黄金林檎の落つる頃 ~二人の漱石~

四谷軒

明治三十二年秋、子規庵にて

 ――糸瓜忌へちまき(子規の命日、九月十九日)に寄せて






林檎りんごしんまでも食う事が出来るけれど、心にはほとんど甘味がない。皮に近い部分が最もうまいのであるから、これを食う時に皮を少し厚くむいて置いて、その皮の裏を吸うのも旨いものである。」


 正岡子規「くだもの」より






 明治三十二年秋。

 東京根岸、子規庵。

 正岡子規は、折からの喀血かっけつと、それに付随する激しい腰痛に苦しみ、この上野の山を望む庵をつい棲家すみかと定めた。

 このあと、子規は立つどころか座ることもできなくなり、談話も許されないほどの凄絶な状況となっていくのだが、子規本人は恬淡てんたんとしていた。

あしがジタバタしても、しょうがないぞなもし」

 郷里の松山の言葉でそう言っては、家人や来客に余計な気遣いをさせないようにしていた。

「……さて、今日は漱石が見舞いに来るとか」

 東大予備門以来、漱石──夏目漱石は子規は親友である。

 最初は寄席だったが、そのうち俳句や漢詩などを共にするようになり、今ではすっかり、互いになくてはならない存在だと思っている。



「黄金林檎の落つる頃?」

 見舞いに来た漱石は、子規の枕頭に置かれたかご林檎りんごを見るなり、そんなことを言ってきた。

 この頃、熊本の第五高等学校(のちの熊本大学)の英語教師を務める彼は、俳句の結社・紫溟吟社しめいぎんしゃ(紫溟とは筑紫の海、すなわち有明海)を興しており、俳句で名を上げていた。

 その漱石が「黄金林檎の落つる頃」と言ってきた。

 これは何かある。

 そう思った子規は、「そいつぁ、君の新しい句のネタかい」と振ると、「ちがう」と返って来た。

「おれは、英国に留学することになった」

 文部省から、内々に打診があったという。

「そいつぁ豪気ごうきぞなもし。芽出度めでたい、芽出度めでたい」

「……何が芽出度めでたいもんか」

 漱石は帝国大学を卒業し、東京師範学校の英語教師となったものの、人の模範であることはできないとして悩み、そもそも英語の教育ではなく、英文学を志していたという屈託もあり、務めて二年早々にして辞した。

 この時漱石は、人の模範たり得ないという懊悩、あるいは恋愛についての悩み苦しみもあり、東京から去って、松山の愛媛県尋常中学校、熊本の第五高等学校と勤め先を変えていった。

 ……英語教師として。

「そのおれに対して、どうだ。文部省はのため、英国に行けとよ」

 英文学の研究という、黄金の林檎を落としたのが今だ。

 漱石はそうこぼした。

 黄金の林檎とは、漱石に言わせると、希臘ギリシャ神話に出て来る伝説の果実で、不死をもたらすらしい。ヘスペリデスというそのっていて、英雄ハーキュリーズヘラクレスが手に入れたことがあるが、やがてヘスペリデスの園に戻されたという。


 おのれの夢破れた今を、黄金の林檎の落つる頃とたとえるところが、いかにも漱石らしい。



「……すりゃあ、漱石の教師としての活動が認められたんぞなもし」

 子規は、籠から林檎をひとつ、取り出した。

「祝いだ。食べるか」

 漱石が「らん」と答えると、「そうか」とつぶやいて、小刀でき始めた。

 その剥き方が、漱石の目から見るといかにも雑で、皮の裏に実の部分が分厚くくっついている。

「おい、おい」

 もしかして、手先がうまくあつかえないのかと漱石は心配し、寄越よこすように言う。

「これでいい、これでいい」

 子規は何と、剥いた皮の裏に口をつけた。

「えっ」

 漱石があっけに取られている間にも、子規はちゅうちゅうとその林檎――の皮だったもの――を吸い出した。

 上野の山から吹く風が子規庵に流れる中、吸い切った「皮」をしゃくしゃくと噛みだす子規。

 漱石が黙然としているので、口を離した。

「……知らんのか、林檎は、皮の方が――皮のそばにあるぃが、一等いっとううまい」

 実際、子規はその著作「くだもの」で、「林檎はしんまでも食う事が出来るけれど、心にはほとんど甘味がない。皮に近い部分が最も旨いのであるから、これを食う時に皮を少し厚くむいて置いて、その皮の裏を吸うのも旨いものである。」と書いている。

「だからお前も、やって食べてみろ」

 子規が病床から差し出した「皮」を手に取る漱石。

 きょろきょろと、子規庵の開け放した病室兼書斎の縁側の向こうを見る。小園(庭のこと)の秋の草花の先にある建仁寺垣けんにんじがき(竹垣の一種)があり、そのさらに向こうの通りに誰も通っていないことを確かめ、漱石は吸った。

