第4話 仕込み

4、仕込み…準備のこと。


 

 空が真っ赤に燃えている。18歳のむぎ子はそれを、改札の柱に寄りかかって、ぼんやりと見つめている。5軒目の心療内科の診察を終えた帰り道で、途端に歩く気力をなくしてしまったのだ。

 

 医者というのは、どこへ行っても同じだった。むぎ子は毎回、医者に向かって、「私、病気と思うんです。」と強い口調で言った。「だって、どうしても怖いんです。怖くって怖くって、仕方がないんです。」


  医者はパソコンにカタカタと打ち込みながら、むぎ子の激しい口調を諌めるように、穏やかに質問をする。むぎ子は、自分は必死に目を見て喋ろうとしているのに、医者が全然こちらを向かないことを、勝手に裏切られたように思う。


「それは、主に、授業中に、そうなるのかな?」


「そうなんです。先生に当てられて、答えるのが、短い文章だったらいいんですけど、一行以上のものを読めって言われたら、手がガクガク震えて、声が震えて、読めないんです。先生たちには、私、緊張しやすいから、当てないでくださいって、そう言ってあります…」


「なるほど。」


「でも、最近はその緊張がますますひどくなってきて、学校の先生とか、目上の人と話すのにも、すごく緊張するようになってきて。」


「緊張する相手は、男の人が多い?」


「…はい、そう思います。」


「なるほど」


「このままだったら、私、将来、何にもできないと思うんです。まともに働くことも、何にも…」


「うーん。でも、世の中には、人前に出なくても済む仕事がたくさんあるからね。」


 むぎ子は下を向く。言葉を重ねれば重ねるほど、伝えたいものが、靄になって、霞んでゆく。この感覚は、もう幾度も、経験してきたことだった。


             ***


「それで、他の病院には、行ったことがある?うちが初めてじゃない?」


「はい、いくつか…」


「何か、薬は出してもらった?」


「はい。薬は、いくつか。だけど、どれも聞きませんでした。ルボックス、ドグマチール、デプロメール、それから…」


「全く効かなかった?」


「はい。ただ、眠いだけで」


「そうか。そうなると、どうしましょうかね。他の薬を試して見るか、それか、カウンセリングか。」


「カウンセリングは、いくらですか。」


「初回は、1万円ですね。二回目からは、八千円。一応、予約状況を見てみましょうか」


「はい。あの、では、お願いします」


 むぎ子はカバンから、分厚い手帳を出した。カウンセラーの名刺や、ネットで調べた心療内科のコピーなどで、むぎ子の手帳はパンパンに膨れ上がっていた。


 医者の答えも、カウンセラーの言うことも、そのバカみたいな値段も、どこへ行っても、ろくに代わり映えしなかった。だがむぎ子は藁をも掴む思いでいたので、試せることは、すべて試してみたいと思っていた。


 むぎ子はこのように、おばあちゃんの引き出しの金をくすね、親にも内緒で、受験勉強もそっちのけで、こっそり心療内科巡りをしていたのである。


***


それは一年前のことだった。化学の授業中、先生に当てられる順番を待っている時、緊張のあまり心臓が飛び出しそうなほど苦しくなった。いつもの緊張とは段違いだった。大げさではなく、このまま死んでしまうのではないかと思われた。


 当てられたら、しっかり答えられるだろうか?声が震えてしまうのではないか?それを見たみんなはどう思うであろうか?私は明るい子で通っているのに。笑われる?見下される?哀れに思われる?手汗が教科書を濡らし、体がブルブル震えた。

 

 むぎ子の当てられる直前にチャイムがなって、その場は結局、当てられずにすんだ。しかし次こそ当てられるかもしれないということに、異常な不安を感じ始めた。

 

 むぎ子は自分のそれを、正常な緊張の範囲を逸していると思った。もちろん、誰だって緊張はすることはわかっていた。だけど自分のそれは、あまりにも振れ幅が大きすぎたし、そのことに対する不安が、生活のすべてに暗い影を落とし始めていることは明らかだった。


「あんたはどうでもいいことを考えすぎ。甘えてるだけ。そんなことを気にしてる暇があるなら勉強しなさい」勇気を出して相談した母はそう言って、請け合おうとはしなかった。


「緊張はするよ。だけど、眠れなくなるほどじゃないかな。究極、こいつらにどう思われてもいいって思ってるし」一番仲の良かった、少し斜に構え気味の友達はそう言った。


「そうは言われてもねえ。緊張って、みんなするものでしょう?」現代文の新任教師はそう言って笑った。


むぎ子が一番恐れていたのはその教師の受け持つ、現代文の授業だった。長い文章を読まされるかもしれないその授業が、史上最大の恐怖であった。


 だからむぎ子は勇気を振り絞って、大学を卒業したての彼女に向かって、自分は人より緊張しやすいたちであり、当てられるかと思うと授業に集中できないので、どうか当てないでほしいと言う嘆願をしに行ったのである。

