第3話 おどり

3、おどり…活きたままの寿司ネタのこと。


 店じまいを終えて事務室に向かうと、着替えを終えた山形さんが嬉々として話しかけてくる。


「むぎ子ちゃん、あのね、どうかな。みんなでこれから、林さんの、ポップンミュージックを見に行こうって、話してたんだけどね…」


 一つ年上の山形さんは看護学部に通う大学四年生の女の子で、いつもニコニコして微笑んでいる。肌は炊きたてのシャリのように真っ白で、邪気のない笑顔は錦糸玉子のようにふわふわだ。


「別に、わざわざ見るほどのものでもありませんが」


 黒縁メガネの林さんが照れくさそうに呟く。唇が分厚くて頭でっかち、深海のウニのように剛毛な短髪は、かぶりっぱなしの丸帽子のせいでペタンコだ。林さんは今年入社したばかりの新入社員で、目下研修中の身である。

  

             

 むぎ子が「見に行きたいです」と言って見つめると、林さんは「見られるとやりづらいんですけどねえ」と言って目を逸らす。そう言いながらも、彼のむき出しの大きな耳は、みるみる真っ赤に染まってゆく。

 

 野田先輩が「本当は嬉しいくせに。」と言って林さんを小突く。林さんが怒ったように、野田先輩を小突き返す。

 

 その後ろで、店長が黙々と業務日誌をつけている。どでかい体は狭い事務室の三分の一を占領している。誰も彼に話しかけない。むぎ子はその締まりのない背中を、じっと見つめる。



                 ***



 みんなでぞろぞろと商店街のはずれの、閉店間際のゲームセンターに向かう。林さんは「ポップンミュージック」という、音楽に合わせて八つのボタンを押し込んでいくゲーム機の前に立つと、腕まくりをした。


 その表情は店にいるときの何倍も真剣である。むぎ子は隣にあったクレーンゲーム機にもたれて、彼を見守った。すぐ後ろで、野田先輩がクスクス笑うのが聞こえてくる。野田先輩が笑うたび、むぎ子の手の甲に、揺れる彼の指先が触れる。むぎ子は気づかないふりをする。

 

 音楽が流れ始める。林さんは真剣な眼差しで、画面を食い入るように見つめながら、高速でボタンを押し込んで行く。その毛むくじゃらの腕が、肌色の残像となって、カラフルに光るボタンの上を、素早くいったりきたりする。


 汗がほとばしり、曲の盛り上がりに合わせて、つぶらな眼差しは真剣みを帯びてゆく。ガチャガチャ、ガチャガチャ!まばゆい光と音楽が、お酢くさい一団の気分を盛り上げる。みんなで、さしておかしくもないのに、腹を抱えて笑い続ける。すれ違ったサラリーマンが、彼らを疎ましそうに見る。そんな目線も、むぎ子には心地よいものに感じられた。

 

 むぎ子は笑いながら何度も、店の外を盗み見る。行き過ぎるまばらな人の中に、彼の姿は見当たらない。


「何、見てるの?」


 野田先輩のささやきに、むぎ子はハッと我に帰る。むぎ子よりほんの少し上の目線から、先輩が優しい瞳で見つめている。


「ううん、なんでも」


 むぎ子は悪戯っぽく笑ってみせる。先輩の瞳に、不安げな翳りが一瞬浮かぶ。むぎ子は心の中でほくそ笑む。


 ゲームセンターを出て、皆と別れる。家が近くのむぎ子と山形さんは、二人並んで夜道を歩く。コンビニの前を通りすぎるとき、冷風が一瞬、汗ばんだ体を通り過ぎていった。


「ねえ、むぎ子ちゃん。知ってる?林さんねえ、この駅に、引っ越してくるんだって。」


「えっ、ほんとうですか?どうして?」むぎ子は知っていたが、今初めて聞いた風を装った。


「たぶん、それはねえ」山形さんは、にやにや笑いを浮かべる。


「なんですか?なんですか?」


「ううん、私から言うのはやめておくね」


「なんですか?きになるなあ、もう」


「ふふふ。気にしておけばいいんじゃない。」


 むぎ子は心の中で笑う。わかってますよ、私。研修が終わっても、少しでも私の近くにいたいんです、あの男。


 山形さんが角で立ち止まる。ここでお別れなのだ。


「ねえ、むぎ子ちゃんてさ」


「はい」


「ゴキブリホイホイみたいだよね」


「えっ?!」


「だって、あの店に研修に来る社員の人、すごい確率でむぎ子ちゃんのこと好きになるから」


「そんなことはありません。だって副店長は、山形さんのこと好きでしたし」


「ああ、そんな人、いたねえ」山形さんは、あはは、と天に向かって豪快に笑った。むぎ子もつられて、わはは、と笑った。これはむぎ子が男の前では決してやらない笑い方であった。


