第16話 バラン


バラン…仕切りに使われる葉。






蒸し暑い、雨の夜であった。客足はぱったり途絶えていた。店の中には気だるい空気が漂っていた。皆、手持ち無沙汰に掃除をしたり洗い物をしながら、一時間後の店じまいをひたすら待ちわびていた。


突然、厨房から翠の短い悲鳴があがった。はっとして振り返ると、先ほどまで魚をさばいていた林が、右腕をかかえてうずくまっている。指の隙間から赤い血がどくどくと流れ出して、魚の血と混じり合って、床の上を漂ってゆく。


包丁で、深く切ってしまったらしかった。


すかさず、医学部の山形さんが医療箱を持って駆け寄った。翠が、救急車を呼びに事務所へ駆け込んだ。店長が林さんの体を抱きかかえて必死に声をかけた。


むぎ子は何をしたかというと、一歩後ずさって、ぼんやりと見つめていただけだった。


「大丈夫か、大丈夫か」店長の声が遠くに聞こえる。床が真っ赤に染まってゆく。林の顔から、血の気がゆっくり引いて行く。山形さんは凛々しい戦士のような顔をして、落ち着いて処置を施している。


むぎ子には、すべてが遠い舞台で行なわれている演目のように、靄がかって見えた。自分は今、客席に座って、彼らをじっと見ている。


むぎ子はそばにあった柱に隠れ、盗み見するように、じっと見つめていた。


いや、違うーそうじゃない。そうではない。店長の視線が一瞬、こちらへちらりと向けられた時、むぎ子は思い出した。


舞台の上に立っているのは自分の方なのだと。とっさのことに怯える私、可愛らしい私。そんな私を見て、男たちは、もっと私のことを好きになる…


救急車が到着する。林はぐったりしていたが、隊員の呼びかけには応じていた。店長が付き添いとして、同乗することになった。山形さんがむぎ子の側に立ち、いつもの笑顔で、「大したことないよ、大丈夫大丈夫」と声をかけてくれた。むぎ子が怯えていると思ったらしかった。


その夜の1時ごろ、スマホが鳴った。飛びついて見ると、林さんからの、「今日はお騒がせしてすみませんでした。なんとか大事には至らずに済みました。今度、お詫びにご飯でも。」というラインだった。がっかりしてスマホを投げ捨てようとしたその時、続けざまにスマホが震えた。


店長からの電話だった。むぎ子は慌てて飛びついた。


「もしもし」


「寝てた?眠そうだね」


「ちょっと、寝そうになってました」


「林、死ななかったよ」


「はい、さっき聞きました」


「ああ、焦ったなあ。久しぶりに焦った」


「うん、死ぬのかと思いました」


「…本当に?」


「え?」


「むぎ子さん、本当に、そう思った?」


店長の声の調子に、いつもと違うものが含まれている気がした。むぎ子は手汗が滲むのを感じた。


 「…どういう意味ですか」


「わからない?」


「わかりません」


短い沈黙の後で、こもるようなため息が聞こえ、それから騒々しいバイク音が聞こえた。店長はためらいを交えながら、言った。


「今日、なんもしなかったね」


「何が」


「仲間が怪我したのに、何もしないで、黙って見てたね」


むぎ子は脇の下に、ドッと汗が噴き出すのを感じた。動揺を悟られないようにしながら、「だって、私が出て行ったところで、邪魔になるだけだったし」と言った。


「そういうことを言ってるんじゃないんだよ」


「じゃあどういうことを言ってるんですか」


長い沈黙の後で、店長がポツリとつぶやいた。


「…俺はむぎ子さんを買い被っていたのかもしれないなあ」


むぎ子は言葉を失った。


そして、衝動的に電話を切った。そしてすぐさま聡に電話をかけた。


 聡はすでに流血事件のことを知っていた。むぎ子はそのことを、面白おかしく話しまくった。林がどんな顔をしていたか、山形さんがすっかりいつもと別人のようだったこと…しかし自分がどうしていたのかについては、一言も話さなかった。


聡はいくらの一言一句に笑ってくれた。むぎ子は聡と話していると、安心することができた。むぎ子はしかし、自分のとった傍観という行動を、どうしても口に出すのは憚られた。


それは、「どこか自信がなくって、人に対して緊張する人」という、聡とこっそり共有しているつもりの境界線を、今新しく引かれた、「仲間の危機を傍観しているだけの、冷たい人間」という境界線によって、断ち切られてしまうことを、ひどく恐れたからだった。むぎ子は考えていた。もし、今日あの場に、聡がいたら?


