第15話 おてもと
おてもと…お箸のこと。
その日から、むぎ子は聡と毎晩夜中に電話するようになった。12時過ぎから電話を初めて、気づけば夜明け前になっているということもしばしばだった。とりとめのない話ばかりだった。寿司屋の人々の話、将来の不安の話、好きな映画の話、音楽の話、嫌いなやつの話、聡の父親が離婚したので、小さな妹の面倒を見なければならず大変な話。
むぎ子は彼の家庭内の悩みや、進路の悩みを、もっぱら聞く側に回っていた。聡はこんなに丁寧に話を聞いてくれる人は他にはいないといって感動を示した。しかしむぎ子はかつて散々通ったカウンセラーのやり方を真似ているだけだった。
毎回必ず、ナナちゃんの話をした。ナナちゃんは近頃、猛アタックをかけてきているということらしかった。
「いつまでも焦らして、ひどい男だね。」
むぎ子は聡をそうやってからかいながらも、諸悪の根源は、他でもない、自分自身であることを、しっかり理解していた。
聡の言動や態度から、彼のむぎ子に対する気持ちの種類はもはや一目瞭然であった。そして彼のその、どこか苦しげな、おどおどした、自分に対する恥ずかしさを目前にすると、むぎ子はいつも決まって、ひどく安心できるのだった。
世界には見えない境界線が引かれてあって、それは普段何気なく生活しているうちには見えないけれど、ふとした災難に見舞われた時や、もしくは病気になった時、例えば痛風や頭痛もちになってしまったり、花粉症や皮膚病にかかったりなどした時に、「その病気にかかっている人」と「そうでない人」の間に、明確な境界線が浮き上がる。そしてむぎ子にとって特にそれは、「緊張する人」と「そうでない人」の間にくっきり引かれているものだった。
そういう時、境界線の、陽の当たらない方にいる人間の目には、境界線の向こうにいる人間が、太陽のきらめく光を受けて、直視できないくらいに眩しく、美しく、遠く幻影のように映るのだ。
その時一番皮肉なことは、その幻影の中には、「そうなる前の自分」の姿も、含まれているということだ。手を伸ばしてもそれはもう、届かない。「そうなる前の自分」に戻りたいと願っても、奇跡の起きない限りは、もう2度と向こうへ戻れないのだ。
向こう側の人間に近づきたいと思うこともある。近づけたと思うこともある。けれども結局彼らの方へと近づくことは、限りある自分を、少しずつすり減らしてしまうことなのだ。そして最後に残されるのは、向こう側にいる幸福な人々を、心の底でほんのり見下してしまう、虚しい気持ちだけなのだ。
そして、ナナちゃんや店長や翠さんや林さんやあの中国人や星野はきっと、向こう側の人間なのだ。けれど、聡は違うのだ。聡はきっと、自分のすぐ側にいる人間なのだ…
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