決して邪険に振る舞うことはしなかった。むしろ彼らに対して、脈ありげに振る舞った。

この店には常に、期間限定で新入社員たちが研修のために本社から派遣されてくる。だから様々な社員たちが入れ替わり立ち替わりに入っては出て行くのだが、それもむぎ子にとっては都合が良かった。仲良くなりきる前に、むぎ子を好きになりきる前に、彼らは去っていく。むぎ子はそれを楽しんだ。全ては、店長の心を大いに刺激し、ひどくやきもきさせるためだった。

 


***


 すべてはむぎ子の本能的な作戦だった。しかし段々、店長との駆け引きよりもそれ以上に、むぎ子はこのしがない商店街の寿司屋が、自分の手のひらの上でコロコロ転がっていることに、快感を感じ始めていた。


 むぎ子は自分が、あばずれに近づいていることを悟った。むぎ子は興奮し、喜んだ。あばずれになるということは、世界に受け入れられていることの証である。そして、こういうあばずれな行いは、短くはかない、せいぜい若いうち、後3年ほどの間にしか、できないことなのである。



 むぎ子はこういう風に考えた。彼らと出会った場所が、例えば国語の教室の中だったら、彼らは絶対にむぎ子を好きにならなかったであろう。教室の中の私は、醜い自意識に囚われた、死にかけの亡霊なのである。だけど寿司屋の私は違う。寿司屋の私は、世界に対して笑いかけている。自意識の優位に立っている。


 けれどもそれはレジ台という小さなステージ上に限られた範囲の話である。あくまで主役は「寿司」であり、自分はいわば寿司のための黒子である。その「目立たなくても良いが目立ちたい時にはそれなりに目立つこともできる」状況が、むぎ子にぴったりフィットしたというだけのことである。しかし、そういう素晴らしいフィットというものには、人生のうちで何度も出会えるものではない。



これは、既婚の店長を振り向かせられるか、そうでないかの挑戦ではない。もはや、そんなちっぽけな規模の話ではなくなってしまったのである。


 これは人生をかけた挑戦なのである。私はどこまででもあばずれにならねばならない。そして、一人でも多くの人間に受け入れられねばならない。好かれ、愛され、魅了するのだ。


 そうしてその人数が、私が当てられるのに怯えはじめる教室の人数、5人以上になったら、私はその時ようやく、あの恐ろしいゼミの教室に戻れるのだ、という気がする。


 ゼミの10人が私をみくだし、心の中で蔑んだとしても、寿司屋の男10人が自分を何よりも好きなのだというその事実で、また、立ち上がれるような気がするから。


そしてその人数は、もちろんー


 

一人でも多いほうがいい。

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