第9話 むらさき


むらさき…お醤油のこと。


 運命の瞬間は間も無く訪れた。


店長がむぎ子をデートに誘い、丸みを帯びたその指を、むぎ子のレジタコだらけの指に、さりげなくそっと絡ませたのだ。その瞬間に、両名の想いは通じ合った。二人は次のデートの約束をした。その次も。またその次も。


むぎ子は嬉しくて舞い上がった。しかし、もはやむぎ子にとって、それはあくまで一つの通過点に過ぎなくなっていた。


店長が既婚だということもその引き金になった。むぎ子が独身であり、店長が既婚であるという事実は、自然とむぎ子を優位な立場にした。つまり、むぎ子が店長以外の男と仲良くすることを、店長は涙を飲んで許さざるをえなかったのだ。


そういう風にして、むぎ子のあばずれはどんどんエスカレートしていった。店長と不倫をしながら、彼女のいる野田先輩とデートを重ねた。店長の前で、ポップンミュージック狂いの林さんに気をもたせるような態度をさりげなくとった。


店長とむぎ子は、そのことで時折、小喧嘩をした。それは互いの嫉妬心を確かめるためのスパイスならぬ、わさびとして、大変素晴らしく機能した。


               ***


ある雨の土曜日、むぎ子は大幅に延びた授業のせいで、バイトに遅れそうになった。


教室を一番乗りで飛び出すと、雨の中を傘もささずにバス停までひた走った。


滑りやすい床の上で、勢いよくすっ転んだ。たくさんの学生たちに見られたが、むぎ子は勇猛果敢に立ち上がり、ひた走った。恥ずかしさを感じたのは、ほんの一瞬だった。バイトに遅刻することなど、もってのほかだったのだ。


むぎ子は髪を振り乱し、膝から血を垂らしながら、バスに勢いよく飛び乗った。


バスは混みあっていた。なんとか運転席付近の空いている空間に身を滑り込ませ、イヤホンを取り出そうとした時、突然、「あれ?」と声をかけられた。


優先席に、ドストエフスキーの「罪と罰」を開いた星野が座っていた。むぎ子は逃げ出すこともできずに、「ああ、どうも」と無愛想に頭を下げた。


「あの…」星野はヘラヘラと言った。「ゼミ、全然出てませんよね?」


「はい、あの」むぎ子は無愛想に、「バイトが忙しくて」と答えた。


「へえ、それは、しょうがないですね。なんのバイトなんですか?」


「寿司屋です」むぎ子は胸を張って、自慢げに答えた。


「へえ、回転寿しですか?」


「いや、回らない方です」


「回らない方ってことは、えーと…」


「持ち帰り専用です」


「へえ!」星野はずり落ちるメガネを上げながら言った。「僕もね、バイトしてますよ。文字起こしのバイト。いやあ、辛いです。」


「へえすごい」ふん。すごくもなんともありゃしない、あんたにぴったりのバイトだな。一人で黙々と文字起こし…


沈黙が流れる。「えっと」彼は落ち着きなくいがぐり頭を撫で回しながら、尋ねた。


「そういや、南さん」


「はい」


「サークルは、やってますか?」


「いや、バイトがあるんで」


「ふうん、そうなんですね。もったいないなあ。僕はね、今、三つ掛け持ちしてるんです。演劇部と、漫研と、学祭実行委員会」


へえ。楽しんでるんだ、学生生活。へえ。むぎ子は自分の中に燃え上がる何か、予期せぬ苛立ちのようなものを覚えながら、「へえ〜すごい!」といった。心を込めたつもりだったのに、想像した以上にうわべの言葉になってしまった。


「ああ、そうだそれで、大事なこと言い忘れてた」バスの揺れに合わせて、激しくいがぐり頭を回しながら星野はベラベラと話し続ける。「今度、ゼミのみんなで、本作るんですよ。一人30枚以上、100枚以下っていう縛りありで。小説でも、エッセイでも、論文でもなんでもいいんですけど。」


むぎ子は早く駅に着くことを願った。もともと、酔いやすいタチなのだ。その上、どうでも良い話に付き合わされ続けて、気分が悪い。顔色が悪くなってくるのが自分でもわかる。ああ、これから大事なバイトなのに…


やっとの事で、「そうなんですね、頑張って下さい」と言った。


「いやいや、あなたも出すんですよ。それ、課題ですよ。出さなきゃ単位もらえませんよ」


むぎ子は目を見開いた。


「出席しなくても良くなるんですか?」


「いやいや、それはだめですって。」


「だけど、あのゼミ、二回以上出席したら単位くれるって話ですよね」


「ちょっと、ちょっと。不真面目すぎますよ。さすがに二回はないでしょう。」


むぎ子は迫り上がる胃液を飲み込むのに必死で、何も答えられなかった。


星野が、「そんなにゼミが嫌かあ」と寂しそうにつぶやいた。むぎ子が聞こえないふりをして広告を読むふりをしていると、星野が言った。


「僕の乗せるやつ、今書いてるんですけど。小説なんです。出来上がったら、読んでくださいね」


「わかりました」


「本当ですか。約束ですよ。」


「わかりました」


「そちらのも、楽しみにしてますからね。絶対サボらずに出してくださいよ。」


「わかりました、わかりました」


バスが止まった。むぎ子は目も見ずに挨拶をして、改札めがけて一直線に駆け出した。


「約束ですよ!絶対に、絶対ですよお!」


追いかけてくる星野の声を、むぎ子は聞こえないふりをした。一刻も早く、星野から、大学から、離れたかったのだ。

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