 山形さんに告白したが見事に振られてしまった副店長は、今は他の店にいる。彼は最初から最後まで、むぎ子には目もくれなかった。その分、むぎ子は彼のことを、よく覚えていた。


「やっぱり、どの辺がダメだったんですか?見た目?性格?あの細さですか?」


「えー、どうだろねえ。うーん、全部かな!」


山形さんは手を叩きながら笑った。


「じゃあ、誰だったらいいですか?お店の中だったら?」


「えー?そうだなあ。うーん…」山形さんは足元の蝉の死骸を見つめながら考え込む。「やばい。思いつかない」


 むぎ子は一瞬、ブスリと心臓を刺されたような痛みを感じた。しかしとっさに「そうですよね!」と大きな声で答えた。「みんな、ダサいですもん。」


「うーん、そうかもね。」


「あんなとこでモテても、仕方ありませんよ」むぎ子はつい早口になる。


「そうだねえ。むぎ子ちゃんには、もっといい人がいると思うから、どうか早まらないで、もっといい人を待つんだよ。」


「ありがとうございます。」


 むぎ子は山形さんの背中がすっかり見えなくなるまで、引きつった笑顔を浮かべるのに必死であった。


               ***



 山形さんが角を曲がったのを確かめると、素早くスマホを取り出した。着信が2件、ラインが3件。


「今日は無様なところをお見せしてしまい、すみませんでした。反省しています。よろしければ、今度、お詫びに食事を奢らせてください」


 これは、林さんからである。面倒なので返信はしない。次のメッセージは、野田先輩から。


「今、電話いいかな?」


 見ると、着信のうち1件は、やはり先輩からだ。電話をかけ直す前に、最後のメッセージを確認する。しかし、それは大学のゼミの連絡網であった。むぎ子は読みもせずに画面を閉じて、歩きながら野田先輩に電話をかける。


「もしもし。」


「ああ、ごめん。もう家?」


「はい、もう直ぐつくとこです」


「ああ、そうなんだ。あのさ、ごめんね、昨日…へんなメールが届いたでしょう」


「はい、届きました。へんなメール。」


「そのこと、謝りたかったんだけど。だけど今日、二人きりになれなかったから。本当、巻き込んじゃって、ごめん。気づいたら、勝手にケータイ覗かれてて、メールまで…」


「それで」むぎ子のスマホを握る手は汗ばむ。「それで、まさか、別れちゃったんですか?」


「うん。そうなんだ。俺、さ…これでも、本気なんだ。こんなこと言っても、説得力ないと思うけど。」


「そうですね」むぎ子は余裕たっぷりに笑う。


「そうだよね。」つられて、先輩も笑う。


 むぎ子は先輩が何か言う前に、別の話題を探そうとした。しかし、間に合わなかった。


「…ねえ、俺のこと、真剣に、考えてみてもらえないかな。」


 むぎ子は青みがかった月を見つめる。終わりだ。今、終わってしまったのだ。深い充足感とともに、目を閉じた。野田先輩は来月でバイトをやめる。すると、また新しい誰かがやってくる。