きっと彼は私とは別の行動をとったはずだ。


私みたいに、ただぼんやりと、出血と言っても死ぬことはないだろうし、医者の卵が的確な処置を施しているのだから、私にできることはない、というどこか冷めた気持ちで見つめているようなことはせずに、きっと従順な犬みたいに、林さんのそばへ駆け寄っていったことだろう。あるいは、救急車を狭い道に誘導することもしたかもしれない。あるいは、林さんと聡くんとはそこそこ仲が良いから、一緒に病院へ付き添ったかも…


むぎ子は話している間じゅう、その時、むぎ子さんは何していたの?と屈託ない質問を投げかけられやしないかと、気が気でなかった。そうして結局、その不安に耐えきれなくなって、自分から電話を切り上げた。


むぎ子は激しく動揺していた。店長にぶつけられた言葉は、店長の姿を借りた、自分自身の言葉なのだという気持ちがしてきた。


自分にはずっと、言葉にならない自負があった。それは、大きく膨れ上がった、誰にも理解のされない精神的苦しみを、自分はずっと一人で抱え込み続けて生きてきたのだから、浅はかな考えで生き続けてきた同世代とは、人間的な器の大きさや深さがぜんぜん違うのだと、そういう無意識のうちにできあがった自負だった。


 むぎ子はしかしここへきて、そんなことはないということを、思い知ったのだった。それは、紛れもなく、目の前の人間の危機に対して、冷めた視線で立ち尽くす自分のことだった。


自分はただの最悪な人間なのではないか。自分のことがかわいいあまりに緊張症に陥っただけの、冷血人間なのではないか。いや違う、そうではない。店長の言うことがおかしいのだ。あれは所詮、少年漫画誌にありがちな「仲間との助け合い精神」に憧れたまま大人になった、精神的に未熟な人間の言うことなのだ。


もし今、仮に時を戻したとしても、自分は同じ行動を取るであろう。下手に熱血漢を演じて飛び込んでいったところで、応急処置の邪魔になるだけではないか。それであるならば、あのように、私が実際そうしたように、レジにじっと立ち続けて、客が訪れたら、何事もないように笑顔で寿司を売り続けるようにスタンバイしていることこそが、最善の使命ではなかったか。


むぎ子はそうだ、そうなのだとも、と自分に言い聞かせ続けた。しかし、なかなか眠れなかった。

新聞配達のバイクの音が聞こえてきた。むぎ子はギラギラした目で、うっすら光の差し始めた窓を呆然と、敗北者の眼差しで見つめた。自分はどうしても冷血なのだ、と言う思いが、心の奥底で、燠火のように長々とくすぶり続けていた。


むぎ子はずっと、自分のことを、「緊張症ではあるが、他人がピンチの時には反射的に駆けて行って、彼を助ける優しさを持ち合す、血の通った人間」と信じてきた。そうして、自分の痛みを理解しようとしないもの、例えばあの国語教師のような人間には、自分は真の意味で負けていないのだと信じきっていた。彼らのような心の芯まで腐りきった大人にならないように、これは神から与えられた試練なのだと、信じてきた。


その信念こそが、不登校や引きこもりにさせずに、ギリギリのところでむぎ子を長らく踏ん張らせてきたものだった。


そうだとも…自分は苦しみに選ばれた人間と信じていたのだ。


自分は他人の知らぬ苦しみを知っている。平和の殻を被ったこの幸福な社会の中で、そのすぐそばに横たわる深い川を覗くという苦しい使命を、自分は天から付与されたのだと、そうしてその使命こそが、私の精神を高め、深い人間にするのだと、強く信じてきたのだ。


だがしかし、実際はどうだろう?私は体から血を流して苦しむ人間を、何にもせずに見つめていた。


私も結局は、あの国語教師と同じ、他人の痛みには無関心の、腐りきった人間なのかもしれない。いや、そうではない、もっと悪い。国語教師は心が腐っていても、人前に立っても緊張はしない。しかし私は人前に立って緊張する上に、心が腐っているのだから、国語教師よりなお、人間として悪いのではないかー



               ***


 むぎ子はとうとう耐えきれなくなって、「起きてる?」というメッセージを送った。一秒も経たぬうち、すぐに、「起きてるよ」と返事がきた。「何してんの、早く寝なよ」「そっちこそ」「三分だけ電話していい?」「いいよ」


むぎ子は電話をかけた。聡は眠そうな声で電話に出た。むぎ子は、起きてたなんて嘘だ、と思った。


「聡くんはさ、どうしてそんなに優しいの?」むぎ子は明るみ始めた窓を見つめながら尋ねた。


「むぎ子さんが優しいからだよ」


「優しくないよ。今日だって、林さんのこと、助けなかったし。」


「そんなこと、助けられなくって当たり前だよ。山形さんていう、プロがいてくれたんだからさ。任せておけばいいんだよ。」


「うん」


「それにしても山形さんて、普段はあんなヘラヘラしてるのにさ、いざとなったら、やっぱり頼もしいんだね」


むぎ子は聡が自分のいって欲しい言葉を言ってくれたことに安心すると同時に、山形さんに対するかすかな嫉妬心を感じた。それで、強引に、自分のことの方へ話を戻した。


「だけど、私は、ひどい人間なんだよ。聡くんはまだ若いからわからないだろうけど」


「また、ガキ扱いしてさ。」


「だってガキじゃん」


「ああ、まただよ。ひどいな」聡はそう言いながらもどこか嬉しそうだった。そして、「だけど、むぎ子さんは俺にとっては、特別な人間だよ。俺、学校の誰にも言えないこと、むぎ子さんになら言えるんだ。」


「なんで」


「さあ、わからないけど。だけどやっぱりむぎ子さんは、俺の中で、殿堂入りなんだよ。」


むぎ子は聡の言葉を心地よい気分で聞いているうち、少しずつ眠くなってきた。


「殿堂入りってなに」


「むぎ子さんを超える人間は、これから現れないだろうってこと」


そして、「ガキだな」と言いながら、心の底では、聡の言葉に、ひどく救われているのだった。むぎ子はゆっくり瞼を閉じた。

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