第17話 ナミダ

ナミダ…わさびのこと。




 

 それから一ヶ月が過ぎた。むぎ子はその夜、いつものように、聡を呼び出そうと電話をかけた。


 しかし電話越しに帰ってきた返事は、芳しくないものだった。どうやらナナちゃんと会う約束をしているらしかった。そんなものは断って、すっ飛んで来てくれると思っていた分、むぎ子はひどくがっかりして、飼い犬に手を噛まれたような気持ちになった。その気持ちが伝わったのだろうか、聡は突然、こんなことを言い出した。


「むぎ子さんにはもう会うなって、ナナがいうんだ」


「なんで何それ」


「年下の俺を弄んでるだけだって」


「へえ、そんなこと、言われたままに信じちゃうんだ。簡単なんだね」


「いや、俺も、そう感じてたとこだから」


 聡の態度には、気を引こうとするというよりは、自分はむぎ子との別れを決めようとしている最中なのだから、邪魔をしないでくれ、というある種の潔さが感じられた。それで、むぎ子は何にも言えなくなった。


 聡はもう行かなくちゃ、と言って、気まずそうに電話を切った。むぎ子は自分がふられたような形になっていることに、少なからず憤慨した。


 しかし、思い当たる節は多々あった。手をつないで歩いたこともあったし、夜の公園の滑り台の上で身を寄せ合って眠ったこともある。しかしむぎ子は一度だって、聡の気持ちに向かいあおうとはしなかった。むぎ子は聡を試し続けたのだ。どこまで生殺しに耐えてくれるのか。どこまで自分を追いかけてくれるのか。


 しかし聡はあっけなく去ってしまった。


 むぎ子はしかし、どこか冷静な気持ちで、聡は偉い、と思った。こうなることはわかっていたのだ。むしろこうなるように、無意識に仕向けていたのはむぎ子自身なのだ。


 むぎ子は聡のことを、聡が望むようには好きではなかった。ただもっともっと別の次元で、聡のことを必要としていただけなのだ。ただの恋愛沙汰よりも、もっともっと深い、精神的な次元で…


 けれども所詮、言い訳だった。




***


それは店長の異動が三日後に迫った、月曜日のことだった。むぎ子はバイトも学校も休みだったので、家でぼんやりとテレビを見ていた。


 スマホが鳴ったのは夕方6時過ぎだった。店長からの電話だった。家のすぐそばに来ているから、出てきてほしいということだった。


 店長のワゴン車は、いつも聡とむぎ子が別れを惜しんで話していた横断歩道の、すぐ脇に停車していた。


 店長は例のダサい若作りの白シャツを着て、(それは彼の勝負服だった)、襟元からだらしなく溢れ出した首肉の間にはクロムハーツの銀のネックレスが挟まれてあった。


「今日、引き継ぎしてきたんだ」


 むぎ子は無様だと思った。目の前の、客観的に自分を見られない男も、そんな男に呼ばれてのこのこ飛び出してくる自分のことも。


 むぎ子は助手席に座り、隣を見ないように、背筋を伸ばして、まっすぐ前を見つめた。


 そして、「そんならお別れですね」と言った。それは「お箸は何膳必要ですか」と普段お客に尋ねる時のトーンと何ら変わりないものだった。自分の口からその言葉がすんなり出てきたことに、自分自身で驚いていた。


 店長はじっと前方を睨みつけて沈黙している。むぎ子は早く終わらせたいと思った。


「どうして?」店長の声は今までにないほど弱々しく、震えていた。「どうしてそんなこと言うの」


 横断歩道が青になる。


「俺、そんなの、受け入れられないよ。むぎ子さんがいない生活なんて、考えられない」


 すると突然店長は、ハンドルにしがみつくようにして泣き出した。むぎ子はその姿に、無様を通り越して、哀れみさえ感じ始めた。なるべくなら、一度は好きになった相手の、そんな姿は目にしたくはなかった。


「俺、俺、無理だよ。むぎ子がいない人生なんて。俺、生きてなんかいけないよ」


 そう言った店長の目から、薄い透明な、氷のようなものがピンと勢いよく飛び出した。ダッシュボードに落ちたそれをよく見ると、コンタクトレンズであった。むぎ子はコンタクトを宙に飛ばす人間を見たのははじめてだったのでひどく驚いた。



「あの、コンタクト、飛びましたよ」


「え?ああ、うん…」店長は顔を上げてダッシュボードに手を伸ばした。コンタクトを親指にのせて、真っ赤な瞳をむぎ子に向けると、こう言った。


「どうしよう、もう、目に戻せないよ」


「そうですね。ゴミが付いてますもんね」


「どうしよう、どうしよう」


「わかりました。ちょっと、そのまま、待っておいてください。私、家から洗浄液を持ってきますから」


 むぎ子は家までの道を駆け抜けた。早くしないと、店長のレンズは乾いてしまう。家の中を風のように駆け抜けて、洗浄液のボトルとケースを引っ掴むと、車へと舞い戻った。


 店長は鼻をすすりながら、コンタクトレンズを洗った。店長は今までになく素直で、小さな子供みたいであった。


 むぎ子はその様子をじっと見守っていた。無事にレンズが店長の目に戻されると、心の底からほっとした。


「もう、飛ばさないでくださいね」


「うん、ありがとう。むぎ子さんは、本当に優しいね」


「見直しましたか?」


「うん、見直した」


「そう……」むぎ子はそっけなく返事した。店長は、むぎ子にあんなに冷たい言葉を吐いたのを、もう忘れてしまったみたいだった。


 この男は、洗浄液を与えたくらいで、簡単に手のひらを返すのだ。むぎ子はもう本当に、この男は自分よりずっと下等なのだと思った。そうしてそのことに対して、どこか安心を感じている自分に気がついた。