「旨い」

「じゃろ?」

 子規は莞爾として笑った。

 そうして二人で林檎の皮を吸って食べ、よしなしごとを語るうちに、時が過ぎていった。



 夕暮れ。

 かあかあという烏の声が聞こえ、漱石は腰を上げた。

「長居した」

「何、いいさ」

 子規庵を出ることがない子規にとって、来客は貴重だ。

 ましてや、それが親友である漱石であるならば、なおのこと。

「もう、来られないかもしれん」

「そうか」

 渡英するとなると、忙しくて来られない。

 渡英したらしたで、しばらく帰れない。

 帰る頃に、子規が生きているか、わからない。

 だからこそ漱石はこの折りに来訪したのだが、いざ来てみると、おのれの愚痴ともつかない、くだらない話題を振ってしまったと後悔した。

 もっと、ほかの話題にすべきだった。

 友との最後の日々という黄金の林檎を、落としてしまった。

「なあ」

 驚いたことに、子規は立ち上がった。

 結核から影響されるカリエスなのに、そんなことをしてはと、漱石はあわてる。

「そんな気に病むことはないさ、とは言わん」

 子規が漱石の肩を抱くと同時に、倒れそうになる。

 漱石は思わず子規を支える。

「そんな月並みなことは言わん」

 子規はふっと笑った。

 月並みとは、子規が言い出したことで、月並み句会という例月の句会・歌会で作られる俳句・和歌を、つまらないという意味で使った。

「……気に病んでもいい、体を壊してもいい。だけど、自分のやりたいことをやれ、漱石」

 今の子規でないと言えない台詞だ。

 血を吐いても、俳句に歌に、のめり込む子規でないと。

「せっかくの英国じゃないか。英語の教育? そんなのくそくらえだ。英文学を極めたまえよ、君」

「…………」

 子規は漱石の肩を叩いた。

「落ちた林檎なら、拾って見せろよ。それでこそ、だろ」

 あしが言うんだから、間違いないと子規は言う。

 そう言えばそうだったと、漱石はうなずいた。

漱石枕流そうせきちんりゅう、石にくちすすぎ流れにまくらす。晋書しんじょに出て来る、の男の話が由来だったか」


 晋の孫楚という男が隠遁を決意して、「流れにくちすすぎ石にまくらす」暮らしをすると言おうとして、「石にくちすすぎ流れにまくらす」と言ってしまい、「流れに枕するのは俗世の汚い言葉に汚れた耳を洗うため。石にくちすすぐのは、汚れた歯を磨くためだ」と言い張った故事がある。

 子規はそれを知って筆名にしていたが、東大予備門で知り合った夏目金之助という男が、やはり負けず嫌いであり、子規はそれを気に入って「漱石」を譲った。


「……あん時から、変わらん。林檎のしんが甘くないのとおんなしじゃ。君の心は変わらんよ、漱石」

「何てえ、たとえだよ」

 漱石は愚痴りながら、そっと子規を寝床に横たえた。

 子規は、「辛気くさいのは、しょうに合わんぞなもし」と、句帳をって、ある頁を見つけ、それを破いて寄越よこした。

「君に進呈する。はなむけだ」

 見ると、

 ――あやまつて 林檎落しぬ 海の上

 と記されていた。

「……いやいや、拾えと言っといてこれはないだろう」

「辛気くさいのは性に合わん、と言うとろうが」

 子規庵に笑声が響く。

 笑顔のまま漱石は去り、そして翌明治三十三年、英国へと旅立った。


 その後、漱石は倫敦ロンドンにおいて英文学研究に没頭し、同時に精神をすり減らし、周囲を心配させるまでになったが、明治三十五年に帰国を命じられるまで、研究を止めることはなかったという。

 一方子規は、病床で短歌や俳句、随筆を書き、最後には口述で書きつづけた。また、高浜虚子たかはまきょし河東碧梧桐かわひがしへきごどう、伊藤左千夫や長塚節ながつかたかしらの指導もつづけた。

 その死に至るまで。

 子規は、奇しくも漱石が帰国を命じられた明治三十五年に亡くなる。

 より正確には、明治三十五年九月十九日、午前一時頃であり、以来、この日を糸瓜忌へちまきあるいは子規忌しききと称する。


 ……漱石も子規も、ふたりとも、一度は黄金の林檎を落としたのかもしれない。

 けれども、それを拾おうとした。

 英国と日本、たとえ離れていても、ふたりは共に、拾おうとしたのだ。

 前のめりになって。






【了】


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