 

しかし彼女はいつも友達とふざけあって振舞っているむぎ子が、ふざけていると思ったらしい。むぎ子はこの時ほど、目の前のこの女教師がブスに思えたことはなかった。彼女は甘い香水の匂いを職員室に漂わせて、右の薬指には高価そうな指輪を光らせていた。

 

 このブス、むぎ子は心の中で叫んだ。ブスをブスと思うことは誰にとっても簡単であって、わざわざ心の中でさえ、意識的にいうことではない。けれどもむぎ子は心の中で何度も叫んだ。ブス。こんなに見た目も内面もブスな女が、まっとうな社会人として認められ、男に愛されているという事実が、むぎ子には信じられなかった。

 

 それに対して、私の人生はお先真っ暗だ。私はこのまま行けばまともな社会参画など叶わないであろうし、そうすればきっと、誰にも愛されずに死んでいくことになる…


***


「ではカウンセリングと、あとは、この薬を試してみますか。」


「はい、あの」むぎ子はまた、効かない薬とともに外にひとりぼっちで放り出されてしまう、あの心細い気分になることを恐れて、尋ねた。「私、やっぱり病気ですよね。社会不安障害、というものですよね」


「そうですねえ…」医者はパッと目をそらした。そして、「私があなたをそう診断して、社会不安障害です、という診断書を出すというのは簡単なんですがね。でもきっと、それを求めているわけではないでしょう?」


 こんな風に医者と話していると、むぎ子は必ずと言っていいほど、自分を見失いそうになるのだった。昨日まで明白だった世界というものが、突然こんがらがった、複雑な、絶対に攻略不可能の迷路に思えてきて、今まで信じてきたすべてのもの、例えば、猫の気持ちのよい額の手触りや、冬の布団の暖かさ、そういう大切なものまでもが、自分のそばから、離れていくように思われるのだった。


 例えば授業中に長い読みを当てられて、声が震えて、読めなくなる。すると、友達が驚いて、どうしちゃったの大丈夫、と不審がる、もしくは面白がる、もしくはバカにして、蔑む。そこで終わるのだったら、まだ良い。学校内で、苦しみや恥がせき止められるのだったら。しかし、そうではない。そうではないのだ。


 その苦しみは、きっと、自分のすべてを闇で包んでしまう。希望に溢れていた未来も、楽しかった過去も、すべて。


その恐るべき崩壊はすでにもう、始まっているのだ。新しい心療内科をネットでこっそり探して見つけるたびに、祖母の金を盗むたびに、当てないでくださいと、勇気を出してこっそり頼んだ先生が、気を使ってむぎ子の番を他の生徒にバレないようにさりげなく飛ばすたび、むぎ子は今まで積み上げてきた自分という存在が崩れていく音を、確かに聞くのだ。何より辛いことは、それを崩しているのが、ほかならぬ自分自身が生み出した怪物であるという、揺るぎのない事実だった。

 

 その苦しみを、誰にわかってもらえるだろうか。どんなに近しい人とでも、本物の痛みというものは、決して共有することはできないのだ。むぎ子は痛いほどにそれを思い知った。我々の間には、深い川がいつも、音もなく流れ続けている。それを無理に越えようとすることは、どんな人間にだって不可能だ。

 

 「あなたは幸福すぎるのね。幸福な人間が、幸福を恐れて、勝手に不幸に落ちていっているのね。」むぎ子の唯一好きだった、数学の先生(数学は、長い文章を読ませるために、生徒をあてるということがないので、気兼ねなく付き合うことができたのである)は、そういった。


 むぎ子はしかし、そんなことはわかっていた。自分よりも苦しい立場にある、不幸な人間ならたくさんいる。そんなことは当たり前のようにわかっていた。

 

 しかしむぎ子は、自分の苦しみの強さ大きさに対して、大いなる自信を持っていた。もっと科学が進歩していたらよかったのに。むぎ子はそう思った。もっと科学が進歩していて、心の苦しみを、数値化できる時代ならよかったのに。そしたらこの二児の母であるいかにも世渡りの上手そうな、よく人間の出来て温厚な数学教師に、自分の苦しみを数値化して、見せてやることができたのに。



むぎ子は爆弾のような恐怖心を隠すことなく、公衆の面前に晒す勇気があれば、自分はもっと楽になれるだろうと思った。実際にそれを、試そうとしたこともある。


               *


 緊張を脅威に感じ始めてからまだ間もない頃、むぎ子は文化祭のカラオケ大会に参加するため、一人オーディションに参加した。つまり、荒療治をしようとしたのである。

 