「ねえ、まさか、これで終わりじゃないよね?」


「考えておきます」もちろん、考えるつもりなどなかった。


「また、連絡するからね。無視しないでね。」


 むぎ子は勢いよく車を飛び降ると、今度は一度も振り向かずに、家までの道を歩いて行った。


 むぎ子は社会にのさばっている、自分のようにあがり症で苦しんだことのない人間の大多数は、所詮はこのレベルなのだと思った。浅はかで、愚かで、どうしようもない。あの国語教師と何ら変りない。むぎ子は自分をやっぱり正しいのだと思った。むぎ子は必死にあがり症に苦しむ続ける自分のことを、高等で正しいと思った。


 そうだとも。彼らはそんな私のことを、好きになったのだ。人間的にできている私のことを。

 むぎ子は計算した。寿司屋の何人の男が、私を好きになったか?そうして、その人数が、ゼミの人数を超えていることを確かめたー




     ***


むぎ子は勇気を出してゼミへ向かった。あと最低一回は出席しなければ、単位はもらえないはずだった。


 ゼミ室の中は冷房がよく効いていて、壁一面が真っ白のタイルで埋め尽くされており、長机が四つ、向かい合って四角を成すような形で並べられていた。ホワイトボードはピカピカに磨き上げられていて、窓にはブラインドが下ろされていた。真新しい蛍光灯が、教室の中を満遍なく照らし出している。


 むぎ子はその部屋に足を踏み入れてすぐに、帰りたい、と思った。あの雑然としたレジ台に今すぐ戻って、寿司パックの中の一つとして埋もれたい。商店街のスピーカーから流れる一時代昔のJポップと、ガヤガヤとした雑踏の音に紛れて、満面の笑みで寿司を売りたい。その方が、こんな無機質な部屋の中でゲージツだのカクメイだのを語ることより、何倍も、ずっと、ずっと、健康で正しいことではないか。それが、一人の人間が、生きていくということでないのか。


 むぎ子はそんなことを心の中で呟きながら、空いている席を選んで座った。出席している学生は、全部で6人だった。その中に星野の姿がないことに、むぎ子はひどく安心した。 


 ミスコングランプリの、アイドルみたいな容姿をした女と、その隣に座るショートカットでおしゃれぶった女が目についた。彼女らが私の寿司屋で働いたら、どうなるだろう。何が起きるのだろう。むぎ子は怖くなって、さっと目をそらした。


 四十前半くらいの教授が分厚い辞書を片手に部屋に入ってきて、むぎ子にちらっと目をやり、「おや、珍しい人がいる」、と言ってから、席に座った。


「今日は、前回の続きの46ページから」


 むぎ子は真新しいツルツルの教科書を開いた。ブワッと滲んだ手汗が、ページの隅っこをぐしゃぐしゃに濡らす。


 まさか、読むのだろうか。


「それじゃあええと…」教授が、名簿に目を落とした。「南むぎ子さん、読んでください」


 むぎ子は耳を疑った。よりによって、一番恐れていた事態に、たった二回の出席の間に直面するとは思っていなかった。


 その瞬間、ドアが開いて、汗をにじませた星野が騒々しく椅子に体をぶつけながら入室してきた。むぎ子を見つけると、つぶらな瞳をわざとらしく見開いて、驚いた顔をした。


 むぎ子はさっと目をそらし、マスクを外した。久しぶりに、「あの感じ」が、心を支配してゆくのを感じた。


 それは何より恐れていた緊張の気配だった。顔の筋肉が引きつり、血の巡りが活発になって、心臓が狂ったようにばくばくいう。顔は恥ずかしさといたたまれなさでおでこの端まで真っ赤に染まり、喉の奥が塞がれたように声を失い、コントロールが効かないくせに、下手に取り繕おうとして、うまくこなそうという意思と、泣き出したいという本能が拮抗して、表に出される表情は、めちゃめちゃに歪んでしまう。


 そんな醜い哀れな、痛々しい私は、なんとしてでも外へ押しやらねばならぬのだ。そんな私が、ここの人間たちに見つかろうものなら、私は明日も明後日も一年後もまともに眠れなくなるだろう。あの文化祭のオーディションで得た、痛々しい思い出が今でも、私を苦しめ、痛めつけているように。


 むぎ子は必死に読み上げようとした。こうして読み上げるのは本当に久しぶりのことだったから、案外やってみたら読めるのかもしれない、と思った。しかし、現実は厳しいものだった。


 むぎ子の声は震えに震えた。喉はすぼまって、かすれて声が出ずに、読めないところが多々あった。むぎ子が今、異常な恐怖と緊張を感じているということは、誰の目にも明らかだった。


 顔には身体中の血という血が上り、読み上げる文章の意味は何一つ頭に入ってこなかった。皆がこちらをどう見ているのか、視線から逃れるように言葉を睨みつけた。それでも、むぎ子は必死に続けた。「読まなくてもいいよ」なんて言われたら、それこそもう二度と、立ち上がることはできないだろうと思った。


 むぎ子はもしかしたら自分が泣いているのではないかと思った。それくらいに声は震え、引きつり、かすれていた。しかしそれでも読み続けた。


 むぎ子に取って、消してしまいたい記憶が、また一つ増えた。貯めてきたはずの寿司屋での男たちの「好き」は、結局彼女を救わなかった。

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