 「先輩。私、ちょっと、びっくりしちゃって。」むぎ子はわざと、悲しげな声を出してみる。


「あんなメールもらったの、初めてだったし。実はまだ、ちょっと、びびってるっていうか、なんていうか」


「そうだよ、当然だよな。ごめんね、本当。もう二度と、あんなメールは来ないから。俺、きっぱり別れたし…」


「はい、でも、やっぱりちょっと考える時間が欲しいです」


「うん、もちろんだよ。俺、待ってるから。」


「ありがとう」


「…」


「…」


 さっきから、耳元で、キャッチがなんども鳴っている。むぎ子は早く電話を切りあげたくて、イライラしている自分に気づく。


 「ねえ、あのさ。今日の林さん、なかなかやばかったよね。あれさ、絶対、かっこつけてたんだよ、むぎ子の前で」


「そうなの?そうなのかな」


「絶対そうだよ」


「やばいですね」


「うん、俺思い出して笑っちゃう…」


「あの、すいません」むぎ子は半ば強引に遮った。「友達から、電話が入ってるので、また」


「あ、ああ。ごめん、長々と。」


「いえ。こちらこそ。それじゃあ…」


「あの、俺、待ってるからね。」


「はい…」


「それじゃあ」


 電話が切れる。キャッチの通知音が切れる前に、間に合った。「あの、もしもし…」


「…」


「もしもし?」


「今、どこ?」相手の不機嫌そうな声。むぎ子は飛び上がりそうなほど嬉しくなる。しかし、わざと冷たい声を出す。


「どこって、家の近くですけど」


「ふうん」


「もしかして、怒ってます?」


「いや、別に。」


「今、どこですか?」


「店」


「じゃあ、行きます」


「いいよ無理しなくても」


「行きます」むぎ子はもう一度強く繰り返す。「私、行きますから」


 有無を言わさず電話を切る。むぎ子はしかし急いだりしない。こういうときにこそ、優雅にやるのだ。ぐちゃぐちゃに絡まりあったイヤホンをカバンの奥から取り出して、耳にしっかりはめ込むと、お気に入りの音楽を流す。誰かの片思いを歌っている、ひと昔前に売れたロックバンドの恋の歌だ。


 和音が胸に沁み込んで行き、歌声が胸を揺さぶる。むぎ子は歌そのものよりも、こういう歌に感情を入れて聴けるようになった自分のことを、もっと素晴らしいと思っている。自分は今まさに、世界に参加しているという気持ちになる。あの頃の自分はもういない。誰かに好かれることや、誰かを好きになることと、全然無縁だったあの頃の自分はー


          ***


 店の裏の事務所のガラス戸から、かすかな明かりが漏れだしている。むぎ子は、あれは自分のためだけに灯された明かりだと思って、飛び上がりそうなほど嬉しくなる。イヤホンを引っこ抜き、カバンの奥に押し込むと、扉に近づいて、ノックもせずに中へ入る。

 

 大きなずんぐりむっくりの背中が、無愛想に丸椅子の上に乗っている。シャツの汗に濡れた部分が、変色して湿っている。なんだか嫌われ者の哀れな怪物のように見えてきて、後ろから抱きしめてやりたくなる。


「遅いよ」店長がむすっとした声でつぶやいた。


「すいません」


「…帰ろうかと思った」


「帰ったのかと思いました」


 椅子がゆっくりと回転する。短い首の肉がねじれて潰れる。拗ねた瞳が潤んでいるように見えて、むぎ子は思わずドキッとする。


「なんだよ、それ、ひどくない?」


「だって、ずっと不機嫌だったし」


「俺が?」


「そうです」


「なんでよ」


「むすっとしてたじゃないですか。みんなでゲーセンに行こうって言ってた時も。あてつけみたいに、山形さんのこと褒めるし…」


 みるみるうちに、店長の瞳が柔らかな、慈愛に満ちたものに変わってゆくのを、むぎ子は面白がって見つめていた。


 だけど、むぎ子の言葉は本当だった。ゲーセンに一緒に行って欲しかったし、褒められる山形さんにやきもちを妬いたのだ。

 

 店長も同じだった。彼は薬指の、垢まみれの汚れた指輪を光らせて、「ごめん。」と言った。そして、照れ臭そうに、「そんなら、お互い様だ」と言った。


「はい、お互い様です」


「あーあ」店長は上体を思い切りそらして、伸びをした。そして、「俺、心配で、おかしくなっちゃいそうだ。毎日毎日あいつらにやきもち焼いてさ。むぎ子さん、モテるんだもの」


 むぎ子は溢れ出す笑みを抑えようともしなかった。「心配しないでいいですよ」と言った。


 それも本心だった。むぎ子は店長のことが誰よりも好きであったから。


「どうだかな」店長はむぎ子にも、自分自身にも呆れたような顔をして、机に向き直った。


 むぎ子は机の上の履歴書を覗き込み、「新人ですか?」と尋ねた。


「うん、高校生の男の子」


「へえ…」


「手、出されないでよ、ね、頼むから」


 むぎ子は「まさか」と笑った。内心では、とても楽しみにしていた。



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