 むぎ子はそれを、どんな薬やカウンセリングよりも、即効性のある確実なやり方だと信じた。それにその頃はまだ、「自分の緊張は思春期にありがちな、大いなる『気にしすぎ』であり、実際にそれが起こってしまえばなんということはない。つまり私をもっとも苦しめているのは『緊張することへの緊張』であり、実際に『緊張』してしまう段階にたどり着いたら、自分が想像したほどのひどい状態(声が出ない、顔が痙攣、嘔吐、などの大パニック)に陥ることはない。つまり自分に、ああ、なんだ、やってしまえば大丈夫なんだと、そう見せつけてやることが、一番の薬なのだ」という風に考えていたわけである。


そして、とうとうオーディションの日がやってきた。50名ほどの目立ちたがり屋の生徒たちが、小さな教室にすしづめとなってひしめいていた。前列に、文化祭実行委員がずらりと並んでいる。


 列の真ん中に座るのは、最大の権力を握った頭のでかい女委員長だ。むぎ子と同級生の彼女は、吹奏楽部の部長でもあり、お別れ会や新入生歓迎会などの行事のたびに、ラッパか何かを堂々と吹き鳴らして歩いている、成績優秀の模範生徒である。

 

 震える足でむぎ子は生徒たちの前に歩み出た。音楽が流れ始める。むぎ子は目をつむり、何度もカラオケボックスで練習したのと同じように、歌いだそうとするー

 

 しかし、出ない。声が出ない。むぎ子は焦り始める。笑顔で歌って踊るはずだったのに、恥もすべてかなぐり捨てて、笑いをとるはずだったのに。何もかもがうまくいくはずだったのに。教室はしんと静まり返っている。委員長が眉をひそめる。むぎ子は焦る。どうしよう、どうしよう。どうしようー


「音楽、止めて!」


 委員長の声が響いて、音楽が止まった。


固まったむぎ子に、委員長の厳しい詰問が飛んでくる。


 

「あの、もしかして、ふざけてます?」


「あの、いや、違うんです。緊張しちゃって、どうしようってなっちゃって…」


「それじゃあ困るんですけど。真面目にやってもらえませんか」


「はい、あの、真面目なつもりなんですけど、すみません、緊張しちゃって」


「どうしますか?辞退しますか?」


「あの、もう一度、やらせてください」


 委員長は長くてつめたいため息を吐いた。しかし、それ以上にむぎ子を苦しめたのは、その後ろにずらりと並ぶ、たくさんの瞳たちだった。むぎ子はその一つ一つの瞳の奥に潜む感情を、絶対に読み取ろうとはしなかった。


「じゃあ、もう一度」不機嫌な委員長の合図とともに、陽気で元気なイントロが流れ始める。むぎ子は思わず、「あの、すいません!止めてください」と叫んだ。


「なんですか?時間、おしてるんですけど。」


 苛立ちを噛み殺した顔で、委員長が、むぎ子をジロリと睨みつける。


「あの、後ろ向いてもいいですか?」


「ハァ?」


「後ろむいて歌ってもいいですか?」


「なんでですか?」


「恥ずかしいんです」


 委員長はあきれ返った瞳でむぎ子を見つめた。それから、もう好きにしてくれ、といったように、「次止めたら、もう失格にしますから」と言い放った。


 それから、むぎ子は声を限りに歌を叫んだ。


 むぎ子はそれまでおちゃらけた、明るい人間で押し通してきたつもりだった。少しへまをやらかしたところで、友達は、むぎ子だからしょうがないね、と笑って流してくれるのだった。だけど、その日ばかりは何もかもが違っていた。皆が、見てはいけないものを見てしまったような顔をして、むぎ子を見つめていた。


むぎ子はその瞬間に、自分の荒療治が失敗したことを悟った。むぎ子は頑張って勇気を振り絞り、逃げずに一歩踏み出せば、決して悪い結果はやってこないのだと、今日まで堅く信じ続けて生きてきた。けれど、実際は違うのだった。

 

 私はプライドが高すぎるし、あまりにも臆病になりすぎる。小さなことを大きく捉えすぎるきらいがあるし、自分のことを大事にしすぎてしまっている。わかっている、そんなことはわかっている、だけどどうしようもできないのだ。笑い飛ばせる人もいるだろう。けれど私にはできないのだ。甘やかされて育ったから?本当の苦しみを知らないから?

 

 むぎ子は戦場に行きたい、と思った。そこで待ち受ける飢餓や病気や死への恐怖が、この大したことのない緊張症など叩き潰してくれれば良いとそう思った。そうしてニュースに出てくる戦場地帯の子供達を、少しだけ羨ましいと思った。そして羨ましいと思った後は、自分のことを少しだけ恥じた。

 

 戦場へ行く代わりに、むぎ子は時折自分の顔へマスクをつけるようになった。そうすることで、いざという時、自分の顔が引きつったり、顔が赤く染まったことを、相手に悟られないで済むと思ったからだ。しかしあまり頻繁につけているのはいかにも不自然なので、当てられる恐れのある授業のある日と、緊張する相手と向かい合って喋らなければならぬ日を慎重に選んで、風邪気味なのだと偽ってマスクをつけた。




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